彼との出会いを憶えている。
それは遠い昔の出来事のような、昨夜見た夢の世界のような、輪郭の曖昧な、でも色褪せることのない記憶。
月明りにさざめく森で垣間見た、不思議な夏の夜。
私の胸で光って、消えて、また灯る。








それは七年前まで遡る。
小学校にあがって2回目の夏休み、私は幼馴染の男の子と一緒に学校の裏手にある山まで蛍を見に行った。

あの頃、理由はわからないんだけど、私は同級生の女子からは何故か除け者にされていて、クラスに幾つもあるグループのどこにも入れてもらえなかった。児童館が一緒の男子とは少し喋ったりしたけれど、男の子は男の子同士で遊ぶほうが楽しいみたいだから、やっぱりそんなに仲良しにはなれなくて。
私と遊んでくれたのは、家がお隣同士で幼馴染のクオちゃんと、クオちゃんのお姉さんのミクお姉ちゃんだけだった。
仲間外れにされるのは淋しかったけど、クオちゃんもミクお姉ちゃんも優しくてあたたかくて、私はふたりのことが大好きだったから、私の子供時代はそう悪いものではなかった。

私の家にはパパがいなくて、ママはいつもお仕事で家を空けていたから、学校も児童館もお休みの日はお隣の家に遊びに行って、クオちゃんとゲームをしたり、ミクお姉ちゃんから色んな歌やお話を聞かせてもらったりした。裏山の蛍の話もミクお姉ちゃんから聞いたんだ。
学校が夏休みに入ってからもママは相変わらずお仕事が忙しくて、他の家の子たちみたいに家族で遊園地や海にも行けなくて、夏休みなんてちっとも楽しくないとむくれていた私にミクお姉ちゃんはほっそりした人差し指を唇に添えて、誰にも内緒だよって前置きしてから、とっておきの秘密を教えてくれた。
『学校の裏山って普段は勝手に入っちゃダメって言われてるでしょ?だから誰も知らないんだけど、あそこの山道をずっと登って行ったところに小さな沢が流れていてね、夜になると蛍がたくさん集まってくるんだ。真っ暗な森の中で数えきれないぐらいの蛍がきらきら光って、まるで天の川が降ってきたみたいなの。本当だよ?本当に、夢のように綺麗なんだ』

お姉ちゃんはうっとりと、それこそ夢でも見ているみたいに話してくれて、私はどうしてもその光景が見たくなった。だからクオちゃんにお願いして、夜遅くになってからママの目を盗んでこっそり家を抜け出した。
お姉ちゃんはママにおねだりしてみたらって言ったけど、いつも仕事で疲れて帰ってくるママを無理矢理連れ出すことはできなかったし、お留守番ばかりさせられてちょっぴり拗ねていたのもあって、ママには内緒でクオちゃんと二人だけで行くことにしたんだ。夜に子供だけで外に行くことも、ママに内緒で遊びに行くことも初めてで、ちょっとした冒険に出かけるみたいな気になって胸をドキドキさせながら私は待ち合わせ場所の校門前まで急いだ。


「クオちゃん!ごめんね、おそくなっちゃった!」
「リン、おせーぞ!ったく、お前がどうしてもって言うから付き合ってやってんのに」
「うぅ、ごめんねぇ」
「はぁ…いいからはやく行くぞ。いいか?はぐれるなよ」
「……だ、だいじょうぶだもん」
「なんだよ、今の間は……はあ」
ひどい言われよう…しかも溜め息まで吐かれた。
出会った頃からいつもこんな感じで、クオちゃんが口を開けばお小言か嫌味が飛んでくるのを覚悟しなければならない。
でも私はクオちゃんが本当は誰よりも優しい子なんだって知っていたから、クオちゃんの意地悪にたじろぐことはあってもそんなに悪い気はしていなかった。口では文句を言いながらもクオちゃんは絶対に私を見捨てたりはしなかったし、不器用な言葉は心配とか思いやりとか、そんなあたたかい気持ちの裏返しだってわかっていたから。
だからその日もいつもと同じでクオちゃんにからかわれたり、呆れたりされても私はちっとも応えなかった。まだ見ぬ光景を想像して、スキップしたいのを堪えながらふたりで山道を登っていく。

