一体僅か数時間の間に、夜ってやつはどこに行ってしまったのだろうかと思う。はじけたのか、流れたのか、消えたのか。兎に角どこにも見当たらない。

 ぼんやりとそんなことを考えるのはやはり、僕が未だ寝惚けているからかも知れなかった。背後から漂うのは完全に覚醒した気配であるのに、僕はと言えば未だに覚めない頭を持て余して誤魔化すように欠伸をしている。
 眠いな、と。
 そんな当然のことを思って、それだけだった。

 最近気付いたことだけれど、僕は朝起きてから何かを口にするまでの記憶が曖昧なのだ。覚えていない、と言うよりも、いっそ何も無かったのではないかと思うほど。朝が弱すぎるのだ、恐らく。
 まず朝眠りからひきずりだされてから“起きる”までもかなりの時間が掛かる。今は大分とまとまった思考が出来るようになってきたが、正直、眠りから覚めてどのくらいの時間が経ったのかは答えられない。
 酷いタイムスリップだ。軽く零したえみは乾ききった舌の上、上手く音にならないままばりばりと鳴った。

 赤ちんは、朝、弱いねえと。敦はいつもそんな僕をわらう。きっと今もそうだろう、確信めいた気持ちで思った。だって背後でほどけたわらい声が響いたから。わらい顔が安易に想像できたから。
 ままならなくなってしまったなあ、と、思うのだ。

「おはよう?」
「・・・・完全にとは言えないけれど、まあ、とりあえず。お早う、だね」
「赤ちんにしちゃあ上出来だよ。さっきぜんぜん意志のそつーってやつができなかったもん」
「・・・・・・・・話しかけられたか?」
「え、そこも曖昧なん」

 想像以上にひっでえ、きゃらりとわらって紫原は寝転がったまま肩を揺すったのだろう、振動が伝わってきた。振り返ろうと身体をひねってみたけれど、背後からがっちりと抱きすくめられていて動けない。

 ぬるい体温だ、と思う。
 僕のものよりも高いその温度がどうにも心地いい。冬の外気はきんと冷えて暴力的なまでだったから、余計に背後で温めてくれるような胸に甘えるように身を寄せてしまう。
 らしくない、と思うと同時に、眠いな、とも思う。寝惚けているのだ、やはり僕は。

「曖昧だし・・・覚えていないな。何か言ったのか」
「ん?んーん。別に、たいしたことじゃねーし。あれだよあれ、ほら、あれ」
「解らんどれだ」
「だあかーらあ。あれだってばー」
「どれだって言ってるんだが」
「あーれー・・・・あれ?あれっ?」
「聞くな。そして何かに思い当たるな」

 ろれつが上手く回らない。た行、が特に発音しづらいだろうか。どうにも舌がもつれて、明確に話せている自信が無い。
 それでも敦は聞き取れているようで、意外と寝覚めのいいそいつは僕の様子など知ったことではないと言った風にくるくると腹が立つくらいなめらかに舌を回す。楽しげなその声が後頭部にぶつかるたび、普段なら黙殺するだろうに律儀に返答してしまうのは思考する前に条件反射でことばを紡いでいるからだろう。

 ねむい、と思った。二度寝の誘惑とはどうしてこうも甘美なのだろうか。このまま、まるで夕方のように橙に染まった部屋で体温に溺れるようにしてねむれたら。
 酷く気持ちがいいだろう。

「ねー、あかちん」
「うん?」
「赤ちんは負けたら死ぬ訳?」
「・・・・・どうして?」

 どうにも脳の芯が鈍っている。普段なら別のことばで答えただろう問いにも、うまく考えがまとまらずに問い返すことしか出来ない。質問に質問を返すのは趣味では無いのだが、と、思ったけれどもう遅い。
 僕の喉は音を発したあとで、敦の耳もそれを拾っている。
 取り返しのつかないことと言うのは、意外とそこらじゅうに転がっているものなのだなあと、ふと思う。

