■記憶のなか不可視の偶像/緑→赤

2013 08.22 ( Thu )

「世界五分前仮説と言うものがある」

 赤司の酷く澄んだ声が大気を揺らし、そうして、その澄み切った声を追うようにしてぱちん、と音が響く。投了。間髪入れずに苦く吐けば、少し上目でおれを伺ったそいつは少しだけ口角を歪めるようにしてえみを形作った。

「…胡蝶の夢か?」
「ううん、それよりも水槽の脳の方が近いかな」

 ことばの隅の方に硬質な棘を忍ばせたような、そんな澄み方をしている声だと思う。きりきりと引き絞られた弓弦のような、磨き上げられた刃のような、どこか攻撃的な硬さを芯に持つ音。その音の周りを、くるりとつくりもののやわらかさとあたたかさで申し訳程度に包み込み、声としているような。
 赤司の声はいつからか、そんな、なんとも形容しがたい不思議なひびきと共に鼓膜を揺らすようになった。不思議なものだ。と、冷え切った心臓で思う。
 決して心で想うのではなく。

「今ここに居る自分と世界。目の前の誰か。それすべて、紛れもない“ほんもの”だと。証明できる人間なんて、きっとずっと居ないのだろうね」

 投了。考える前に、いや考えずとも決まりきった負けを前にして、酷くあっさりとそう吐いたおのれの声帯がどこか他人のもののように感じる。
 前は確か、確かもっと、悩んでいたような気がするのだ。負けを認めるのが癪で、少し時間をくれとどうあがいても負けの決まって居る将棋盤の前で唸っていたような記憶がある、気がするのだ。
 その記憶もどこか遠い。
 だから成る程、と納得した。確かに、ほんものを証明するのは難しい。腕を組み、唸るおれの前で、おれはいつまでも待ってやるよ緑間、なんて目を細めて可笑しそうにしていた少年が、確かに居たことなんて証明できやしないのだ。
 世界五分前仮説。または、水槽の脳のように。どこかの誰かに植え付けられた記憶ではないと、どうして力いっぱい否定することができるだろう。
 友人だったはずのかれのすがたかたちが思い出せないおれが。

「お前はひとり、証明できるだろう」

 そんなおれだと言うのに、唇を突いて出たことばはあまりにも滑稽でいっそえみさえこぼれるものだった。ばかみたいだ。もう奇麗な思い出になってしまった日々の片隅にこびりつく彼なら、そう言ってわらいとばしてくれたろうか。
 ひとり。と、反芻するように赤司は、相変わらず不思議な広がり方をする声で夕闇に染まった教室を揺らす。少し見開かれた目、解せないとでも言いたげに寄せられた眉はどれもつくりもののようにうつくしく、思わず目が奪われた。ああ、奇麗だ。どうしてかは解らないけれど、もう思い出せない奇麗な思い出の日々と同じくらいにうつくしい。

「ひとり。思い当たらないなあ。…まさか自分とは言い出しはしないだろうが、」
「赤司征十郎」
「――――なんだ」
「お前ではない。だが、お前だ。あいつのことは、他ならぬお前自身が証明してやれるだろう。あいつが居たこと、あいつが居ること、それだけは、」

 指先がくるりと、夕焼けを回した。
 いつもおれたちに的確な指示を出し、誘導する指先が、無骨な人差し指がおれの瞳の前でくるりくるりと回る。なめらかに動く関節とは逆に、その表情は酷くいらだっているようで、噛み締められているのだろう奥歯のすりあわされる軋むような音が僅かに聞こえる。
 燃えるような赤と対照的な、きらきらと輝く橙の瞳がどうしようもなくただしい軌道を描いておれの心臓を射抜いた。

「それこそ、胡蝶の夢だ。彼、赤司征十郎と、僕、赤司征十郎。お前は分けて考えているようだけれど、どうしてそう思える?例えば彼は僕が演じていただけの人格。例えば彼の中心がぽっきりと折れてしまって人が変わってしまった、結果が僕。可能性はいくらでもあるね…シュレディンガーの猫と同じさ。お前が僕をひらかない限り、僕の中ではさまざまな仮説が飛び交う。お前の望まない仮説さえ、ありえる。証明?ふざけるのも大概にしろ」

 緑間。

 久しく聞かなかった、けれども毎日聞いていた、おれの名。僅か四文字で構成されたおれの居場所をつくる音を響かせて、赤司はぎらぎらと冴えた輝きを宿す瞳をすがめておれを見つめる。決して睨み付けるのではない。じいっと、じっと、ひらいた瞳孔で見つめてくるのだ。

「僕が赤司征十郎だ。それがすべてだ。ねえお前―――…赤司征十郎はほんとうにふたり居ると思うのかい?」

 赤司とは、わらうときに一拍置いてからゆるゆると少しずつえがおをつくっていくような、時折裏返るほどに声を張り上げて指をいきもののように動かして指示をだしていたような、器用が過ぎて不器用な、そんなおとこではなかったか。
 この少年は。

「真太郎。お前の言う僕とは誰だ。証明はできないだろう、けれど、もしお前に僕が肯定されないとしたら」

 この少年は一体、

「僕は誰だ」

 怯えるように竦められた肩の上、歪む口角につくられたえがおはどこかいびつで、まるで泣きたいのをこらえているかのように何だか、儚い。


赤司おれはお前に敗北と言うものの味をしらしめてやりたかったのにお前のことをころしてやりたかったのにおまえがおまえをころしてしまったあとでおれはどうして赤司お前をころしてやれるとそう思うのか。

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