えっ。

 と、赤司くんのことばが中空に浮く。寝起きだからだろうか、上手くまとまらない思考をたぐりながら目を細めて、ほとんど条件反射で身体を倒した。
 えっ、呟いたっきり景色を眺めているはずの赤司くんのひとみはけれど平坦で、一度僕の額をするりと舐め取ってからとおくへ向かい、ぐるりと一周、たっぷりと時間をかけてやっと会釈をする僕のもとへ戻ってきた。酷く、酷く弛緩したまなこだ。

「・・・・お早う、テツヤ」

 声はかすれていた。朝から誰とも会話をしなかったのだろうとわかる、どことなくつっかかりながら吐き出される音はらしくもない感触で耳を撫でる。あまりにもゆるみきっている赤司くんの風貌と言うものは物珍しく、つい不躾な視線を送ってしまって頂けない。
 留まりきっていない制服のボタンを右手だけで、少しばかりおぼつかない動作できちんと留めた彼は二度、左右に揺れて。視線を上げる。
 僕を見る。吐く息は白く、彼の表情を不自然にかくした。

「奇遇だね」

 そうして笑んだ赤司くんはいつもの誰かだった。さきほどまでの無防備さなんて誰がたべてしまったのだろう、そう思ってしまうくらいに、目の前の少年は完璧な赤司くんとして整えられてしまっている。

 それが合図、とでも言うような動作だった。みだしなみを完全にきちりとまとめるだけで起動される何か、のような。
 わずか十秒ほどの時間だけ覗けたねむたげな彼はもう居ず、めのまえに在るのはしゃきりと背骨を一本に伸ばして能面のような無表情のままのひとだけ。

「そうですね。朝、逢うのは。初めてですか」
「ああ。・・・・・ふ、テツヤ、毛先がはねてる。洗面台の前には立ったかい?」
「ええまあ、立ちはしました」
「良いことを教えてやろう。朝の洗面台ってやつは活用してこそ役に立つ」
「耳に痛いですね。心得ておきます」

 流暢に話しはじめた彼の舌は、またはことばは、相変わらずくるくると良く回って断続的に僕を打った。淡々としているようでいてきちりと抑揚のついている彼の音はいつもナレーションを思わせる。朝の番組よりも直に覚醒を促すきわめて無毒なことばの羅列は、けれどそう騙っているだけでたくさんの意味を含んでいる。
 赤司くんの場合は、時折、ほんとうに何にもならない会話をしていたりするから気は抜けないのだけれど。
 彼曰く、戯言。暇つぶし。お喋りと言うより話し続けるだけの情報量と話術を持ち合わせているひとの暇の持て余し方はいつも粗野で、近くを通り掛っただけで難題を吹っ掛けられる。

 一度、悩んだ挙句にわかりませんと、申し訳なく思いながら言った事がある。
 すると赤司くんは満足げに目を細めてのたもうた。僕も解らなかったんだけどね。

「寝相が悪いのかな。それとも、布団を頭まで被るタイプか。たまに居るよな、お前どうやって寝ているんだ、と言う柔軟ティックな寝方の奴」
「青峰くんが良い例でしょう。あのひと、顔を枕に突っ込んで、でも腰は上げたまま寝てたりするらしいですよ。しかも結構な頻度で」
「酷いな、」

 意味もなく遠くを眺めるようなめをして、赤司くんは僕の隣を歩いていた。そんなのいつものことだったし珍しくも何ともなかったけれど、あまりにも静かなその目にぞくりとして自然ゆびさきが内側に閉じる。
 何を考えているのか、なんて理解できたときはないのだ。今まで一度も。ことばを交わしていて一度も、理解できた気にさえなったことがない。

 時折、同じ制服をまとった誰かが僕と彼の横を追い越していく以外は静かな空間だった。この時間はほぼ通学途中の学生しか居ない道はどうしてだろう、未だねむっているようで、静かに静かに息を潜めている。