「リンね、ホタルって本物はじめて見るの。だからすっごく楽しみ!」
「楽しみなのはいいけど、ちゃんと前見て歩けよ。おまえ、今にも転びそうで見ててハラハラする」
「大丈夫だってば!ほら、クオちゃん!もっとはやく!」
「わっ、あぶね!引っ張るなって!」

やっと訪れた夏休みらしいイベントに私はこれでもかってぐらいに浮かれていた。覚えていないだけで本当にスキップぐらいしていたかもしれない。それほどあの時の私ははしゃいでいた。だってそれはそうでしょ?それまでの私の絵日記の舞台は児童館のプレイルームとクオちゃんのお家、あとは近所の公園ぐらいだったんだから。
でも、楽しいのは最初だけだった。

ミクお姉ちゃんの言っていた場所が私たちの予想よりも遠かったのか、単に道を間違えていたのかはわからないけど、どれだけ歩いてもそれらしい光は見えず、川のせせらぎすらも聞こえてこなかった。
小学生の私たちは携帯も腕時計も持っていなかったから正確な時間はわからないけれど、もう何時間も暗い山道を登り続けているような気がして、次第に疲れて足取りは重く、口数も少なくなっていった。
考えなしの私はいつもの癖でサンダルを履いて家を出たものだから、親指と人差し指の間がトングと擦れて地味に痛かった。それがまた余計に気分を落ち込ませて、赤くなった指の付け根を見ながらとぼとぼ歩く。
「まだ着かないのかなぁ。ねぇ、クオちゃ……あれっ?」
当時の私の感覚で数十分ぶりに顔を上げて振り返ってみると、そこにクオちゃんの姿はなくて、私はひとりだった。驚いて周りを見渡しても人の影らしきものさえどこにも見当たらない。

「クオちゃん………どこ?」
私の頼りない声は短い残響の後、暗い木々の間に吸い込まれていく。
「っ…!クオちゃん!クオちゃーん!どこーー!!へんじしてーーー!!」
声を張り上げて呼びかけ続ける。しばらく待ってみても何の返事も聞こえず、私たちは夜の山道ではぐれてしまったのだと理解した。


「………あ」

一瞬、頭が真っ白になった。不安と恐怖で足元が竦む。
帰らなくちゃ。帰って大人の人を呼んできて、いっしょにクオちゃんを探さなくちゃ。
必死に自分を奮い立たせても足はガタガタ震えるばかりでちっとも前に進んでくれない。それにどちらが家に通じる道なのかもわからない。もし間違った道を選んだらどうなるのだろう。一生家には帰れないのかもしれない。もしかしたら悪い狼や魔女がいて頭から食べられてしまうのかもしれない。学校の裏山にそんなものがいるはずもないんだけど、先の見えない夜の闇は何を孕んでいてもおかしくないように見える。悪い想像ばかりが頭に浮かんで全身を震わせながら私は途方に暮れていた。
なにか道標になるものはないか懸命に目を凝らすけど、山の木々は夕立雲のように分厚く葉を繁らせて夜の闇をより濃いものにし、その向こう側を窺い知ることはできなかった。
世界は無音ではなくて、私以外の生き物の気配も感じ取ることはできたけど、今の私にとっては鳥の声、風の音ひとつとっても自分を脅かす唸り声のように聞こえてきて、そのまま暗い世界に飲み込まれてしまうのではないかと不安になる。

