赤ちんが顔をかくすのは、なにかかなしいことがあったときだと知ったのはいつのことだっただろう。
 俯く、めを逸らす、不自然なくらいになにもみない、酷いときにはタオルを被ったり机の上にふせったままだったり、立てた膝に顔をうずめていたりする。ただしく、顔をかくすのだ。

 みないふりをしていたってあるものはそこにあるままなんだよ、いつだったか教えてくれたのは赤ちん自身だったというのに、彼がみないふりをしているなんてと。
 知った当初はそう、思っていたような気がするし、もしかしたら思っていなかったのかもしれない。
 どっちでもよかった。おれは考えるのがすきじゃあない人間だったから、たぶん、他の誰よりもどっちでもいいって選択をえらぶのがとくいなのだ。

 まるで黒いヴェールでもたらしているようなこころもとない赤ちんのじぶんのまもりかたはいくつになっても上達しないで、たどたどしい。
 かといって、たやすいからとめくりあげようとすればするほどもっともっと、篭るようにして心をころしてしまう。

 ややこしいひとなのだ。扱いづらいことこのうえない。本人もそれを理解しているからかくれたがるのかもしれないけれど、そんなのいっそ傲慢だ。放っておけるはずがない、おれが赤ちんの存在を丸ごと無視できるなんてそんなこと、有り得やしないのだから。

 傲慢。ひとのすききらいが激しい。そういうの抱えながらひととつきあうって疲れないの、いちど丸まったからだにといかけてみたことがあったとき、だからだろうと一蹴された。なるほどだからか。

「ねえ、赤ちん」

 それは今でもなおっていない彼の悪癖のなかのひとつで、完全に拒否されることも受け入れられることもないような頼りなさにはどうすればいいのかわからなくなってしまう。まるでおんなのこの、ような。おんなのこのようなのに、聞いて欲しがるようなおもわせぶりな仕草はぜったいにしない。
 一緒に居て。傍に居て。そんなふうなところも、ないのだ。
 きっとおれが今このひとを放ったままこの部屋からでていって、さんざんに遊んで帰ってきたところであっさりおかえり、遅かったね、とか赤ちんは言うのだ。時間で解決するひとだから。

 わかってはいる。理解してはいるのだけれど、放っておけば置くほど有効だとはおもう反面、よわりきっている赤ちんというものにどうにもこうにもおれは弱い。免疫がない、以上に、対応すべきなのだろうけれどどうすればと右往左往してしまう。つい、はやく元気になって欲しいと、おせっかいにもおもってしまうのである。

 初めてみないばかりの赤ちんに遭遇したのは、中学二年生の夏のことだった。
 いきぐるしいくらいの夏、熱気、湿気、影を縫うようにして階段をのぼって、視聴覚室へとすべりこんだ。さぼってやろうとかかんがえて。峰ちん曰く、おれはスポーツ推薦をもらえそうってことだったから、べんきょうなんてどうでもよかったし。
 まあ、そんで、つまさきをつっこんだ暗闇のおくには赤ちんがいた。だあれもいないがらんどう、真っ暗にきれいに染め上げられたまっかなひとは、ひとりでちいさくちいさく、すべてからかくれたがるように。

 どうしたの、とおれはきいて。
 赤ちんはなにも答えなかった。

「赤ちん、聞いてる?」

 それは今も変わっていないことだよなあとおもってつむじあたりを突いてやれば、不機嫌そうに上げられた唸り声と共に叩きおとされた。まったく、ひどいおとこね。

 ただただ投げ出された足ばかりが細いようにおもえる。ほんとうはそんなことないのだろうし、きっと同年代の子にくらべたら彼の足なんて鍛え上げられた筋肉のかたまりそのものなのだろうけれど、なまじおれの方がでかいせいでいつも彼は華奢にみえてしまう。

 よく怒られる。にもつぐらい自分で持てる、お前がドアを開けるな僕が開けるから、エスカレーターで先に乗せるなおんなあつかいするな、うんぬんかんぬん。
 ちいさくてほそいイコールおんなのこなおれとしては反射的にジェントルマンになってしまうのだ。レディーファースト、というよりも、おれが後ではいらないとつっかえるって意味もあるけど。

「・・・・僕があおいろを描きたいとしようよ」

 聞いているのか、いないのか。微妙なところの赤ちんのこたえかたは点で的外れな音をしていたけれど黙ってうなずいた。声は出さない。
 殻にこもって、そのままできあがることを望んでいるようなこのひとに、わざわざおれの存在をしらせるような必要もないとおもったのだ。

 音がきこえないと、耳はきいんとうるさく鳴るという。音をもとめて、つくりだすのだったかなんだったか、とにもかくにもきいんと金切り声でさわぐらしい。おれはしずかなほうがすきだけど。
 赤ちんはどうなのかな、耳をくるりと両手でおおってしまっているそのひとのちいささをながめて、ひとつ思考をぱらぱら中空へ散らした。

「でも、みんなカンバスにはだいだいいろを描かないといけない」

 空のはなしだろうか。おもってふと真上をみてみたけれど、ぶわりひろがるまえに天井に仕切られてしまっていた。あまりにも無愛想なまっくろの浮かべ方に目を細めて、ちいさく、ほんとうにちいさく唸る。赤ちんには聞こえていないといいけれど。

「仕方ないから僕はあおいろを諦めて、だいだいいろでカンバスを塗りたくるんだ。だれよりもじょうずに」

 鮮やかで、うつくしい、あお。赤ちんならたしかにそれくらい、いやでもなんでもきれいに塗ることができるんだろう。かれのことばだけは傲慢でもなんでもなく、しごく当然のことだった。
 誰よりも、ひいでていること。おれのまわりにはそんなことがとくいすぎるひとが多いようにおもえた。

