宇宙のはてとは果たしてどこにあるのだろう、だとか、そんな無意味なことを考えながらペダルを踏み込んだ。

 例えば一メートル進むだけで一緒に、昼を連れていく。昼だけ連れて走っていく。そう考えてみるとどうしようもなく甘美なひとときのように思えた。
 昼を連れていけば残るのは夕暮れが先だったっけ、夜がはやくに訪れたっけ。ぼやりと思いながらもうひとつ、力強くペダルを回せば、ぐうんと景色は背後に流れ落ちて目前に展開するのはだいだいいろに染まった通学路。どことなく物悲しさすら感じさせるそんな空間を、おれと真ちゃんを乗せたへんてこなマシンが突っ切った。

 ひろい、と思う。目にうつるすべてがあまりにもひろくて、知らず目が眩んだ。

「手馴れてきたな。否・・・・この場合においては脚慣れ、か」

 ことばの端から順番にえがおをちりばめた音で、そいつはおれの耳の裏を撫でた。からかうように跳ねながら鼓膜を包む柔らかさを、おれはまだ見たことがない。きっとこれからも見ることはないのだろう。
 前だけ見て、漕ぐ。ぐうん。
 後ろへと流れた景色を、真ちゃんはその長いゆびで引っかくのだろうか。それともただ無感動に眺めながらテーピングを巻いた人差し指でもひとなでするのかな。
 ふうと、吐息と共に添えた笑みをだいだいいろに混ぜ込みながら。

「たくよお。いっつも漕ぐのおれじゃんか。そりゃあ、嫌でも慣れるっつうのー・・・なー真ちゃん、もうすぐ交差点だかんね?今度こそおれの下克上ターイム」
「勝てるのならば勝てばいいさ。文句は言わん」

 傲慢。首をすくめれば、くつくつと喉の奥で笑みを鳴らして真ちゃんはおれの腰の辺りを缶で突いた。早く走れ、無言の促し方はやっぱり傲慢で、肝心なところでことばにしない不器用さだけが相変わらずで。
 つられるようにしてこぼしたおれの笑みも、だいだいいろに溶ける。

 空の隅は藍色に染まりかけて、きっともうすぐあれが紺色に移ろい最後には黒く澄むのだと知る。目じりを過ぎる風はわずかなつめたさを秘め、もうすぐ冬であると密やかに告げていた。
 振り切りたくて、深くつよく、踏み込んだ。一瞬跳ね上がった車体はすぐに左右に振られながらもまっすぐに進んで、後ろで真ちゃんがちいさく唸るのが聞える。
 真ちゃんと一緒の冬は、恐らくあたたかいのだろう。雪が降って、積もって、あたたかい冬。

「なー真ちゃん。宇宙ってさ、広がったり縮んだりしてるらしいね。あー、広がり続けてるんだっけ。まあいーや、とにかく、おおきさは決まってないって」
「星同士の距離も変わる、とは聞いたことがあるのだよ」
「あっはは、博識ー。にしても、ちょっとぞっとしちまわねえ?目に映ってるあの、青いののね、奥。決まってない。まぼろしみたいだーって」

 あと冬をいくつか重ねただけで訪れるおれと真ちゃんのさよなら。ひとは、まだ何年も先じゃないかと言うけれど、おれにとってはまばたきよりも暴力的に訪れる一瞬だった。
 試合だってそうだ。三年有るのだから、そんなの言い訳にすらならない。最後の一年を必死で駆けているひとが同じコートに在ると言うのに、そんな逃避は嫌悪されてしかるべきだろうし、隣の天才だっておれに見損なったとも告げずに静かに失望することは知れていた。
 時間に言い訳は通用しない。同じように、同じ速さで、通り過ぎる。掴めない。はてがないのだ、流れるだけで。

