■環状線迷子/降赤

2013 05.20 ( Mon )

 どこに行くの、と声を掛けてしまったのは多分、どこを見ているのかも良く解らない彼が電車にでも乗り込むような自然さで線路に飛び込みそうに見えたからだ。

「しかし、お前は不可解なことを言うね」
「うん。今思えば。と言うか今思っても、不可解だね」
「だろう。それに今のお前も不可解極まりないよ・・・・一体、どこに行くつもりなの?」
「う、ううん?」

 決めてなかった。素直に言えば、心底あきれ返ったような顔をした赤司が中空を仰いだ。中々レアな顔を見ることができたなあとか思ったけれど、ことばにすると怒られそうなので胸の底の方に落としておく。

 飛び込みそうに見えたのは、けれど、本当のことだった。
 制服姿の赤司が何故か駅のホームに立っていて、緩く握りこまれた指にはけれど何もひっかかってはいなくて、心底気だるそうに瞬きをする瞳に感情はなく。二番線に電車が、告げる無機質な声に誘われるように、踊るように一歩、前に出された足は黄色のラインを踏み付けて。
 ぶわりとホームを風が抜けた。あの瞬間、行かないでと。おれが叫ばなければ赤司はきっと。

 ぐちゃり、なんて、音を立てていたのではないか。

「って言うか、赤司こそどこに行くつもりだったの。黒子に逢いに来たんなら、さっきの駅で電車なんか待ってなかっただろ。あっ、それか、あれ?黄瀬とか?」
「うん?いや、誰にと言うわけでもなかったけれど」

 がだ、ごん。がだご、とん。電車が音を立てて揺れる。車内にひとは少なくて、誰も掴んでいないつり革がぶらぶらと今にも落ちてしまいそうなくらい頼りなく左右に揺れていた。
 赤司は座席に座って、ぼんやりと窓の向こうを眺めている。ここら辺だと住宅街しか見えないだろうに、飽きもせず、穴が開いたって構わないって思ってるんじゃないかなってくらいじいっと、四角く切り取られた景色を見詰めている。
 何と声を掛けることもできない。これがおれじゃなくて、それこそ黒子とかだったらもっと上手く話すんだろうなと思うと。
 何故だか少し、息が詰まった。

「電車、すきだな」
「へえ。何か意外、かも」
「ははっ、だろ。我ながら似合わないと思う」
「いや似合わなくはないけど!」
「声。大きいよ、降旗君」

 人差し指で唇を塞ぐようにして、ふと赤司は目を細める。俗っぽい仕草が似合わないひとだと思っていたけれど、少し悪戯っぽく目を光らせる彼の姿は存外変なところはなくて、おれも何か楽しくなっちゃって、赤司の真似だ、立てた指を唇に当ててみた。

 ふたり見詰め合って数秒。吹き出す。小学生みたいだなと笑う赤司くんの声はちょっと怖くなるくらいに穏やかだ。

「それにしても降旗君、僕につられて良く解らない電車に乗り込んできたけど、僕に目的地はないんだよね。・・・・・本当に、一体どこに行くつもりなの」
「赤司と行くつもりなの」

 座席に腰掛ける彼に覆い被さるようにしてつり革を握るのは、多分おれが、今の間だけでも彼を閉じ込めたがっているからだ。遠い背中をつかめないから呼び止めるみたいに、彼を繋ぎとめる方法がわからないから椅子に縫い付けている。
 そう彼に伝えれば、それは稚拙な我侭だねと彼は笑ってくれるだろうか。

「、は」

 赤司の色違いの瞳がくるりと大きく広がって、ちかちか、光る。驚いているんだろう、薄く開かれた唇からはろくな音になっていない吐息が漏れていた。背後の透明な窓は赤司のまっかっけの髪の色を勝手に使って、薄く赤く色付いていて、ちょっと奇麗だなあとか思った。

「洛山でなんかあった、とかではないっぽいけどさ。考えなしに、ついで荷物もなしに、京都からわざわざこんなとこまで来るようなひとではないっしょ。まあだから、何か不安だしご一緒しようかなあって」
「・・・僕はどこに行くつもりもない」
「ごめん、残念なお話があります。電車には行き先があるんだ」

 ひとり、線路に飛び込みそうな少年が電車に乗り込もうとしていたのだと知って、おれも乗ると明らかに嘘だってわかり切ってる声を上げた理由はまだわからない。
 わからないままごとごと揺られている。

 車内に満ちる倦怠感がここちよく肩を撫でていく。平日の午後三時、まどろんでいるような空気。そのさなか、ひとりだけ追い詰められたような顔をしていた赤司はおれのことばに拍子抜けしたようにふっと身体から力を抜いて、そのままだらりと脱力してしまった。

「いきさき」

 絶望しきったような声、だったのに、そのことばの語尾はどこか幸福そうにぱたりと車内に落ちる。やわらかなことばじりを掴まえて、どうして?なんて問うてみれば、困ったように眉を下げた赤司は今にも消えてしまいそうなほどに薄い笑みをそっと中空に浮かべた。
 今、目の前に座っている少年は、本当に赤司そのひとなのだろうか。
 ふと思う。突飛な思考だったけれど、どうしてか、その疑問は正しいような気がしていた。この、何とも掴みがたいところのある少年が赤司なのではないだろうか―――そりゃあ、どの赤司だって赤司なんだけどさ。