「勝つことは息をすることと同義なんでしょう。それって、呼吸でしょう。・・・・ねぼけてるときに、いってたから」
「・・・・それでお前、僕が負けることとはすなわち息をしないことだ、と思ったのか」
「ん。まあ、ね」

 どこか歯切れ悪く敦は言う。顔を見てやろうと力を込めた身体はあっさりと抑え込まれていて、動けないままだった。
 やはり、僕と言う奴は弱い。起き抜けは特にだ。
 そうして頭の動くままに反応しない身体を持て余すようなこの感覚も、どうにも苦手だった。なんだか僕が僕でなくなっていくような、僕であった何かが剥がれてむき出しにされているような、感覚。

 敦の前でだけこんな風でいる、と言うことは、きっとそう言うことなのだろうとは思う。それでもなお、覚醒しきらない自尊心が静かに疼く。こんな僕で在っていいのか、ざわざわとうるさくなきわめく。
 けれど、と最近思う。
 僕を僕で在らせるものが、果たして今まで存在したことが、あるのか。

 どうにも赤司と言う存在は希薄な気がしてならず、そうして、きっと正しいのだ。

「ね、敦。漫画やアニメはみるかい?そのなかでは・・・・・しにたがりはしねないんだよ」

 心臓の辺りを押さえてみる。脈動を繰り返していることは、それは、生きていることなのだろうかなんてことを、思った。だってそんなこともう当たり前になってしまった運動で、心臓を動かすなんてこと、僕じゃない誰かでもできる簡単な行為なのだ。

 ただ、心臓の脈動がもしいきていると言うことならば、心臓が脈動をやめることがすなわちしぬことに直結するならば、僕ってやつは。
 なんて希薄だろう、と。
 思うばかりだった。

「漫画もアニメも、そつぎょーしたよ」
「おかしは卒業しないのにか」
「おれ胃、よんこあるからー」
「牛か。反芻するのか」
「にゃーお」
「残念ながらそれは猫だ」

 朝に焼かれた部屋は柔い白に染め上げられ、もともとそう物の多いほうではない敦の部屋の様子がさらに淡白になって目に映る。
 白いな、と。
 なぜかそれだけを思った。

「・・・・・敦。繰り返そう、どうしてしぬわけ、なんてことを聞く。僕にいきていて欲しいのかい。それとも、思い上がりだと嗤ってくれて構わないけれど。僕にとっての何かになりたいのかい」
「うん?」
「たとえば、比喩だが。心臓。そんなものになりたいと?」

 まさか。言ってそれはわらった。わらい声の、崩れてしまいそうなほどの柔らかさに思わず身が竦む。骨がすべて鉛に取って代わってしまったみたいだ。
 嘲笑されたほうがまだましだった。それならまあ当然のことだ、と、納得するだけであるのだから。僕なんてものはひとり勝手に終わるだけの存在で、他者の介入はゆるすこともゆるされることもないのだと、当然のことを再確認するだけの問いのはずだったのに。
 敦はわらう。可笑しそうに、柔らかく。僕を包んでいく、音声、は。

「赤ちんおれは、おれはあんたの」

 声音は。酷く、酷く、柔らかいのだった。洗い立てのシーツよりは使い込まれた毛布のような、どこか懐かしいあたたかさばかりを漂わせて。

「心臓じゃなくて、肺になりたいんだよ。あんたが、赤ちんが上手に呼吸が出来ることを手伝えたらって、おもうんだよ」
「、ばか」
「だよ」

 じゃないのか。続けようとしたことば尻がさらわれて、困ったような敦の声に溶かされた。ちいさなこどもを相手にするような口調に対して抱くのは嫌悪感や憤りではなく、どうしてだろう、安心するばかりで。
 心臓ではなく、肺にと。
 そんな比喩で伝えられた優しさに、僕が返せるものの何と少ないことだろう。彼はこんなにも僕に対して何かを与えようと、僕なんかにもそんなことをしてくれるって言うのに、僕はどうしてこうも曖昧なままただゆらりと彼の腕の中、漂うだけしか出来ないのだろう。

