7年の年月が経ち、かさぶたはとっくに跡形もなく消え去って、夏の夜の夢を思い返す回数も減った頃。 私は中学生になっていた。 いつものようにママと一緒の夕食を終え、2階にある自分の部屋への階段を昇る。 今日は数学の宿題がたくさん出たから早めにとりかからないとやばい。正直、気が重いけど。ほんっと微分積分なんて将来なんの役に立つんだろう。 胸の中でぐちぐち言いながら階段を終えて、自室の扉を開けると、秋の心地いい夜風が髪を揺らして、随分過ごしやすい季節になったなーと憂鬱な気分も少し晴れていく。 ………あれ。私、窓開けてたっけ? 「こんばんは、お嬢さん」 「へ?」 不意に誰かの声がした。 慌ててそちらに目を向ければ部屋の端、風に揺れるカーテンの隙間で窓枠に腰掛けた男の子がにっこりと笑っていた。 たなびく白いレースカーテンが羽根みたいに男の子の背中を泳いでいて、まるで天使みたい。カーテンが邪魔してよく見えないけど外から差し込む月明かりに反射した金髪が羨ましいぐらいに綺麗で……………………って、男の子!? 「き…きゃあああっ…んんぐぅっ」 咄嗟にあげた悲鳴は夜気で冷えたつめたい掌に覆われて、途中でくぐもってしまった。 それでも1階のママの耳にはしっかり届いてくれたみたいで、階下からママがよく通る声を張り上げる。 「どうしたのー!なにかあったのー!」 「ふ、ふぐ、ふうっ!」 なんとかして助けを呼びたいんだけど、いつのまにか背後に回った少年に口を塞がれて声がでない。じたばたもがいてみるものの、しっかりホールドされてしまって身動きすらとれなかった。 私を抱きこむ腕は筋肉とは縁遠そうな、これまた羨ましいぐらいにほっそりした腕なんだけど、押さえ込んでくる力は怖いぐらいに強くって、これが性差ってやつなのかと場違いなことに絶望した。ああでもほんと今ほど男女の身体の違いを恨んだことはない。私の無駄にプニプニした二の腕がこんなもやしみたいな細腕に負けるなんて、なんか理不尽だちきしょう。 「だいじょーぶ!虫が出てびっくりしただけー!」 ん?あれ?今の私の声?でも私、口塞がれたままだよ?てゆうか全然大丈夫じゃないし。 「もう遅いんだからあんまり騒がしくしちゃだめよー!」 「はあーい!」 !!!!やっぱり私の声だ!え、でも、後ろから聞こえてきたよ?私の後ろにいるのってさっきの人だよね?あれ?女の子だった?え、でも私の声だし。モノマネ?私の?んなアホな。え、え、わけわかんない。 振り向こうにも口元を覆った手が頭を固定しているので首を動かすことも難しかったし、背後の人物の性別すら定かでなくなって、恐怖を通り越した戸惑いだけが私の頭を占めていた。や、だって、ほんと、わけわかんない。 「怖がらないで。なにも酷いことはしないよ」 混乱する私に性別不明さんは“男の子”の声で話しかけてきた。さっきも聞いた声だし、多分こっちが地の声なんだろう。じゃあ、やっぱり男の人なんだ。 まあ、それはともかく。 こんな夜更けに年頃の女の子の部屋に不法侵入している不審者に怖がるなって言われて、はいそうですかと安心できるだろうか。いや、できない。 「いいかい?今から手を放すけど大声を出しちゃいけないよ。君のお母さんも心配するだろうし、こんな時間じゃご近所にも迷惑がかかる」 こちらを諭すような物言いに恐怖、戸惑いを通過して今度は怒りが湧いてくる。 なんで不法侵入者に常識を説かれなくちゃいけないんだろう。非常識なことしてるのはそっちじゃないか。 「それじゃ、放すよ」 私を押さえ込んでいた力が緩む。解放されたらすぐに急所に蹴りいれて、ママに警察を呼んでもらおう。そう勇んで振り向いた。 「……………え?」 結果だけ言うと、蹴りはいれられなかった。叫び声すらあげられなかった。 振り向いた先の不法侵入者の顔に見覚えがあったから。 「…………おうじさま?」 その人は7年前のあの夜に出会った王子様と同じ顔をしていた。 「久しぶりだね、リン」 「……………………………」 えーと、どういう状況? いや、落ち着け、リン。