 一緒にいたい。ではなく、試合をしたいひとだったからこそ、三年先のおれと真ちゃんの関係は今から続きはしないのだろうとかなしみもなく思う。酷く自然に。

「ブラックホールのなかって、時が止まってるんだって。――――マジかなあ」
「・・・・・・酸素はないぞ」

 構わないとは言えないまま。ただただ景色を彼に渡していく。今度は少しだけくらくなっただいだいいろをしっかりと、手入れのされた彼の掌に放り込む。
 受け取ってくれているのかはやっぱり解らないままだった。だっておれは振り返らないし、真ちゃんはおれを呼ばない。ぎ、ぎい、軋むような音を度々立てて前だけ進むいびつなマシン。少なくともタイムマシンでは、なかった。

「時くらい止められる」

 さらりと、受け入れているすべての事実を未練がましくなでるようなおれの思考を打ち切ったのは傲慢な声だ。きっと腕でも組んで尊大な態度をばらまいているに違いない、そう思えてならない驕りにまみれた声。
 才能と努力と実力に裏打ちされた真ちゃんのことばは、いつも鋭利におれの肺をえぐるのだ。

「おれがシュートを打つだろう。あの、一瞬。あのしいんと静まり返るあの一秒、よりもさらに短いかもしれないまばたきの間。あれを」

 腰の辺りを。
 まるでおまじないでもしているように甘やかすしぐさで、真ちゃんのゆびが這った。ところどころ突っかかるのは、あのテーピングのせいだろうか。彼の、それこそおまじない。大事な大事な願掛け。

「時が止まっている、と呼ばずして何と呼ぶ。奇跡ではない才能でもない、おれの、おれが、努力して得たあれが。一瞬だ」

 彼のシュートで試合が終了したとき。ブザーが鳴るその少しの間、かすめるように、真ちゃんは左手のゆびさきにちいさくくちづける。うやうやしくいつくしむように、唇を落とすのだ。
 何度か見たその癖か、またはおまじないの延長か、どこか遠いその行為をいつも眺めていた。

 シュートで時が止まってくちづけで動き出す時を。そうだな、おれはいつもいちばん近い遠いところで、見ていた。
 見ていたじゃないか。

「そしてお前がおれのシュートを、いつも絶対に見ているから」

 へらりと誤魔化すような笑みがこぼれた。真ちゃんは後ろに居るからおれの顔なんて見えないだろうけれど、ただひとりでいたたまれなくなってちいさくわらう。
 崇拝にも似た気持ちでいつも軌道を追うおれのことを、何だ、知ってたのかよ真ちゃん。

「おれはシュートを落とせないとも思うのだよ」

 腰の辺りを、二度。彼のてのひらが叩く。おれよりも大きくておれよりも大事に大事に仕舞われているゆびのくっついた手が叩く。落ちない、言い切るのではなく、落とせないと言ったひと。

 目の前には逃れようもない、冬がある。後ろには逃げたくもない彼だけが居た。
 宇宙のはてに、彼は居るのだろうか。

「ありがとう、たかお」

 ぎ、ぎぃ、軋んだ音が真ちゃんのことばを優しく割る。丁寧に丁寧に砕く。
 唇を噛んで上を向いた。叫びだしてしまいそうなほどの衝動が胃の底を突き破りそうになって、どうしようもなくなってただペダルをふかく強く今のおれのせいいっぱいのちからで踏み込む。

 景色はぐんぐん、流れる。つかむ暇さえなく。

 目の前には交差点があってじゃんけんでもしようと思ったのだろう、真ちゃんがおれの腰からてのひらを外した。知ってた。
 だから右へ、景色を、振る。真ちゃんは何を考えているのだろう、驚いたような声さえ漏らさないままふたたびおれの腰へとそっとてのひらを戻して。遠回りだ。それだけをちいさく、ちいさく、夜に染まり始めた空に落とした。
 宇宙の広がる空はやっぱり、ひろい。全部、ぜんぶ知ってる。

 ただ、ブラックホールで息をする方法だけはまだ知らない。



たまらなくやさしく宇宙を割ろう


某サイト管理人さまへ送り付けさせて頂きました。
ただひたすらにすみませんでした・・・!