 おれが掌をかけているつり革がきぃと鳴く。どことなく掠れた音に続いて、こととん、軽く電車が左右に揺れる。抵抗することもなく揺られる彼は、おれを見上げながらそっと肩をすくめた。

「飛び込みそうに見えた、んだってね」
「えっ、あっ、おお・・・!いやでもあれだな、今思うとすっげ失礼なこと言ったよな。うわあ、ごめん」
「いや、いいさ」
「でも」
「いいんだよ。お前の言うことは正しい。誤魔化してしまって、悪い」

 言って、きちりと頭を下げる少年の、赤く染まった後頭部を息を詰めて見下ろした。掛けることばは持っていなくて、ああ多分、言いたかったすべてはとっくに赤司に食われていたんだろう。

 掛けることばは亡くしたまま、無造作に投げ出されていた赤司の掌に己のそれを重ねてみる。つり革から外した指先でそうっと、なるだけ力を込めないように。
 手を繋ぐこと。意外と、赤司の輪郭はしっかりとしていて、厚くなってかさかさとした掌の皮の感触と伴うぬるい熱が腕から心臓にのぼってくる。彼が振り払わないから、おれも屈み込んだままの微妙な体勢でごとごと揺られる。

 座れば。見かねたのか赤司は言った。水分もことばもない舌が吐いた音は掠れたうんと言う二文字だけで、酷くひっくり返ったその音を聞いた赤司は吹き出して、車内の空気はゆるゆる暖かくて、もう自分が何を考えているのか解らなくなって来る。
 そもそもどうして彼は自分とそう身長の変わらない男に手を握られたままでいるのだろう。

 車内に満ちる静寂は優しく、眠りに落ちる寸前のとろりとした怠惰感がそこかしこに転がっていた。

「線路に飛び込む、ことは、しないけれど」
「う、ん」
「そんな風にして自分を痛めつけてやりたかったのは、本当だ。・・・・しにたかったのではなく」

 妙に高い体温を持て余すようにして、はたまた払い落としたかったのかもしれなかったけれど、赤司は首を振る。ゆっくりと。誰かに見せ付けるように。
 ぱらぱらと広がった髪の美しさに見惚れたのは、恐らく、車内でおれひとり。ひとってやつは空間を共有しているだけの他人に対して興味を抱かない奴が多いから、男同士で手を重ねていた所で見せびらかしたりさえしなければ気付かれることもないだろう。

 けれど、赤司が手を拘束されることを、誰かに自分の一部を明け渡すこと、それを許容しているのがどうにも不思議だった。もしかしたらおれが思う以上に、赤司征十郎と言う奴は少年じみているのかもしれないとか幻想を抱く、ことくらいはきっと許される。

「ふうん・・・いや、うん、難儀だなお前」
「自覚はしている。だからここに居るんだろ」

 あっさりと言い切った声が耳の奥を掻き混ぜる。彼のことばを反芻する暇もなく、少し特徴的にかすれた車掌の声が次の駅を告げて、そこでこの電車が急行だったことに気付いた。通りで停車する駅が少ないと思っていた。
 気付いた事実を脳内で転がしているさなか、すうと鉄の塊が駅のホームに吸い込まれるのと赤司が席を立ったのは同時で、手で繋がっていたおれも必然的にひきずられるように立ち上がることになる。足元に転がっているふたりぶんの学生鞄を慌てて拾い上げているおれに一瞥さえもくれず、赤司はひとっこひとり居ないホームにおれだけを連れて飛び込んだ。

「誰かに逢いたかった訳ではなかったからこそ、言おう。少なくとも今は一緒に遊んでくれるらしいお前」

 遊んで。単語に少し笑みを織り交ぜて、いつのまにか橙色に落ちていた空を背負って、彼は笑った。頬にひっかかっているのは霞んで消えてしまいそうな笑顔ではなく、晴れやかで、空の橙よりも美しい笑みだ。

「線路に飛び込んでしまう前に、君に逢えてよかった」

 言い、じわりと脳裏を侵食する色彩は目前の少年の髪と同じだった。空の橙よりも深く、毒々しく、鮮やかな赤。
 それをおれの視界にぶちまけて、赤司は笑う。いきさきなんて知らないくせに、全部知ったような顔をしているのが可笑しくてつられて笑って、ここどこだよ駅名聞いたことねえよとか思うとさらに愉快になってきて、多分こう言うのを楽しいって、言う。

 夕焼けに照らされて黒く澄んだ影を落とすホームでふたり。
 掴んだ手が振り払われなくて本当によかったなあとか思った。彼がどうして京都じゃなくてここに居て、しかも痛めつけたかったとか言い出す始末になったのかは解らないままだったのに、体温が繋がっているだけで全部解った気になってくるから、何と言うか。おれって単純だ。

「本当だよ、マゾヒスト」
「それは心外だ。でも否定はしない」
「何だそれ」

 例えばキセキの世代の奴等は、洛山の連中は、赤司がついうっかりでこんな所まで電車で来てしまうようなところもあるって知らないんじゃないだろうか―――と、思う。
 だから彼はここで、おれと肩を並べて手を繋いでいるんだろう。哀しいことに。

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