「朝が来ることは、嫌だね」

 それはいつだとも知れないいつかだ。

 隣を歩いてくれている赤司くんが隣からけむりのように消えて、すり抜けて、目の前の遠くのとおくでひとり歩く。何も省みず、けれどすべてを背負ったまま歩き続ける。
 そう言ういつかを、まるで自然に目の前に立ち上げることが出来るのだ。予感、よりは決まっていることとして鮮やかに。

「どうして、ですか」

 朝が来ることをいとう人間と言うのは、例えば、どう言う人種なのだろうかと思う。「朝が来なければいいのに、」恋人同士の馬鹿みたいな睦言だろうか。それとも明日が、朝が来ることをどうしようもなく嫌悪するひとか。朝が来ても何も変わらず始まる今日に、ひとり、落胆する誰かだろうか。
 赤司くんは、果たして。

「朝が来るといつも思うんだよ。ああ、泣き言ではないことを一応断っておくけれどね――――また僕は今日も、僕と居て生きなければならないと。思うんだ」

 一拍置いて。
 少し考えた後に毎朝、と付け足した赤司くんは何が楽しいのか無邪気に笑顔をつくった。こどもみたいに。こどものなりそこないのそのひとが。

 舌がやけどをしてしまったあとみたいにぴりぴりと痛む。叫びだしたいような痛みではないけれど、それこそ味の判別だけが出来なくなってしまうような痛みは途切れることなく舌全体にまとわりついたままじぐじぐと主張を繰り返した。ほんとうに、痛い。

「生きることは、つらいですか」
「もうひとつ伝え忘れていたけれど、僕はしぬ、しにたい、そんなことばを軽々しく使う奴を嫌悪している。命を軽んじる人間はきらいだ」

 命こそ軽んじないかわりに、自分をいちばん粗末に扱うひとは顔を歪めてそう言った。知らず喉がひきつれるのは、あともう少しであなたこそと詰りそうになったからだ。
 唇を噛む。あなたこそ、あなたこそ、何だ。

「僕はね、僕で居ることが別にきらいってわけじゃあない」
「なのに」
「でも。テツヤ、僕は未だおとなになりきれて居ないからね。こどもらしく、こどもで在ることを歯痒くも思ったりする。おとなならこうもままならないことはないのかと思いもするんだよ」

 こどもだ、と。言い切ってしまえるそのひとは、こどもであることは事実なのだろうけれど、やはり変に達観しているようだった。こどもは、僕は、何の反発もなしに今の僕はこどもであると言う事実はどうしたって受け入れられないと言うのに、このひとはどうしてこうも自然に受け入れられるのだろう。
 諦めるように。するりと、納得できてしまうのだろう。

 朝のきんと冷えた空気が冬が来ることを告げていた。もうまばたきをする暇さえなく、赤司くんがつらりとことばを重ねるほどの時間も空かず、冬が辺りいちめんを染め上げるに違いなかった。

「だから朝は、すかない。今日お前と逢ったこと、本当に驚いたんだよ。そうして同時にひやりとした」

 誰でもなかったようにも思える、朝の彼。無防備な表情は緩んでいて、無表情よりはいささか柔らかかった。
 当然だ。だって赤司くんも僕も、中学生だ。未だ十と少ししか生きたことのないただのこども。何も出来ない、ままならないのも仕方ないだろうこどもでしかないのだ。

 歯痒い。赤司くんに何を語れば良いのか、ろくに情緒も育っていない僕にはわかりもしない。

「テツヤ。大丈夫かな。今お前の目の前に居る僕は、ちゃんと僕かい?」

 そんなこと、他人に確認しなければ自分で居られないような気がしてたまらなくなる、そんな年頃を生きている。そんな不安定を渡っている、僕と赤司くんと、そうしてきっとクラスメイトたち。