 たとえば峰ちんがいい例だ。すきなのにとくいすぎて、だめになっちゃったばかなやつ。

「・・・・それでいいし、文句もない。そんなものだとおもっている。とっくにろくに思考もしないこどもみたいな同級生たちへの興味も失せた。ただ、」

 部屋はずうっと、ずうっと、くらい。カーテンの隙間からひかりがさしこむ、そんな都合のいいこともなく、どうしようもない暗闇ばかりがおれの目玉にとじこめられるばかりだ。

 そんなものをすべて、かかえてせおってだきこんだ赤ちんは、やっぱりちいさいようにおもえる。おれがおおきいからでもない、かれが座ってからだを丸めこんでいるからでもない、ただひとつだけ確かに、ちいさいのだと。
 このまま消えてしまいたい、そんなちぢこまりかただった。ひどく不器用にいきているひとだと、おもった。

「たのしいのだとおもうんだ」
「たのしい?」

 自然にこぼれてしまったおれのことばが赤ちんの消えそうなことばじりに縋りつくようなひびきかたをして空間をみたした。あまりにもたよりない呟きに、どうしたらいいのかもわからないままかれの前にすわりこむ。衣擦れの音のちかさにきづいたんだろう赤ちんは肩を揺らしたけれど、顔はあげないままだ。もっと、沈んでしまいそうなほどにふかく、膝に顔を埋めるだけ。

 このひとはこんなにちいさかっただろうか。

「今に満足している反面、たのしいのだろうなともおもう。ひまのつぶしかたばかりに躍起になって、休日他人で予定をうめることが快感で、ろくにメールもしないのに増やしたアドレス数をともだちの数だと錯覚する。ばかみたいだけど、でも、らくないきかたをしていると」

 たまに。ほんとうに、たまにだけれど。
 いいわけのように付け足されたことばは音になりきらないまま、みっともなくかすれてただおれのてのひらだけに落ちた。

「おもうんだ」

 性格のちがいではなく、もう、感覚のちがいだとしかいいようのない赤ちん自身のこと。
 そうして知るのは、彼が顔をかくすのはひろがる景色を遮断しているというよりは、ひろがる景色からじぶんの存在を消したがっているのだということ。
 なんてかなしいまいごだろう。

 そうっと頭にふれてみる。さらさらとしているようでかたい髪質がゆびさきを突いて、それでもかえりみずてのひらをゆっくりと左右にながせばかれの髪は従順におなじようなうごきをしながらおよいだ。暗闇のなか、映える赤色のくちべにじみた赤さははでなことこのうえなくて、おれの、黒ばっかりだった視界をはしからあかいろに染め上げる。例外などないままに。
 あおいろも、だいだいいろも、ない。おれの空はずうっとあかいんだよ、たとえばそんなことをかれに伝えてみたとしても、かれがすくわれるとは到底おもえなかったから、おれはながいあいだくちをつぐんでいた。

 よわよわしいこわねを最後落としたっきりだまっている赤ちんと、ふたりでつくった沈黙は深い。おれは今どこまで沈んでいるのだろう。静寂はつめたい味をしていた。

「赤ちん」

 頭からてのひらを、もうすこしだけながして。耳をふさいでいたかれのてくびを掴む。
 つめたかった。血のかよっていないようなつめたさは、硝子じみていて脆い。それでいて筋肉質な腕は、たしかにスポーツをするひとのからだのいちぶだ。

 ひどくアンバランスなそのからだ、耳にはりつく皮の厚いてのひらをゆっくりと剥がす。おきにいりのシールをていねいに剥がしていくあのかんじ、すこし持ち上げて、やぶれないようにしわがつかないようにと気をつかうゆっくりした動作。

「きこえる?」

 そっと、鼓膜をきずつけてしまわないようにと細心の注意をはらいながらささやいた。声帯をきょくりょく震わせないように、低くちいさく広げた声音の端。
 掴んで赤ちんは顔をあげる。まなこばかりが張っていて、うすく開いたくちびるはただ息ばかりをくりかえしていた。
 いきている。ただ、不器用なまま。そればっかりが胸を突く。

「おれは、たのしくなくてもいいよ、赤ちん」
「、なにが」

 音がないからこそきいんと耳のそこでうるさく鳴りひびく音があるのなら、赤ちんがそれを嫌悪するのならば、めんどうな思考をたくさんして、たべるばかりの舌をまわして語り続けるのもわるくはないのだ、おれは。

「それにね、あおいろを塗った赤ちんのことをじょうずだねって、ほめてあげるしー。あとは、ひとりになりたいあんたをひとりにさせないし」
「だから何だって」
「だから。おれは、たのしいとかいくないとかわかんない。赤ちんと居るならそれでいーよ。たのしいたのしくないであんたといない。あんたもそうだろ、・・・・だよね」

 聞きたくなくて、遮った。赤ちんがいったことはおれのいってることとは全然ちがったのに、ぺらぺらはなすおれってなんなんだろう。

 ただひとついえるのは、赤ちんだけはどっちでもよくないとか、そういう。

「・・・・・ばかみたいだ」

 顔をかくしていたそのひとが顔をあげている。ちいさく、わらって。かれがいたっとおりにばかみたいなおれには、これからどうすればいいのかがわからなくていたたまれないままに立ち上がった。
 そうして窓をおおう、分厚いカーテンに手をかける。赤ちんを見下ろす。おれにはこれくらいしかできないなあ、そんな無力さをかみしめながらみつめてみる。

 赤ちんは何もいわない。だから、このはなしはおしまいにしようと勝手におもってカーテンをひいた。部屋はあかるくなるだろうか。



シシー・ボーダー




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