それがおれにこんな風にして頼ってくることは、恐らくはじめてのことなのだろう。覚醒しきっていない寝起きの頭でもそれくらいは解った。はじめてだったのだ。多分、すべてが。

 赤司と言う奴は、いつも、まるでそうでもしないと視力が落ちるんだとでも言いたげに睨むようにして目の前の景色を見据えているひとだった。まるで気高く在りたがるかのようにつりあげられた背骨のまっすぐさだとか、それに反して意外と細いばかりの首だとか、そればかりを眺めていた気がする。
 つまり、背中、なのだ。

 おれは赤司の背中ばかりを眺めて、隣を歩けず―――歩こうともせず、いつも最低限の声ばかりをお互いに投げ合っていた。
 そうでもしないと沈黙が耐えられないとでも、言いたげに。まるでおんなみたいな感情の延長で。

 だから背中と、そうして声は、よく知っていた。誰よりも知っていると言う自負もある。
 弾む声は言わずもがな機嫌が良い。平坦に、作られたようにのっぺりと抑揚の無い声は何かに失望したり、または絶望したときの声。潰れたように歪んだ語尾のことばは実は、逆に何かに期待を抱いたとき。肩甲骨がくるりと丸まるような猫背は眠いときで、反対にぴんと一直線に伸びているときは考え事の最中。
 たくさんのこと。
 図鑑にでも書き記せそうなほどにたくさんの、背中と声のことを知っていた。

 ただ表情はと言われると、どうにも思い出せない。赤司の顔を知らないことがあるわけもないし、真正面に一度も立ったことが無い、なんてありえない。
 だと言うのに、赤司の顔を思い出そうとした瞬間に、いつも脳髄が鈍く膿む。そうしておれはいつもぎづり、ざらり、痛む頭蓋骨の裏側を持て余しながら、そこで思考をやめてしまうのだった。

 だからながく、赤司の顔は知らぬままで居たのだ。

「おい・・・・、まだ、ねむっているか?」

 返事は無い。細くながい息が気管を這い上がってくる。抗うことなく吐き出して、寝こける彼の額を探るようにしててのひらを乗せた。直に伝わる皮膚の重み、体温に、訳も無く胸を打たれて誰にともなく誤魔化すような苦笑が漏れる。

 知らぬままで、いっそ瞳のいろさえ思い出せないままだった。これでは駄目だとは思っていたから、たとえば写真を見てみたりもしたのだけれど、そのときこそああこんな顔だったと思い当たって酷くするりと納得するのに、目を離した瞬間にまた忘れてしまう。何てことを、繰り返して。
 背中と、声。そればかりが雄弁で、表情はと言えば、表情筋のありかでも尋ねたくなるくらいに静かな男だったとは思うのだが。
 どう、にも。

「おき、ているさ」

 静かに空気を揺らした囁きは掠れて、細い。寝起きだからか、また別の理由かはわからなかったけれど、赤司の声がこんな擦り切れ方をするのだと初めて知る。
 鼓膜に突っかかりながら脳に落ちて行く声はどこまでも柔らかく、しんたろう、酷く暴力的に胸を焼いた。まるでいつくしむかのような音の作り方にどうしようもできなくなって、ああ、とだけこたえる。赤司にはきこえただろうか。

 おれのことばには答えないままくありとひとつ欠伸をして、それは眩しがるように目を細める。
 立ち上がり、赤司側の遮光カーテンを引いてやればベッドからは満足げな笑い声が二、三度ころころと上がって思わずくちびるを溜息が割った。

 仕方の無い奴。思いながら、それでも溜息に笑みが溶けるのは。

「ふふ。腹が減ったね」
「だし巻きか目玉焼きかスクランブルエッグかたまごかけごはん、この中から選ぶとおまえが言うのならば手を打とう」
「っはは、随分とアグレッシヴな四択だねえ」
「何だフレンチトーストが食べたいのか」

 もう片方のカーテンを静かに引く。じゃわ、音と共に薄い布は光を遮り、まるでこのいやにだだっぴろいふたりきりだけの部屋が取り残されてしまったような気になってくる。
 朝の光を遮るだけでこの部屋がここまで薄暗くなるのだと言うことを、ながくここに住んでいながらもいまさら、知る。じんと指先が痺れた。