 完膚なきまでに、こどもだった。僕に地球は回せない。

「赤司くんですよ」

 持っていることばのあまりのすくなさに歯噛みをする。本を読んでいると言ったって、容易く日常生活に活かせなどしないのだ。
 めのまえに居るそのひとひとりにさえ、思うままに操ることばで語れない。かと言って行動での表現の方法もわからない。かわりに表情で伝えられるほどに表情筋がうまく機能したりも、ない。
 乏しいとでも言おうか。圧倒的に欠けているものが多すぎる僕と、もしかすると彼。何を繋いだってきっと、ぴたりと合わさりはしない。

「きみは、赤司くんです。それ以外のなにものにもなれない赤司くんです」

 ならないと言った方が良かっただろうか。思ったけれどもう遅い。きっと意味として赤司くんの耳に届いてしまっただろうことばを、彼が今どんな風にして受け取っているのだろうかとぼんやりと思った。
 知らぬ間に、ふたり、足は止まっている。僕も彼もかなりの余裕を持って登校する人間だったから、遅刻はないとは思うけれど。

 そんなどうでも良いようなことを考えて、不自然に生まれた沈黙にしらないふりをした。いつまでもどこまでも、平坦な赤司くんのひとみは一体どこまでを見ているのか、それが測れなくてただ、怖い。

「なれない、ね」

 ぽつりと落とされた呟きは青色だった。
 青い色を、していたのだった。

「そうだね。・・・・・・・そうだ」

 何かに絶望するようにしてさらさらと落ちていくことのはの音を何と表そう。さらさらとこぼれるようにして落ちて、足元に広がっていく静かな呟き。囁き。

 だと言うのに、赤司くんは満足げに微笑んでいる。声音と剥離した顔ばかりが奇麗に笑顔を模っていて、何とも言えずにことばをなくした。
 絶望するように、言うのに。まるで救われたとでも言い出しそうなひとみの揺れ方を、僕は、僕のことばで、何と言えば正しいのだろうか。

「赤司くん」

 一歩、赤司くんが足を出す。つられて僕も一歩、二歩三歩、ふたたび無愛想に舗装されたアスファルトの上を連れ立って踏みつけるけれど、赤司くんの脚だけは朝を踏んでいるようだった。

「明日は寝坊をしましょう」
「、ねぼう?」

 咄嗟に繰り返しただけ、なのだろう。どことなくほころびのある発音のしかたでおうむがえしに言った赤司くんは首を傾げ、伺うように僕のひとみを見た。それを受けて、僕も微笑む。
 笑顔を形作って、しっかりと真正面から赤司くんを見るのだ。

「朝なんて気付かないまま、真昼に起きてしまいましょうか」

 一緒に。
 しっかりと、端から端まできちりと発音する。それから一緒に、登校しましょう。

「悪くないけれど。らしくもないな、テツヤ」
「逃避行ってやつです」
「愛のか。はは、本当にらしくないね。そして似合わない。まあ、らしくないのは僕も、か」
「はあ。そうですね。お互い、らしくないですね」

 明日の朝を想えば自然足取りが弾んでしまう。気の早い話だ。

「らしくない。うん、・・・・うん。だが、どうして?テツヤ」

 どうして。首をひねる。どうして。
 赤司くんはどうしてそんなことを聞くのだろう。

「はあ。そうですね、しいて言うのならば、あなたとの会話がすきだからでしょうか。あ、勿論、赤司くん自身がきらいだなんてこともないですけど」

 ふと見れば、目を見張って彼が僕をみつめていた。ひとみはおよそ十数分前に消えてしまった誰かを思わせ、ほころびを浮かべたままに揺らいでいる。
 困ったように眉が下がった。そのまま赤司くんは唇を震わせて、何とも形容しがたい表情を浮かべたまま一度だけ、柔いことばで空気を叩いた。

 えっ。



どうか、きみの朝が起きないうちに




- ナノ -