透き通るような白い肌、甘く掠れた声、熱を孕んだ身体、まっすぐにこちらを見つめてくる瞳。

君はいつだって素敵だけど、あの日の君は特別素晴らしかった。

だからもう一度、もう一度と願ってしまうのは仕方のないことだと思うんだ。

あの夜に君を閉じ込めておけるのなら、どんな犠牲を払ったって構わない。

もう一度、君とひとつになれるなら―――。








人の気配の絶えた廊下。窓から差し込む橙色の光が落ちる影を色濃くしていく。
僕はその影を踏みながら、彼女のいる教室に向かって歩いていた。



ガラリ、と音を立てて目的の教室の扉を開くと、教室内には予想通り彼女ひとりだけ。

「姉さん。やっぱり残ってたんだ」
「……なんでいるの?」

放課後の、あと数分もすれば完全下校を知らせるオルゴールが流れてくる時刻。
部活にも所属していない僕が、こんな時間まで校舎に残っていたことに双子の姉は少なからず驚いているようだった。

「姉さんと帰ろうと思ってさ。その辺で時間つぶして待ってたんだよ」
「…頼んでない」

途端に不機嫌そうな顔をする姉さん。姉さんのこういうわかりやすいところが僕は結構好きだったりする。

「僕も頼まれた覚えはないよ。勝手に待ってたんだ」
「…………」

しれっと言ってのける僕にこれ以上何を言っても無駄だと知っているので、姉さんは何も言わずに帰る準備をする。
姉さんを待つ間することもないので、夕日を受けてきらきら輝く僕と同じ色彩を見つめて時間を潰した。





「もう、こういうのしなくていいよ」

帰り道、相変わらず憮然とした顔で告げてくる言葉はやんわりと、しかしはっきりと僕を拒絶する。

「こういうのって?」

わかっていて、わざと聞き返す。

「わざわざ私を待たなくていいって言ってるの」
「なんで?姉さんは僕と帰るのは嫌?」
「嫌じゃない。でも待ってもらう理由だってないでしょ」
「僕が姉さんと一緒に帰りたいから。それじゃ理由にはならない?」
「…………」

姉さんは困った顔するだけで、言葉を紡ぐことはできなかった。
優しい『姉』は自分を慕ってくる『弟』をこれ以上拒絶することなんてできないから。
それを嬉しいなんてちっとも思わないけど。

「姉さんこそ、こんな遅くまで何してたの?」
「ちょっと用事があって…別に大したことじゃないよ」
「ふーん、そっか」

自分の前髪を弄りながら話す彼女に、当たり障りのない返事をしながら気づかれないように笑みを浮かべた。
これは姉さんが嘘を吐くときの癖だ。
知ってるよ。本当は用事なんてないんだろ。
ただ、家に帰って僕と顔を合わせるのが嫌なだけ。だからこんな時間まであそこに残ってたんだ。
お互いに『姉弟』という薄い膜を隔ててする会話はどこかすれ違っていて、そこには一片の真実もないように思える。
それでも彼女の声を聞いていたくて、僕は家に着くまで内容のない会話に彼女を付き合わせた。





家に着くと、姉さんはさっさと自分の部屋へと戻っていってしまった。
僕はなんとなく動きたくなくて、ひとり取り残された玄関で彼女が昇って行った階段をぼーっと見やる。
家の中はしんと静まり返り、物音ひとつ聞こえない。今、この家には僕と姉さんのふたりしかいないのだから当然だ。
今日は両親ともに仕事で帰りが遅くなる予定。これは『あの日』と同じ状況。
だからこそ姉さんは無駄な努力をしてまで僕を避けようとしたんだ。

僕は目を閉じて、また、『あの日』を思い出す。
これで何度目だろう。擦り切れるのではないかというほど幾度も繰り返した情景が僕の脳内で鮮やかな色をもって再生された。

紅く上気した頬、指の隙間から零れる吐息、蕩けそうなほどに熱い体内、悦びに染まっていく瞳。
君はいつだって素敵だけど、あの日の君は特別愛おしかった。
だからもう一度、もう一度と願ってしまう。
あの夜に君を閉じ込めておけるのなら、僕はどんな犠牲を払ったって構わない。もう一度、君とひとつになれるなら。

ゆっくりと瞳を開いて、僕は階段を昇ってゆく。
彼女の部屋に向かうために。



「姉さん」
「レン…どうしたの?」

ノックもせずに姉さんの部屋へと入り込む。これはいつものことなので姉さんも何も言わずに僕を迎え入れた。

「どうもしないよ。ただ、姉さんと話したかっただけ。ダメだった?」
「学校の課題、やらなくちゃいけないから」
「じゃあ、僕も一緒にするよ。いいでしょ、姉さん」
「…いいよ」



向かい合って課題をする僕たち。
あの時は僕の部屋だったけど、これは『あの日』と同じ風景。
そのことに姉さんだって気づいていないはずがない。
なんでもないような態度をとっているけど、怯えの影を隠すように姉さんは俯いたままだった。
それがひどくつまらなくて、こちらを向いてほしくて、僕は動き出すことにする。

「姉さん、最近、僕の部屋に来なくなったよね」
「…そうかな」
「後悔してるから?」
「…なに」
「あの夜のこと」

姉さんはあの夜、という単語に小さく肩を震わせた。

「…あのことは、もう忘れてよ」
「どうして?僕は忘れない。忘れたくないんだ。姉さんと、リンとひとつになれた日のこと」
「レン!」

信じられないといった表情で僕を見るリン。
リンのまっすぐな眼差しを受けるのはあの日以来だった。たったそれだけのことで胸が歓喜に震える。
ああ、これは『あの日』の再現なんだ。