「……っ」

鼻の奥がツンとして、視界が滲んでいき、自分が泣きかけていることに気付いて、慌てて手の甲でゴシゴシと目を擦る。
「泣いちゃだめ。こんなのジゴウジトクなんだから。ママに内緒で遊びにでて、クオちゃんまで巻き込んで、勝手に迷子になって、その上惨めったらしく泣き出すなんてカッコ悪すぎるもん。泣かない。絶対に泣くもんか!」
ワンピースの裾をきゅっと握って溢れだそうとする涙を押し込めた。でもそんな私を嘲笑うみたいに、
―――ガサリ。近くの茂みが音を立てて葉を揺らし、一羽のカラスがけたたましい啼き声をあげて飛び立った。

「!!!!!!!」

心臓が一気に喉元までせり上がり、さっきまで地面に引っ付いたみたいに動かなかった足はそれを合図に急速に回り出した。戒めを解かれた足がそれまでの反動みたいに強く地面を蹴って、山道を駆け抜ける。どこに向かっているかなんてわからない。ただこの場所にいたくなかった。


「はっ、はっ、…んは、あっ、はっ」
息が切れる。履いていたサンダルはいつの間にか脱げていた。それでも止まることはできない。
すっかりパニックに陥った私は、なにも考えず裸足のままでひたすら走り続けることしかできなかった。
「はあっ、はあっ……っ、あっ!!」
なにか硬いものに足をとられる。受け身もとれず無様に転んでしまい、身体全体を思い切り地面に擦り合わせてしまった。

「ったあ…」
上半身だけなんとか起こし、てのひらに付いた砂を払いながら後ろを振り向けば、自分が来た道(道と行ってもろくに舗装もされていないけもの道だったけど)には大きな木の根っこが意地悪に出っ張っていた。どうもこれに躓いたらしい。
「…っ」
あちこち怪我したみたいで身体中が痛い。特に肘や膝なんかの関節部分は大きく擦り切れて、表皮が剥がれて白い内側の皮が見えて、そこからすぐに真っ赤な血がじわりじわりと滲んできていた。

「ふ…っ」
強制的に停止させられて、それまで空っぽだった頭にまた恐怖や不安が蘇ってくる。徐々に面積を増していく血の赤がさらに追い打ちをかけて、それまで堪えていた涙が一気に溢れそうになった。慌てて唇を噛みしめる。
「泣いちゃだめ。我慢しなきゃ。私が泣いたらママが心配するもん。だから泣いたらだめなんだもん」
一生懸命自分に言い聞かせても、瞼はどんどん熱を持っていく。必死で歯を食いしばるけど、隙間から今にも嗚咽が零れてしまいそうだ。
「パパがいなくなってママにはリンしかいないから。だから…」

そうだ。パパがいなくなってからママにはリンしかいない。ママはリンなんかよりもきっとずっと淋しかったのに、いつもリンの前では笑ってくれた。
どんなにお仕事が忙しくても夜ご飯は一緒に食べてくれた。一緒に過ごす時間が少なくなっても毎朝髪のリボンを綺麗に結んでくれた。海水浴やキャンプに行けなくたって、それで十分だったのに。
なんでこんなところに来ちゃったんだろう。蛍が見たいならママに正直に言えばよかった。変な見栄をはって、勝手な行動でみんなを困らせた。
「ママ…」
優しいママの顔を思い浮かべる。今すぐママに会いたかった。


「ぐすっ、……うっ…うわああぁぁぁん!!」
限界だった。一度壊れてしまった堤防はもう元には戻せない。それまで押し込めていた涙は堰を切って溢れ出した。
怖い。寂しい。痛い。悲しい。
そんな感情が絵の具みたいにぐちゃぐちゃに混ざり合って、次から次へと流れていく。泣いたところで何も解決しないことは当時の私でもわかっていたのに、自分でもどうすることもできなくて、ただ声をあげて産まれたての赤ちゃんみたいに泣き叫んだ。

