■よくできた原罪/ライベル風味:進撃

2013 05.20 ( Mon )

 部屋には柔らかな光だけがぼんやりと満ちていて、その薄く黄色がかった白が辺りの暗闇をすべて散らすことはなかった。残る闇はべったりと、まぶたの裏だったり部屋の隅だったりに張り付いたまま、黒くくろく影を落としている。
 見目ばかりが美しい光は、闇も、寒さも、消してはくれない。

「・・・さむい」

 思わず唇を突いたことばだったけれど、彼は半分ねむった声でどうした、と問い掛けてくれる。それがどうにも嬉しくて、やさしいなあとか思って、笑ってみる。うまく笑顔になっただろうか。

 仰向けになって目を閉じていたライナーは笑うだけの僕に何を思ったのだろう、頬をランプの光で彩りながら緩慢とした動作で寝返りを打って、僕の方に身体を向けた。その間も、普段は笑んでいてなお鋭さの残る彼の瞳はゆらりと揺らいだまま棘は無く、ちいさめの瞳孔の上に橙の炎が滑ることを許している。
 縋りたくて伸ばそうとした、指を。そっとシーツの下、内側に折る。わざと力を込めてみれば掌は鈍く痛んで、そんな、人間らしい痛みの感じ方をまだ僕ができることが不思議でならない。

 許されなくなったことは多い。何がよくて、何が駄目か。そんな簡単なことが解らなくなるくらいにたくさんのことが、もう、僕らには許されていないんだろう―――幸運なことに。

「寒い?」
「うん」
「、そうか」

 軽くライナーの口角が歪んで、彼は笑ったのだろうか、滲む思考でぼんやりと思った。笑っていればいいなとも思ったのは、きっともう優しさなんかじゃない。
 だって、今。僕の耳を揺らす誰かの寝息に対して思うのは、目覚めなければ幸せなんだろうなとか言う優しさとは程遠いものだ。彼、または彼女が今ねむっているのならば、油断しきってねむることが許されている人類の一員ならば、このままねむり続けているほうがいくらかましな最期が待っているだろう。

 僕らに殺されるよりも何倍もましな最期が待っているだろう。

「僕は。兵士じゃ、ない」
「・・・・おう」

 息を詰めることもしない。ただじっと、ランプの光の届かない部屋の隅でふたり、向き合ったままで。ライナーはただ僕のことばに頷いただけだった。瞳が遠くを見ることもなく、目に映る景色だけを見ていることを哀れだと言えばいいのか、共犯だとその鼓膜に囁きを吹き込んでやればいいのか、僕には解らない。そもそも僕がライナーに触れていることは、まだ許されていることの中に数えられているだろうか。
 否。

「だから心臓は捧げない―――・・・捧げていない。僕は戦士だ、」
「・・・・ベルトルト、それは違う」
「ちがう?・・・・今更?」

 目を閉じる。まぶたの裏で光の残滓が揺れることはなく、ただどこまでも真っ暗が真っ黒が視界を塗りつぶす。
 人間と言うものは良くできていると思う。まぶたがあれば、怖いものから目を背けることは簡単だ。目の上に幕を下ろすだけで、すべて見なかったことにできるんだから。

 僕にも簡単にできる逃避だ。ランプの光が見えないように目を閉じて、もう怖いものなんてないって、笑って言う。ああでも見なかったふりをするのはきっと、目を背けることよりもたちが悪いんだろうけど。

「俺たち、だろ。お前はよく自分がひとりきりみたいな言い方するけどよ、人殺しはお前だけじゃねえだろ」

 人殺し、と、まるで自然にライナーが落としたことばは確かに心臓を抉った。捧げていないからこそまだ僕の胸に収まっている心臓に、奇麗に、奇麗に切り込んでくる。やっぱり痛くて、まだ僕は傷つけたことに対して何と思えばいいのか解らないまま、笑う。最近どうにも笑うことしかできなくなっているような気がして、いる。

 この部屋が寒い筈がないことを薄く汗をかいているライナーは知っているだろうに、彼は何も言わない。寒いと僕が言ったから、そうかと応えてくれたのだろう。

 窓の外はもう暗く、夜であることが知れた。虫の声と、何か、けいんと鳴く獣の声。ざわざわと揺れる森の音。様々な音。すべてが近く感じるのにどうしてか、一番近くに在る筈の誰かたちの寝息ばかりがどうにも遠い。
 指先に乗せた罪悪感、が、どうにも。冷たい。だから寒いのだろうかと思ったけれど、今も指先に絡み付いてくる後ろ暗ささえも『罪悪感を感じている』ことで僕が救われたがっているだけなのではないのかと思うとどうにも嘘臭く思えてきて、その実何も掴んではいない指先を爪の先を掌から引き抜いた。
 ぢりと痛む。血が出ているのだろうか―――ちいさな傷くらいすぐ治るだろうけれど。

「もう寝ろ。それともあれか、ランプ、眩しいのか?」

 一瞬、まばたきを、忘れた。

 瞬間すべてを捉えた僕の視界に居たのは、何だっただろう。見なかったことにしていたものは結局何だったんだろう。

「うん、眩しい。だからねむれないんだ、ライナー、・・・・・・・ねむれないんだ」

 ねむって、目を閉じて、おきること。今日も生きることが許されているのだと思う朝。眩しさに眼球が、溶かされてしまいそうで。ずっと怖くて仕方ない。
 この部屋にあるのがランプでよかったと思う。部屋中を明るく照らすような灯りがともっていなくて、本当に、よかった。寒さも暗さも残る部屋だからこそ僕は昨日もねむれたのだろうし、ライナーとふたり、のうのうと息をすることを咎められもしないんだろう。
 視界を明るく、黄色がかった白が染める。太陽の光と似ても似つかない色であることだけが救いだった。

「ねむれない、のか」
「うん」
「そうか、それは難儀だなあ」

 苦味を織り交ぜた笑みをくちびるに引いて、ライナーはひたすらに甘ったるい眼差しをすうと細める。どうしようもない子を見るような、恋人を相手取るような、兎に角僕らには似合わない感情がぐるぐると煮立っている笑みだった。
 そんな笑みをまだ浮かべられるライナーにぞっと、する。同時に、彼にそんな笑みを向けられているということに対して酷く高揚している自分自身にもぞっとした。今更のことだった。

 見目ばかり美しいだけでは、闇も寒さも消せないのだから。何も知らぬ少女の愚鈍さばかりの目立つ歓声よりも、総てを知ってなお優しく微笑むことのできる彼の腐り落ちた心臓を僕は愛したい。

 さむい。

「けどなベルトルト。明日は早いから、もうねろ。俺はねむい」
「うん、解った。おやすみライナー、」
「おやすみベルトルト。よい夢を」

 よい夢を。さらりと言う彼に少し、心が煮立つのが解る。結局のところ優しいままの彼のことが妬ましいのかもしれなかった。

 彼の無骨な指先がランプの光をかき消す。ふっと部屋は闇に落ちて、誰かの寝息が鼓膜に絡み付いて酷くうるさい。

 閉じたまぶたの裏に散る光はやはりない。それでいい。残酷なばかりの世界を捉える瞳の上に蓋があって本当によかったと密に胸を撫で下ろす。だって僕はもう何も、よい夢だって、―――見たくない。

 僕は死ぬそのときまでずっとねむれないような気がしてならない。

「ああ、ライナー・・・―――よい夢を」

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