しっているかい。

 と、いつも歌うような調子でそのひとはおれに問い掛けた。しっているかい、敦。おまえにわかるかい。
 しっているよと答えても、しらないよと答えても、いつも同じように奇麗にほほえんでいたそのひとのことを今更になって思い出した。のは、やはり今更のことだったし、思い出したからと言って何になることもならない。

 なんにもならないさ。

 これもまた、しっているかい、に続いて放たれるそのひとの口癖のひとつだった。
 例えばおれが、そんなことしっているからなんだってえんだよ、とか、苛立ちながら返したとき。そのひとは怒るでもなく、落胆するでもなく、やはりゆるゆるとしっているかいの笑顔をぺたりと頬に貼り付けたままに言うことば。
 なんにもならない。そうやって。自分で否定しつくして、ぜろにかえす自慰じみたその行為につき合わされるにはいつもおれだったように思えるけれど赤ちんのこと、もしかしたら黒ちんを相手にして同じように謎かけをしていたかもしれないし、ミドチン相手に語りかけてふたり腹の底でもえぐりあうような会話をくりひろげていたかもしれない。

 ただ、関係がないのだ。
 赤ちんが誰に対して何をしようと、おれにはてんで関係のないことだ。赤ちんがおれだけを見て、知っているかい、そうやって笑む一瞬があって。おれはそれしか知らなかった。だったらそれがすべてなのだ。
 単純にそう思う。するりと納得する。一切の疑問はない。

 そんなふうにしておれは赤ちんと息をしてきたし、これからもきっと変わらないのだとも思う。どちらかが窒息してしまっても変わらないくらいに、不変。

「しらない」

 だからまた同じようにかけられたことばには素直にそう返した。本当にしらないことだったし、――――しりたい、とも思わないことだった。昔から変わらないことだと思い出したからかもしれないし、また、違うのかもしれない。酷く曖昧。
 それでも赤ちんはやっぱり笑顔を頬に転がしたまま、みじかくなってしまった前髪のした、曝け出された顔を丁寧に歪めてことばを吐く。なら、教えてあげようか。

「月が見えるだろう?」

 と、空をなぞった指先は白い。夜でもないのに青空に浮かぶ月よりも、地球には似合ってないような気がした。それくらいの、何だろう。しらない。

 月を指し示しながら赤ちんは一度ちらりとおれを見て、そうして無表情に塗り替えた顔でまた空に向き直る。
 しっているかい、続くだろうことばをさらうようにしてまた同じことばを吐けば、赤ちんは少しだけ驚いたような顔をした後に軽やかに笑い声を零した。そう、しらないの。

「地球から見える月は一面だけだそうだ」

 拳を作っておれのめのまえ、横にスライドさせた赤ちんは珍しく機嫌がよさそうににこにことわらったまま手を揺する。月を模しているのだろう、生白い手の甲に思わずおれのそれを絡めようとゆびを伸ばせば、もうひとつ高い笑い声と共に手は彼の腰の裏に消えてしまった。

「月はあかるいだろう?・・・・だが、見えない裏は真っ黒だとか。ずうっと夜、みたいなものだろうね」
「・・・・よる」
「そう、夜さ」
「しらなかった」

 偽ることなく思いを呟けば、ひどく嬉しそうに赤ちんは目を細めた。まぶしがるようでもあるそのひとの様子につられるようにして一歩、近付く。
 いつもならば近付いた分だけ距離を取るのに、今日ばかりはおとなしい。
 その場に立ち竦むようにして張り付いたまま赤ちんは、静かに静かに、おれのことを見上げていた。

 月でも眺めているように。

「くらい、」
「裏側はね」
「表はあかるいのに?」
「自分で光れる星ではないもの」
「月?」
「そう。太陽の光を勝手に使ってるだけ」

 それも、しらなかった。
 言ってみれば、いまどき小学生でもしっているよ、と赤ちんは鈍く笑った。どことなく苦笑じみて歪んだ唇の端はどうにもいつもと違うように思えて、でも何とも言えずに黙ったまま。

 おれが赤ちんにしてあげられることはいつも、あまりにも少ないのだ。しっているかい、と問われて、しらない、と答えるだけ。それくらいしか出来ない。
 皆がしらないことをひとりだけしっている赤ちんはずうっと遠くて、いつも、隣に居るのに居ないようで。それこそ月の住人なんだよと説かれたほうが信じられるくらい、浮世から飛んで行っちゃっている。
 羨ましいと思ったことだけは一度もない。
 崇拝も、したことはない。
 ただ添えたらどれだけおれがしあわせだろうと、そんなことばかりを考えているだけだ。おれは器用じゃあなかったから。

 おれの願いも、赤ちんの思いも、いっぺんにどうにかできるなんて、思い上がりもいいところだろう。

「ねえ敦、しっているかい」
「しらなー、い」
「僕は勝負をしていると感じたことは一度もないんだ。と、言うこと」
「・・・・・・・・しらない」

 数分前の自分さえ他人みたいで、中学時代だったりの数年前なんかもってのほかで、昨日の晩御飯だって咄嗟に思い出せやしない。おれはなあんにも、しらないのだ。
 ただ、ひとつ。
 いつもひとつだけ、大事に大事に、抱えて。ここまでひとりで歩いてきた。

「それよりもねえ、赤ちん」
「うん?」
「おれが赤ちんをすきだよ。ってこと、ね、しってる?」

 それしか、しらない。おれはばかで。

「・・・・・しらなかった」

 それさえしらない彼もまた、馬鹿だった。本当になんにもならない問答だ。



「しらないままでいたかったけれど」