「ひっく、うっ、ふえぇぇん」
「どうしたの?」
「っ…!!」
またもや私の暴走は唐突に止められる。今度は自分以外の存在によって。
不意に降ってきた人の声に驚いて顔を上げて、声の持ち主を視界に入れたところで更に驚いた。

夜の闇の中でも金色に輝く髪、星屑を溶かしたみたいな青い瞳、陶器で出来た人形のように整った顔立ち。
いつの間にか途切れていた木の葉の夕立雲から覗く満月と、夏の夜の静謐な空気を従えて立つその人は、いつかミクお姉ちゃんが聞かせてくれたお伽噺の王子様のように綺麗な男の子だった。
「……?大丈夫?落ち着いて」
14〜15歳くらいだろうか。当時の私よりかなり年上に見えたその人は、返事が返ってこないのを訝しがって、蹲っている私の目の高さまでしゃがみこんでくれて、迷子になったの?とか立てる?とか話しかけてくれたけど、私はあ、とかう、とか意味のない音しか返せなかった。人見知りとか不審とかそんな子供らしい理由じゃなくて、単純にこんなに綺麗な人を見るのは初めてだったから呆気にとられていたのだ。
想像もしない規格外に出くわすと人間って咄嗟に反応できないものらしい。さっきまではどうやったって止まらなかった涙雨もピタッとやんで、傷の痛みも忘れ、私は馬鹿みたいにその人に見惚れ続けた。
「怖がらなくていいよ」
「あ…」
私が何の反応も返さないのを怖がっていると受け取ったらしいその人は綺麗な指で、走ってぐしゃぐしゃになっていた私の髪を梳いてくれた。
そのまま頭を撫でられて、その手の温かさに強張っていた肩の力が抜けていく。目の前の男の子が空想の産物じゃなくて生きた人間だってわかって安心したのかもしれない。
「怪我してるね」
「…う、うん」
「痛い?」
「うん…っ」
今度はなんとか返事を返せたけど、気が緩んだせいか、遠ざかっていた痛みが再び私の神経をちくちくと刺激して、一度は引っ込んだ涙がまた溢れ出しそうになった。
既に見られているとはいえ、小学生にもなって人前で泣くのは恥ずかしかったのだけれど、脆くなっていた涙腺は勝手に涙を分泌しまくって、頬に塩水が伝う生温い感触がした。
「泣かないで」
「……?っ!」

私の涙を認めた王子様はここで驚くべき行動に出た。
頭にあった掌が頬まで降りてきて、そっと包み込まれたかと思うと、反対側の頬に涙よりも熱くて、ざらりとした感触の湿ったナニカが触れた。
「えっ、あ…」
あまり覚えのない感触に何が起こったか分からず、身を固くした私に男の子はさらに身体を寄せてきて、ナニカが頬に滞在する時間も長くなった。ぴちゃ、とかちゅぷ、とか水気たっぷりの音を立てながらそれは私の頬を這いずりまわっている。
どうやら王子様にほっぺたを舐めまわされているらしい。
ようやっとそれを理解できた時には彼の舌は私の頬から膝の擦り傷に移動していた。
「血がでてるね」
「え、えっと、あの…」
「………美味しそう」
「え?」
呟かれた言葉を拾いきる前に膝に唇が落ちてきた。