「・・・・なあ」
「うん?」

 布団に埋もれるようにして沈んでいる赤司の顔は、やはり見えない。跳ねる毛先の赤ばかりが真っ白い布団には映えるなあと、そんなことを思いながらぼんやり、と。
 けれども沈黙をふさぐように追って響くだろう赤司の静かな囁きは、いつまでたっても訪れない。

 焦れる。

 痺れた指先の行き場を見失って、仕方なくポケットの中にねじ込んだ。つめの付け根がジーンズの生地に引っかかって鈍く痛み、擬似的な熱と共に指先に居座る。

「あかし?」

 またねむってしまったのだろうか。思い、ベッドに腰掛けて圧し掛かるようにして彼の顔を覗きこむ。掛け布団の下に隠れてしまったそれのことを思うのはなんだか背徳的な気がして、ポケットから引き上げた指先はふたたび行き場もなく空を舞った。
 そうして落ちる。

「・・・・・おい、?」

 あたまのかたちでも辿るようにして掛け布団をまさぐる自分の指を見下ろして数秒、返ってこない返事に項垂れる。饒舌になったと思えばくちをつぐみ、かと思えばくるくると舌を回しだす彼のことをおれが計り知れたことなど一度もないのだ。

 いつもいつも、舌と一緒に回されているようにも思える。弄ばれたと、つくった声でわざとらしく甘ったるく囁いてやれば、赤司はまた機嫌よく笑ったりもするのだろうか。それとも鼻で笑い、馬鹿じゃないのかと一蹴するのか。
 気分屋、なのだろう。恐ろしく機嫌の悪い彼に必要以上に関わって良い目など一度も見たことはない。

「赤司、」

 しんでしまったのか。

 そう、続けそうになって慌てて口をつぐむ。余りにも突飛でありえるはずなどないことを、まるでこどものようにことばにすることに対する羞恥もあったし、ことばにしてしまうことでそれこそ本当に赤司がしんでしまうような気がして、どうにも。
 ままならない、と思う。
 真正面から見つめあうことすらままならないこの距離のことを、おれは未だに何と呼べば良いのかわからない。

「・・・・・ねむった、のか?」

 昨日は土砂降りの雨だった。
 アスファルトに打ち付けられた雨は跳ね返り細かい粒をズボンの裾に散らし、まだらな模様を作る。ざんざんと響く雨音、窓ガラスを叩く水、それにまぎれるようにして細く、消え入りそうな音でひとつ鳴らされたのは、このマンションのインターフォン。

 確か、淹れたばかりのコーヒーの入ったマグカップでてのひらをあたためながら玄関へ向かった。こんな雨のなか、唐突に訪れるのならば高尾辺りだろうと見当をつけて。

 だが扉の向こうに居たのは高尾ではなく、誰でもなく、ただ赤司だった。

 頭のてっぺんからつま先まで模様もなにもなくずぶぬれになって、ここ数年で再び目元に掛かるくらいまで伸びた前髪からもばたばたと雨を降らせ、―――いつからか、左右非対称に染まった瞳ばかりをぎらぎらと光らせながら、今にも崩れそうな声でひとつ、おれの名前を呟いた。しんたろう。

 そう言えば今日はWCの決勝があったなとか、秀徳はどこまで勝ち上ったのだろうとか、開け放しの玄関から吹き込む風はやはり冷たいとか、様々なことが一瞬脳裏を駆け巡って、そして消えた。

 なにも。おれは言った。なにもいわなくていい。まるでおんなに掛ける甘ったるい囁きで、沈黙をゆるしたのだった。初めておれと赤司の間に容易く沈黙を投げたのだ。
 彼は頷いた。開かれたままの玄関で、ひとりぼっちのひとだった。そのまま消えたがるように、隠れたがるように、―――しにたくなったのだとでも、言うように。

 はいればいい

 そう言ったおれに、どこに、だなんて白々しく赤司は問い返す。おれが、どこに、はいると言うの。
 まるで無垢な瞳がただただ疑問を浮かべておれを見上げたからかふいにおれの喉は黙り、続けようとしていた意味が声帯を滑り落ちてゆくのを感じた。残酷なくらい明瞭に、感じたのだ。

 どこに

 もう一度繰り返した赤司の問いには答えないまま、彼の脇をすり抜けてドアノブに手を掛け、静かに引いた。ぎぃ、ごん。鉄か何か、兎に角金属でつくられたドアはおおよそドアらしくもない効果音と共に容易く玄関を外から隔離して、ずぶぬれの赤司を部屋に招き入れる。沈黙ばかりが横たわり、そうして、おれを見上げていた赤司は泣きそうな顔で微笑んだ。
 あ、だったか。
 そんな音がころりと、おれの唇を転がり落ちた。