えっと、つまり、不法侵入者はあの時助けてくれたお兄さんだった…ってことでいいの?でもそれもおかしいよね。だって目の前の少年は私と同い年ぐらいに見える。7年前のお兄さんもそのぐらいに見えたから、それだと7年間まったく年をとっていないってことになる。それは変だ。あり得ない。じゃあ単に顔が似ているだけかな?でも今“久しぶり”って言ってた。それって前に会ったことがあるってことだよね?それじゃやっぱりこの子があの時のお兄さんで………………だめだ!わかんないよ!どういう状況、これ!? 「大丈夫?落ち着いて」 堂々巡りする思考に優しい声が降ってきて、あの夜とまったく同じことを言われている。私を見つめる眼差しの宵闇みたいな深さもいっしょ。その声と瞳で確信してしまった。やっぱりこの人はあの時の王子様なんだって。ちゃんとした理由なんてない、ただの直感だけど。 でもそれだとやっぱりおかしい。なんであなたはあの頃の姿のままなの? 「あなたは、いったい…」 「レン」 「え?」 「僕の名前。『あなた』じゃなくて名前で呼んで、リン」 「あ、そ、そういえばなんで私の名前知って…」 「君のことはなんでも知っているよ」 ……なんか爽やかにストーカー一歩手前な発言をされた。でも綺麗な笑顔で言われても怖いとか気持ち悪いとか感じないから、美形ってやっぱり得するんだなーとか妙な感心をしてしまう。 …………って違う!そうじゃなくて! 「そ、そうじゃなくて!なんで私の部屋にいるの?あなた、7年前のお兄さんだよね?なんで年をとってないように見えるの?それにさっきのモノマネじゃ済まないレベルの私の声はどうやって出したの?」 さっきから疑問に思っていたことを一斉にぶつける。モールス信号みたいに息継ぎなしで一気に喋ったせいで少し息が苦しくなった。一呼吸置いてからもう一度口を開く。今度は疑問符ひとつ。でも一番大事なこと。 「あなたは…何者なの…?」 「吸血鬼だよ」 …………………………………………は? 「えーっと………もう一回言ってくれる?」 「吸血鬼」 キュウケツキ?……って吸血鬼?この人、えーとレンだっけ?レンは今、自分が吸血鬼だって言ったの? 「ごめん、驚かせたかな?」 ええ、はい、それはもう。 正直に言えばこのトンデモ展開に実は本当に蛍の国の王子様なんじゃ、とかちらりと考えたりはしたけど、レンの返答は私の妄想の斜め上を行っていた。 えーっと…冗談、かなあ?でもレンは疑うほうが馬鹿なんじゃないかってぐらいの至って真面目顔だ。どうも本気らしい。 うーん、吸血鬼っていうと牙があって、蝙蝠の翼が生えていて、夜になるとお墓から抜け出して人の血を啜るお化けっていうイメージなんだけど…。 目の前の少年―レン―を改めて観察する。月の光を独り占めしたように煌めいている綺麗な髪、深く澄んだ水底みたいな虹彩を持つ蒼い瞳、お人形みたいに長くて繊細な睫毛とすっと通った鼻筋、降り積もった新雪みたいに真っ白な肌。 どう見たってただの金髪碧眼の美少年だ。蛍とか王子様みたいな綺麗で儚い感じはしても、吸血鬼みたいな血なまぐさいモンスターとは到底結びつかない。うん、やっぱり勘違いだ。 あまりに突飛な発言に私は却って気持ちが落ち着いてきた。さっき感じたばかりの直感も否定して頭でそれっぽいロジックを組み立てる。 雰囲気に流されちゃったけど、やっぱりこの人ただの不法侵入者なんじゃない?7年もたって人の見た目が変わらないなんてやっぱりおかしいもん。あのお兄さんに似ているのもただの他人の空似…てゆうか実はあれも私が見た夢で、たまたま王子っぽい見た目の人が現れたからあの人だって思い込んじゃってるだけなのかも。じゃあやっぱりこの人は王子でも、ましてや吸血鬼でもなくて、女子中学生の部屋に無断で押し入って電波発言をしている不審者なんだ。 ぐちゃぐちゃに散らかった部屋を無理矢理片づけるみたいにして出来上がった順路は、即興で出来た割には現実的で信憑性のあるものに思えた。でもそれだと今の私の状況はなかなかにまずいわけだ。