「んっ」
「ひゃ、ん…は、…え、な、なに?…っ」
少し大きめに開かれた唇で右膝の傷をすっぽり覆われて、そのまま口内でちろちろと舐めまわされる。
「やあ…んっ、なに、これ…あ、ふうぅぅ、っ」
思わず口を突いて出た疑問符は男の子の言動ではなく自分に向けられたものだった。
彼の唇が触れた途端、ざわざわと悪寒に似た熱が背中を這い登っていって胸がきゅうっと締め付けられるみたいに疼いた。舌の動きに合わせて膝から熱が広がって身体全体が火照っていく。
「…っ、はぁぅ、ん、あう」
意思と関係なく声が漏れる。甘ったるく濡れた声。自分のこんな声を聞くのは初めてだった。
身体がおかしい。言うことを聞かない。
去年の冬にインフルエンザに罹った時と少し似ているけれど、この熱はあの時の何倍も鋭くて、甘くて、切なかった。いったい私はどうしたっていうんだろう。
混乱する私をよそに男の子の舌は優しく傷口を嬲り続けた。時々、転んだ時に付いた砂でも口に含んだのか、ぺっぺっと唾を地面に吐きだしながら、右膝、左膝、右肘、左肘と場所を変えてやわらかく吸いつき、流れ出る血液を舐めとっていく。熱くぬめった舌先がもったいぶるように傷の周辺をなぞったかと思うと、舌全体を傷口に覆い被せるようにして下から上へと大きく舐めあげられて、その度に私の身体は小刻みに震えた。

「なに…なん、で…はあっ、あん」
途切れながらも絞り出される言葉は今度は彼に向けたもの。
泣いている私を慰めてくれてるのだとは思う。でもそれがどうして舐めるという行動につながったのか。指先の怪我ならともかく、膝や肘の怪我を舐めるなんて聞いたことがない。
「どうし、て…んあ、っく」
私の疑問に彼は答えてくれなかった。ぴちゃぴちゃと舌の鳴る音がするだけ。

「ふっ、あ…ああ…っ」
「甘いね…それに馴染むのが随分はやい。相性がいいのかな」
「…?っ!はああああっ!あんっ!んんうっ…!」
軽く歯を立てられたのか右膝にちくりと刺激が走った次の瞬間、じゅっと音を立てて今までよりも強く吸われ、背筋を走る感覚の度合いが一気に増す。悪寒どころじゃない。まるで電気ショックだ。
びりびりと痺れるような疼きが右膝を中心に末端に向かって駆け巡っていく。あまりに強烈すぎる未知の感覚に怯えて逃げようにも、がっしりと両腕を掴まれて距離をとることすら叶わない。
やめて、と訴えたくても口からは嗚咽とも悲鳴ともつかない妙に甲高い鼻にかかった声がばかりがでるし、そんな私を上目遣いに見る男の子はなぜか満足げに笑ってるし、もうわけがわからない!

「くすっ、顔真っ赤。可愛い」
「あ……っ、はあ、はあ、っは、あ…」
やっと唇が離された時には長距離走を走り終えた後みたいにすっかり息があがって、心臓はバクバクとものすごい速さで暴れていた。
綺麗な顔がにっこりと笑みながらこちらを見下ろすのも妙に落ち着かなくて、せっかく解放されたっていうのに身体を蝕む熱の余韻はちっともひいてくれなかった。
「…………決めた。君にするよ」
「ふぇ?……あ、ふあ」
またわからないことを言われる。さっきから自分の身に起きたことで理解できるものなんてひとつもない。
「今はそれでいいよ。君はまだ幼いから。そうだな…君が今の僕の”外見”と同じくらいになったら迎えに行くよ。だから…」
彼が耳元で囁くほどに、じわじわと視界の上から闇が迫ってくる。それが自分の瞼だって気づいた時には私の意識は闇へと飲み込まれつつあった。
とうとう真っ黒に染まった視界の中で甘い彼の声だけがやけに耳に残る。


