■ピアスホールに泳ぐ海/黄瀬

2013 05.13 ( Mon )

(黄瀬が耳に穴をあける日の話)

 静寂のあしおとがしている。それがどうにもうるさくて、体育館の隅、のっぺりとした暗がりに身を潜めながらちいさく誰にも気取られぬように息を吐く。
 唇の上をを空気が通り過ぎる音は、さかなが地上で喘ぐ時のそれにも似ていた。

「やはり体育館と言うところはどうにも暑いな、」

 声が、ころりと転がった。つられて顔を上げれば、スウェットに半袖のTシャツを重ねた部屋着着用らしい緑間っちがまるで興味がなさそうにおれのことを見ていて、仕方なくひらりてのひらをひるがえして挨拶の形をとってみる。ふん、馬鹿にするようにわらいながら、緑間っちも相変わらずテーピングでぐるぐる巻きの指先でおれのてのひらのまねごとのように湿気まみれの空気を掻いた。

「まだ居たのか」
「うん、」

 そのまま、続けることばを失ったおれのことを何と思ったのだろう緑間っちは無感動な瞳の上に景色を乗せたままぐうるりと首を回す。凝りなんて知らないんだろう、なめらかに回った頭、鮮やかな緑色の髪が体育館に満ちた蒸し暑い夜気を払いながら広がり満ちる。

 美しい軌道だ。彼のシュートとよく似た、寸分の狂いもない計算しつくされた美しさ。

「青峰は来なかったんだろう・・・・黄瀬。部室を閉める。はやく立って、歩くのだよ」
「アッハ。手、引いてよー」
「お前のように重いものを何故おれが持ち上げないといけないのか、甚だ疑問だ。その足は棒か?」

 とげとげしいことばのわりに、緑間っちはおれのことを本気で立てと促しているわけじゃないみたいだった。だから、相変わらずの彼の辛辣になりきれないところに甘えて、縋って、立てた膝に額を擦り付け駄々をこねるみたいに首を振る。潰れた音が喉の奥で響いて、我ながらそれは、嗚咽にも似ていて。
 いつからだろうと、思う。いつからこの体育館で、勝ったと歓声を上げるチームメイトの声を聞かなくなっただろう。
 最後にハイタッチしたのは、いつの試合のときだったっけ。

「・・・・運命は」

 と、そのひとは囁いて、転がっていたボールを拾い上げた。そうして何ともまあ腹が立つくらい軽そうに、もうおれにとっては重くて痛くてしかたのないそれをひょいと頭の上に持ち上げてシュートフォームに入る。

 3P。―――パ、と入るそれ。夏だからかな、ろくに運動もしていないのに汗が少し散っている。そう言えば彼のこのシュートに対して頼む入ってくれなんて、願ったことはあったっけ?

「変えられない。暇なら運命論でも読んでいるが良い。今のお前の姿は、いつか過去のお前になる。故に未来のお前は変われない――・・・・今ここに、お前のような『過去の自分』が居るのだからな」

 相変わらずのシュートと、滅茶苦茶なことば。このひとはいつだって美しいだけで滅茶苦茶だと思う。
 闇と熱ばかりが尾を引く体育館で好き勝手、発行する姿が青峰っちと重なって、やっぱり彼らは同種なんだよなあとか。もう化物じみているよなあとか。
 十五歳だ。自分を過信して傲慢、そんなある種の歳相応の振舞いことを、糾弾されたのはもう覚えていないほど前のこと。

 キュッ、とスキール音がする。
 体育館の床を這うラインを踏みつけて、ぼろぼろになったストイックな天才のバッシュが泣いたのだ。誘われても居ないのにゆるりと顔を上げれば、何とも言えない平坦な顔をした緑間っちが何かを哀しがるようにくちびるを引き結んでおれを見下ろしている。

 ただでさえ夜の体育館の端、ここは、暗いって言うのに。緑間っちが影を落とすものだから、もう、この暗がりに潜んでいるのか閉じ込められているのかさえ曖昧になってくる。

 酷くねむい。

「今日の自分は、否応なしに明日の自分へと続く。それが一週間、一年と重なれば、いつか未来の自分の背中に追いついてしまうだろう。だから俺は言う」

 たくたくと目前で海が揺れる。見覚えがあるような、ないような、極彩の青が広がっている。真っ黒な朝焼けが喉を焼く。鮮やかな、あざやかな、いろどりたちはすべて。
 憧れて止まない、色。

「人事を尽くしていない今のお前にも、ここに居ないあいつらにも、・・・俺にも――――誰にも。運命は変えられないだろう。この体育館の狭さを、俺たちは未だ誰も理解しきれていないのだから」
「、難解すぎて何が何だかわかんねえっスよ、あんたさあ。理解させる気ないでしょう」
「理解する気がないのはどちらだ?」
「・・・・・ああ、くそ。今の結構痛いところえぐってきた。故意?」
「ふん。何の話かさっぱり解らないのだよ」

 二度目、緑間っちはシュートフォームに入りはしなかった。バスケットボールを心底つまらなさそうに眺めながら、それでも指先ばかりが優しく、球体を掴んでいる。
 にんと彼は笑う。
 もう誰も居なくなったと思っていた体育館、わざわざおれの前まで来て不敵に笑う。ああ何故だろう彼だけは、もう皆が逃げ出してしまった夏の中心に未だひとり立っているような気がした。

「ただ、そうだなひとつ、教えてやろう。甘ったれたお前に似合いの、俺にしてみれば阿呆らしいことこの上ない話を。とっておきの話を」

 テーピングにまみれた指が夏の夜をまるで自然に指す。おれに向かってボールを投げて寄越しながら、ただひとり、この体育館に戻ってきた少年は笑う。
 待っているひとはいつも来ないなあとか、思ったりとかして。緑間っちにしつれーだよと、心の底のちっちゃいところに収まっているいつかの誰かが苦笑気味の頬をゆがめるのが何だか懐かしくて泣きそうになる。

 何だよ。
 揺れる海が涙だって、誰も、言っちゃ居ないだろ。

「その耳に穴をあけてみるが良い。お前のような痛がりの弱虫にそこまでのことをさせる想いがあるのなら、運命だって変えられるさ」

 何ともまあ解りづらい激励だろうと思えば、こぼれるのは苦笑じゃなくてただの笑み。何だかそれは、もうねむり落ちてしまったような体育館の空気には全然似合わなくて、やっぱりおればっかりがここに取り残されているんだろうなとそう、思う。
 今日終わるものは、きっと夏休みだけじゃない。そんで何かが終わった後に、始まるものなんてもう持ってない。




 ピアッサーの安いやつ。耳たぶに触れる、硬質なそれ。

 目を閉じる。浮かんだ色は、果たして何色だっただろうか―――、なんて。バスケ楽しかったなあとか思うのはどうしてかな。とか思う溶けきった脳に響くのは、ばちん、と、断ち切る音。肉に穴をあける音。柔らかな思い出の割れる音にしては痛すぎるそれに、ふっと息が詰まって視界の端が折れ曲がる。
 誰かの名前を口走って、ひとつ、笑った。緑間っちだってもう、おれに対してことばを投げてくれることは無いだろうに。

「・・・・痛いなあ」

 呟く。もう鮮やかな青色を彼以外に見ることはできないと、


 思っていた。

← back*comment (0)