 赤司の顔はわからなかった。
 けれど、ただ、微笑んだこと。それがどうにも美しいようで居て崩れそうでもあったこと。未だに少年の面影を残す顔がおれの目には酷く、幼く映ったこと。
 確実だったのは、そればかりだった。

 、赤司

 おれは呼ぶ。何、それは答えなかった。
 ただ抱き込んだ肩は随分と細くなっていて、ふと見下ろした脚は細い訳ではないけれど少なくともバスケをしているおとこの脚ではなく、―――玄関の扉を閉めたのはおれだったのだ。
 そうしてはじめて触れた赤司の肌は、やはりいつまでも冷えていた。

「おきているさ」

 先程よりも幾分か明確に声音を響かせて、赤司は腕だけを布団から突き出してひらひら左右にはためかせる。素肌のまま外気に晒したからだろう、唸るような声と共にすぐに引っ込めてしまったが。

「だったらそのままおきて来い。ホットケーキだろう心得ている」
「グレードアップはしているけれどねしんたろう・・・ひとつ気になることがあるんだが」
「何だ何だプリンが良いのか」
「・・・・・おまえな」
「はは」

 おれは軽く笑ったけれど、赤司は笑わなかった。ただいつの間に起き上がっていたのか、何もまとっていない上半身を、寒くは無いのだろうか、布団に包むこともなく晒したまま、無感動におれを見詰める。
 色の違う瞳。
 赤と、橙にも金にも成り代わる不思議な色の、ふたつ。真正面からおれを射るそれはねむりから醒め切っていないながらも鮮やかで、焼きつくようにして胸に飛び込んできた。

 そうだ、赤司と言うおとこは、こんな顔を、していたの、だっ、た。

「どうして」

 ことばは端的だ。それでも、昨日の夜―――おれが彼を招き入れ、馬鹿みたいだと彼自身が笑いそうな行為で彼を満たせればと俺が勝手に願っただけの行為、のことに対してだろうと言うことはわかった。どうしてに続くことばは、そんなことをしたのと言う問いなのか、ぼくみたいな奴にと言う自虐なのか、そこまではわからなかったけれど。

 瞳は凪いでいる。整った顔立ち。作り物めいた無表情。めもとは爬虫類のようにも猫のようにも見える、独特のかたちをして。
 いた。

「・・・・この家に、傘は一本しか無くてな。貸してしまえばおれが困る。だがおれは、一緒に濡れてやると言ってやれるほどにお人よしでもない」

 息を吸う音。赤司の呼吸音。無表情。
 どうしてと呟いた音が、いやにのっぺりと抑揚の無い声をしていて、赤司は一体また何にひとつ絶望したのだろう、なんて思った。
 絶望。
 赤司は一体、何を願ったのだろうと。

 叶えてやるのに、と。

「おれに出来るのは屋根を与えてやるだけだ。お前の雨に付き合ってやるような酔狂さは持ち合わせていないのだよ」

 言い、カーテンを開く。せいぜい眩しがれば良い、そんなことを思って、真横に思いっきり開いてやる。
 とっくに雨は止んでいるのだ。

「で、食べたいものは」
「・・・食べるラー油」
「朝から重いな」

 僕はもうコートを走れない。
 いつだったか落とされたことばの理由は、未だ聞いたことはない。その目のせいなのかもしれないし、またはありがちな故障なのかもしれなかった。
 おれたちは天才である以前に、ただの、高校生でもあったのだ。容易く操れることばなんてそう持ち合わせてもいなかったのだから。

「・・・・・有難う」

 何に対しての礼なのかも聞かないことにする。だからドアに手を掛け、引き、開いて。振り返って軽く頷く。それだけだ。赤司がそれで良いと思うのならば、おれもそれで良いのだ。きっとずっと、そうしてふたりで沈黙を埋めてきた。
 そうしておれが笑えば、つられるようにして赤司の無表情は少しずつ緩み、ほどけて笑みが浮かぶ。泣きそうに歪んではいない、ただ、穏やかな笑みだった。
 息を呑んだのは、呑んでしまったのは、どうしてだろう。

 この位置から赤司の背中は、見えない。



道化の化粧は耐水性か




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