 ひゅうと、喉が鳴った。嗚咽かもしれなかった。

「ばかだ」
「うん」
「僕は、僕で在ることさえ、できないのに。敦」

 左胸のあたりを押さえて無理矢理紡いだことばは、弱弱しく部屋に落ちた。朝焼けの淡い光なんかでは消えてくれないその脆弱さとみずぼらしさに、らしくないなと、らしさもわからないままわらってしまう。
 目は、冴えている。眠気と言うやつは酷いものでいつの間にやら眠ってしまったらしい。僕だけをひとり残して。

「赤ちんは赤ちんでなくちゃあいけないわけ」
「・・・・え」
「おれは赤ちんって呼んでるあんたのことが、・・・、まあ、うん。だよ。おれはあんたで居てくれればそれでいーよ。赤ちんじゃなくてもさ」

 やはり僕と言う奴はずいぶんと希薄で、曖昧で、弱い。恐らく僕が思う以上に、霞みそうなくらいの存在なのだろう。
 例えばひとつ、ちいさな肯定だけで。あんたで居てくれればと言う、些細なことばひとつだけでまるで、まるで僕が僕で在ると言うことが酷く簡単なように思えてそうしてすうと胸が軽くなるような、それくらいには軽い存在なのだ。

 敦と居て気づかされることは多い。
 僕の未完成な部分をえぐってはでも完成する必要もないよねなんてわらい飛ばす、こどもじみた残酷さがまた愛しく、同時に憎いのも事実ではあったけれど。

「肺」

 心臓ではない。いきることを心臓の脈動としてしまうのならば、心臓をいつか失ってしまうかもしれない僕はしんでしまうことになるの、だろうか。
 肺。肺だ。
 呼吸の臓器。息をするための器官。酸素と二酸化炭素を奇麗に入れ替える袋。

 いきる理由ではなく、いきるための動機になりたいとそれは言う。
 僕の背中に流れるのは、ぬるいばかりの体温だった。どうか流れ落ちてしまわないようにと願う僕ばかりが馬鹿なのだった。

「敦」
「ん?」
「夜はどこに行ってしまったんだろうね」

 日は昇る。時計の針が示す時間は、だらりと無為に過ごすときの終わりが迫っていることを告げていた。
 起き上がり、支度をして、きっと何事もなかったように一日をはじめる。まるで告白じみた敦の台詞も、それに特に答えることも無かった僕のことも、全部朝と一緒に昼に消えるのだ。

 それは哀しくもあり、当然の摂理にも思えるのだった。恐らく真正面から向き合い続けられれば逃げ出したくなってしまう僕のことを、とっくに敦と名づけられた彼は知っているのだから。

「よる?」

 噛み砕けないようにくちのなかでそのことばをもごもごやって、彼は僕の頭に埋めていた顔を上げた。
 腕の拘束が緩む。そのすきに身体を反転させた僕のことを何と思って見たのだろう、目を細めて、敦はさらりと僕の額を撫でてみせた。ちいさなこどもでも相手取るように気の使われた仕草には腹が立たないこともなかったけれど、それよりも安心してしまうと言うのは―――ああ、いただけない。

 まどろむようにして思考を濁らせ彼の腕の体温に溺れることをゆるされていると言うのは、同時に、弱いこともゆるされているような気がして来て、僕が曖昧に溶けるのは彼のせいではないのだろうかとさえ思う。
 憎らしい。思うぼくに気づいているくせに、目の前でゆるみきった目元を晒したままそれはくちを開いて、ひとこと。

 よるなんてものはね、と。錬金術師でも真似るような口調でそれは言う。よるはね。

「おれがたべたよ。だから今はあさなんだ」

 ふ、と。僕の吐いた息が静かに敦の毛先を揺らした。きっとこの先の僕の死因はすべからく窒息死だ。



クロロクルオリンの肺胞




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