あの日も、両親は家にいなくて、リンとふたりで学校の課題をしていた。
いつもとなんら変わりのない一日。
けれど、仲の良い姉弟のどこにでもある日常はがらりと音を立てて反転する。
僕はあの日、姉を抱いた。
きっかけなんて、もう忘れてしまった。あるいは最初からそんなものはなかったのかもしれない。
だって、僕はずっとリンが好きだったから。そしてリンも僕が好きだった。
僕たちの間にあった壁はとっくに風化していて、触れれば簡単に崩れていった。
そして、その壁に最初に手を伸ばしたのは、

「リン」
「やめて、来ないで」

彼女の肩に触れようとした手は、払いのけられて届くことはなかった。
どこまでも僕を拒絶するリン。無意味だとわかっていても姉の仮面を外せないでいる姿はどこか滑稽だ。

「リン、わかってるだろ。もう僕たちが『姉弟』であることの意味なんてないんだ」
「違う。そんなことない」
「違わないよ。だって僕はリンを愛してる」
「違う」
「そしてリン、君も僕を愛している」
「違う!」

駄々をこねる子供のように否定を繰り返すリン。

「レン、やめよう。これはいけないことなの。あの夜もあってはいけなかったの。私じゃレンを守れない。世界は私たちを認めてくれない」
「世界なんてどうだっていい。そんなものよりも僕はリンが大切だ」
「…………」
「好きだよ、リン」
「……間違ってるよ、レン」
「うん」
「でも、先に間違えたのは私のほうだね」

(―――好きよ、レン)

あの夜のはじまりの音を思い出す。
そうだ。最初に手をのばしたのは君のほうだった。なのに、君は僕から逃げようとするんだね。
君が僕にのばしたあの手を、あの夜を、なかったことにするなんて、そんなの絶対にさせない。
今更、僕を置いて日常に逃げるなんて許さない。
僕は彼女を追い詰めるために、もう一度唇を開いた。

「好きだよ、リン」

リンは諦めたように「私も」と笑ってくれた。



彼女を抱きしめ、深く口づける。
今度はリンも拒まず、ためらいがちに僕の舌に自分のを絡めてくれた。
唇から伝わる温もりが体に熱を灯し、甘い唾液の味が脳を痺れさせてゆく。
少し名残惜しく思いながら唇を離し、リンの身体をベッドに横たえた。
シーツに散らばった彼女の髪を掬い、指に絡める。

「リン、怖い?」
「怖いよ」

静かな声で肯定を返す彼女。

「レンを不幸にするのも、自分が不幸になるのも怖い」

でも、と言葉をつなげる。

「本当はね、怖いのと同じくらいに嬉しいんだ。私の存在がレンを苦しめたって構わない。それが私を愛するということならもっと苦しんでほしいって思う」

どこまでも自己中心的な愛。
ようやく見られた彼女の素顔に痛いぐらいに胸が高鳴った。

「苦しくたっていいよ。それでリンが手に入るなら」
「私たち、狂ってるのかもね」
「そうかな?」
「少なくとも私は狂ってるよ」
「そっか」

そうかもしれない。
恍惚とした表情で弟に抱かれる姉なんて、きっと世界にとっては異常でしかないのだろう。
でも、それは僕もいっしょだ。

「リン」
「ん?」
「もう一回、好きだって言ってよ」

彼女はくすりと笑って、僕が望んだ言葉をくれた。





ねえ、リン。
君が狂っているというのなら、僕も狂うよ。
僕には世界よりも、君が大切だ。
君がどれだけ僕を拒んだとしても、僕は何度だって君を選ぶから。

(―――好きよ、レン)

ああ、ついに君を―――――







******************





ふと意識が覚醒した。
あれからかなり時間が経ったらしく、部屋のなかは真っ暗で窓からはかすかな星明りが射し込んでいる。
気怠い熱を引きずりながら、暗闇にぼんやりと浮かぶ私と同じ色彩を持った彼を見つめる。
あどけない寝顔は子供の頃と変わっていなくて、くすりと笑みをこぼした。
夜のひんやりとした空気から彼を守るために毛布を引き上げようとしたが、私の身体にまわされた腕はしっかりと絡みつき、身動きひとつ許してくれそうもない。
そんなに心配しなくても、もうどこにも逃げたりしないのに。
必死になって私に縋りつく彼がとてもおかしくて、愛おしい。
―――というより、そもそも私は最初から逃げてなんかいなかったのだけど。

(―――愛しているよ)

彼の言葉を思い出し、自分の唇が綺麗に弧を描いていくのを感じる。

『弟』の仮面を取り払ったレン。それは私が欲しく欲しくて仕方のなかったものだ。
大好きなレン。きっと君は選んだのは自分だと思っているんだろうね。
当たり前の幸せも、自分を取り囲む明るい世界も振り払って、日常に逃れようとする私を捕らえたのだと。
でもね、それは違うんだよ。
選んだのは君じゃない。捕らえられたのは私じゃない。
だって、そうでしょう?





















「最初に手を伸ばしたのは私のほうだったんだから」




自閉した世界で君と息をする

ついに君を閉じ込めた。





自閉---現実または外界から遠ざかり、願望や苦悩を抱いたまま、自己の内界に閉じこもる状態。


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