「それまで待っていて、僕の花嫁」

そこで私は意識を手放した。



目が覚めると私は山の入り口でママに抱きしめられていた。
はぐれた後、無事に山を下りたクオちゃんが大人たちに知らせてくれたらしく、ママ以外にもクオちゃんとミクお姉ちゃん、クオちゃんたちの両親、おまわりさんまでいてかなり驚いたのを覚えている。みんなして私を探してくれたそうだ。
ママは私を強く抱いて、どんなに心配したか、どんなに皆に迷惑をかけたかと、私を叱った。でもその声は震えていたから、ママが泣いているってわかって、私もママと一緒になって泣いてしまった。あんなに山で泣いたのに、涙は枯れていなかった。
次の日にはママと一緒にクオちゃんのお家に謝りに行った。
クオちゃんのパパとママはふたりとも無事でよかったって笑って許してくれた。
ミクお姉ちゃんは自分の話のせいで私たちが危険な目にあってしまったと、大きな目に涙を浮かべて謝ってくるから慌ててミクお姉ちゃんのせいじゃないよって伝えると本当に泣き出してしまって、私もつられて泣いて二人でママたちを困らせた。でも最後には真っ赤に充血した目を細めて今度は皆で行こうねって笑ってくれた。
クオちゃんはまた溜め息を吐いて、リンに振りまわれるのなんて慣れっこだって言ってくれた。ぶっきらぼうな言葉だったけど、そこにどれだけの優しさが込められているかわかったから、嬉しい気持ちと申し訳ない気持ちで胸がいっぱいになって、思わずクオちゃんに抱きついた。クオちゃんは顔を真っ赤にして怒鳴り散らしていたけど、私を無理に引きはがしたりはしなかった。

こうして私のわがままが引き起こしたちょっとした騒動はひとまずの終結を見る。
でもわからないこともあった。山で出会った不思議な少年、あれは一体誰だったんだろう。
みんなが私を見つけたのは、私が目を覚ました山の入り口で、そこには私以外に誰の姿もなかったそうだ。たぶんあの男の子が私をあそこまで運んでそのまま立ち去ったんだろう。
でもママはあんな夜遅くに男の子が山に一人でいるなんておかしい、夢でも見たんじゃないかって。
そう言われると確かに夢みたいな出来事だったけど、現に私はひとりで山を彷徨ってたわけだし、気を失っている間に山の入り口まで運ばれていたんだからやっぱり本当にあったことなんだと思う。
そういえば私を探してくれたおまわりさんは神様に会ったんじゃないかって言ってた。
『あそこの山には悪戯好きな神様がいて、迷い込んだ子供にちょっかいをかけるっていう言い伝えがあるんだ。もしかしたらリンちゃんを助けてくれたのは山の神様かもしれないね』
冗談みたいな話(実際に冗談のつもりで言ったんだろうけど)だったけど、彼の人間離れした雰囲気は神様と呼んでも違和感はなかったような気がする。

「本当に誰だったのかな……お礼、言いたかったな」
わけがわからないことだらけだったけど、彼が一緒にいてくれたから私は淋しい気持ちに押し潰されることはなかった。無事に山を下りられたのもあの人のおかげだ。ならせめて一言でもいいから、会ってありがとうと伝えたかった。
児童館でかさぶたになりかけた傷を見ながらぼうっとあの夜を思い出していると、隣のプレイルームからミクお姉ちゃんたちの歌声が聞こえてきた。

『ほ、ほ、ほたる来い。あっちの水は苦いぞ。こっちの水は甘いぞ。』

こっちの水は甘い……そういえば、あの人も……

『甘いね…それに馴染むのが随分はやい。相性がいいのかな』

………………ほたる?
ミクお姉ちゃんが話してくれたお伽噺では王子様がカエルや野獣に姿を変えられていた。もしかしたらホタルが人間の王子様に姿を変えて、なんてことも……
「あるわけないよねえ」
小学2年生のおつむもさすがにそこまでメルヘンじゃあない。絵本のなかの魔法や王子様が現実にはいないことも知っていた。

「……やっぱりママの言う通り、夢だったのかも」
どんなに考えたって答えが見つからない。なんだか疲れてしまって、もしかしたら全部夢だったのかも、なんて考えることを諦めると、その言葉を否定するようにかさぶたの内側が甘く疼いた。







Sweet Sweet Pain (上)


リクエストいただいた『リンを狙う吸血鬼レン×人間リンで甘めの話』です。あんまりにも長くなったので分けます。


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