だって私は今、その不審な男と二人きりで向き合っているのだから。 「リン?」 「あ、いえ、大丈夫です………と思ったけど、なんだか気分が悪くなってきたので下の部屋に薬をとりに行きますね」 「…………」 「えっと、なので、ちょっと失礼します」 なるべく穏便に、相手を刺激しないようにこの場を離れようと下手な嘘をつく。相手は何の反応も返してこない。それが逆に怖かったけれど、チャンスであることに変わりはなかった。一気に1階まで駆け抜けて、ママに助けを求めようと彼に背を向けて扉に向かって足を踏み出した時、 「!!!!」 後ろから強い力で抱きすくめられた。 「やっ!!んんぅ!んんー!」 大声を出そうとしたけど、また口を塞がれて、最初の状況に戻ってしまう。でも今度は口を塞がれるだけじゃすまないらしい。 「リン」 すぐ耳元で名前を囁かれてざわりと肌が粟立つ。彼の唇は耳元から下に移動していって首筋に温かい吐息がかかるのを感じた。な、なにをするつもりなの…? 何をされるかわからずに怯えていると、首筋にちろりと生暖かいなにかが這う感触。状況から考えて、彼に舐められているとしか思えなくて。 「っ!!」 『強姦』とか『婦女子暴行』とかテレビや新聞の見出しが頭を過ぎる。今まではどこか遠いフィルター越しの出来事だった恐怖がすぐそこまで迫ってきていていた。 どうしようどうしよう、わたしこのまま襲われちゃうの? 自分ではどうすることもできなくて、現実から逃げるように強く目を瞑った。でも次の瞬間に降りかかった現実はまたもや私の想像を大きく上回っていた。 「っ!んんうっ!」 プツリ。身体の内側で妙な破裂音が響いたかと思うと鋭い痛みが首筋に走って、一拍置いて噛みつかれたんだって気が付いた。 「んっ!んうう!」 予想とは別の痛みから逃れようとほとんど脊髄反射で暴れまわる。でも相変わらず私を捕らえる細腕はびくともしない。そのうち痛みが津波のようにひいていって、かわりに押し寄せたのは7年前にも感じたあの妙な感覚だった。 「んっ!…んんっ…ん…っ……んぅ……」 首筋に穿たれた孔から血液を吸い取られ、そこから身体に奇妙な熱が灯っていく。 この熱はあの時と同じものだ。肌に食い込んだ歯はそのままで器用に血液だけを啜られる感触に高熱を出した時みたいに背中がぞくぞくして、そのくせ自分では熱いのか寒いのかよくわからない。じわじわと広がる熱は曖昧で、それでいて鮮烈な温度で私の神経を駆け巡る。 「んはっ…ん、や、だ、あっ、ああ…っ」 唇を覆っていた手がどかされ、自由に声が出せるようになったのに、私の口からは弱々しい喘ぎ声しかでない。抵抗していた手足からも力が抜けていって、今は逆にレンの腕にしがみついていないと立てないほどだった。 身体はどんどん体温を上げていき、レンに触れられていない部分の皮膚が窓からの夜風に晒されて大げさなぐらいに震えた。 「や……あっ、らめっ……あ…ああっ…」 「………っ、んっ……はぁ」 最後に一際強く吸い上げられる。ごくりという嚥下音と共に首筋にあった唇が離れていって、解放されたという安堵と遠ざかっていく熱への喪失感で知らず大きな息を吐いた。 「はあ、はあ…はぁ…ぅ………んっ…」 拘束していた腕も解かれて、支えを失った私は骨子をなくしたみたいにへなへなと床にへたり込む。やっぱりあの時みたいに身体の熱はすぐにはひいてくれなくて、肺も心臓も別の生き物みたいに暴れまわっている。酸欠で苦しむ金魚みたいに口をパクパクさせる私を見下ろしてレンは悪びれもせずにのたまった。 「これでわかった?僕が吸血鬼だってこと」 窓枠に囲われた月を背後に、唇に私の血を滲ませて妖しく微笑むその姿は、確かに血を啜る化け物のそれだった。 ここまでされたら疑いようもない。彼は、レンは本物の吸血鬼なんだ。 特に爪が長く尖ってるわけでも、青白いわけでもない、まるで人間みたいに白くて柔らかな吸血鬼の手がゆっくりと私に差し伸べられる。 「君を迎えに来たんだ」 Sweet Sweet Pain(中) まだ続きます(汗) |