身体が咄嗟に動いていた。僕は一切の躊躇いなく、目の前の人を突き飛ばした。
次の瞬間、回転する視界。熱と、衝撃で息が止まる。一瞬、じわりと滲んで、夕陽よりも濃い赤に染まった景色。
 耳をつんざくブレーキ音と、よく似通った叫び声がした。内耳に響く自分の呼吸音に遮られ、何と言っているか、上手く、聞き取れない。

「――――――!」

 僕をのぞき込むその人は、傷一つなく、なのに涙を流している。痛いところはありませんか、そう聞こうとしたのに、声が出ない。あなたが無事なら、それでいいのに。僕と同じ、否、それ以上の痛みを感じる必要など、ないのに。
 涙を拭いたいと思っても、動かない腕では叶わなかった。ただ、彼のその顔が僕の心を狂おしいほどに締め付けた。
 僕のために。僕のせいで。
そんな、顔を、させるぐらいなら。
(いっそ、僕は、あなたと――――)
 幾つもの心残りを手放し、意識が、昏闇の底へと、沈む。







「おっはよー怜ちゃん!」
「ああ、おはようございます。葉月くん」
「もー!渚でいいってば」
「君こそ、僕のことは竜ヶ崎と呼んでほしいと何度もお願いしているはずです」
「そんなのやだよー。僕たち友達でしょ?」

 はあ、とため息をつく。ふわふわの金髪に、とても高校生には見えない童顔。入学式から間もなく、僕のことを勝手に友達だと言い張る彼の名前は、葉月渚。いつも、どこからともなく現れては僕にまとわりついてくる。何度言っても、僕を気軽に怜ちゃんと呼び、抱きつくことをやめないので、最近は既に諦めかけてはいるが、このやりとりはもはや恒例行事だ。彼もそれを分かっているのか、短いやりとりの中に本気の色は見えなかった。
 けれど、僕と彼とは友人ではない。友人と呼べるほど、関係を積み重ねてはいなかった。強いて言うならば同級生。もしくは、同窓生。クラスメイトと言い変えてもいい。
葉月渚と僕との間には、確かに会話が存在したが、あくまでその範疇であって友人というには心もとなかった。
 例えば、ともに昼食をとったり、放課後を過ごしたりするのであれば、話は違うのだろうけれど。

「とにかく、離れていただけますか」
「んもう、つれないなあ」

 ぶう、と頬を膨らませる葉月を半ば無理矢理に引きはがし、乱れてしまった服装を整える。あくまで好意を示している相手に対し、邪険にしすぎているような気もしたが、彼にはこのくらいはっきりしておいた方がちょうどいいのだろうと思う。短く浅い付き合いの中でも、彼の折れなさ、というべきか。精神性の強さはよく分かったし、本格的にまとわりつかれたら今よりも大変なことになりそうだと、感覚的に理解していた。
 決して嫌っているわけではない。ただ、距離感を留め置かなければ。初めて会った時からずっと、彼は心をざわつかせる。どうしてかは、分からない。

「すみませんが、これから部活なんです」
「陸上部? もうすぐ大会だっけ」
「ええ」
「頑張ってね! まあほんとは、怜ちゃんも水泳部に入ってくれると嬉しいんだけど」
「それはできません。僕はずっと陸上一筋ですので」
「ちぇーっ。怜ちゃんと一緒に泳げたら、きっとすっごく楽しいのになあ」

 またもや不貞腐れた葉月に曖昧な笑みを返す。彼の所属する水泳部は、部員が少なく、団体種目に出られないらしい。陸上部に所属して久しい僕でさえ、未だに勧誘され続けている。
 団体種目に取り組めないのは、高校の部活動として同情すべき要素ではあるが、だからといって陸上部をやめてまで、水泳をやる気はさらさらなかった。そもそも僕は、生まれてこの方、まともに泳げたためしがない。
 何事も理論に基づき、実践すれば出来ないことはないとは思うが、唯一水泳に関してはその自信も不確かだった。水の中では動けないから、陸上で高く跳びたい。誰もがたどり着く、ごく当たり前の理論だ。
 わざわざ自分が泳げないことを口外するはずもなく、葉月からの勧誘はずっと、陸上部を理由にして断り続けていた。嘘ではないのに、罪悪感が湧いてしまうが、仕方のないことだった。
 着替えの詰まったエナメルを手にし、葉月に別れを告げようとする。彼はまだ、僕をじっと見ていて、けれど、唇を噤んでいた。

「どうかしましたか」
「……ううん。僕もそろそろ部活に行かなきゃなって」葉月が、陽光もない室内でさえ、きらきらと輝く目を眇めた。「ハルちゃんも、――――も待ってるだろうし」
「え?」

 言葉に不自然な空白があった。葉月の唇は動いていたのに、ぽっかりと、穴が開いたような静寂。今、何と言ったのか。そう聞く前に葉月は背を向けてしまった。その仕草になんとなく、彼らしくなさを感じてしまい、思わず葉月を呼び止めた。

「葉月くん」
「部活、遅れちゃうよ」
「え、ああ、……そう、ですね」
「うん。またね怜ちゃん」

 振り返った葉月がにこりと笑う。薬品の匂いがかすかに漂う。





 大会を前に、陸上部で普段よりも厳しいトレーニングをこなした後。
 疲れた体の重たさを心地よく感じながら、帰路に就く。駅まで向かう道の途中、もしくは駅構内で、時折、葉月と出会うこともあるが、今日はその様子がない。しかし、

「あなたは確か……水泳部の」
「七瀬遙だ」

 僕を待っていたのだろうか。駅の入り口に立っていたその人は、表情一つ変えずに名乗った。葉月の先輩であり、ネクタイの色を見る限り一学年上だ。記憶にある限りでは、これまで七瀬と話したことはない。

「葉月くんならいませんよ」

 知り合いでもない僕のことを、水泳部の人間が待つ理由に思い当たらず、一番それらしいことを口にしてみたが、七瀬は瞬きをしただけで正解とも不正解とも言わない。どこかで、見覚えのある目だ。そう、まるで、部活の前、僕を見つめていた葉月のような。
 また、薬品の匂いがした。七瀬の髪は濡れていて、泳いだ痕跡が見て取れた。塩素はこんな匂いだったろうか。水と離れて随分長い。プールの水温が思い出せない。

「お前と話したかった」
「僕と?」七瀬の言葉に、困惑を隠せない。「あの……僕に何か?」
「確かめたい」

 曖昧で、意図の分からない答え。だというのに僕は、地面へと縫い付けられたように身動きできずにいる。この人の言葉を聞かなければならないと、どうしてか、思っていた。
 駅の向こう、何もない地平線に夕陽が沈む。最後の悪あがきじみた日差しが涼しい風を熱波に変える。さらされた肌が焼かれるように熱い。僕は、七瀬の言葉を待った。

「――――」

 七瀬の唇がひそやかに動く。そのささめきを遮るように、強い風が声を浚う。

「……すみません、聞き取れませんでした」
「名前を」深い海のような瞳を伏せて。「忘れるはずがない」
「名前? ……一体、誰の」
「これがお前の望んだものか」
「意味が分かりません。あなたは何が言いたいんですか」
「昼寝にしては長すぎるから、忠告しに来たんだ」

 七瀬の言葉はいつまでも、謎かけじみて、掴めない。困惑する僕に対し、僅かも表情を動かさないまま、けれどどことなく困ったような雰囲気をにじませながら、七瀬は言った。

「――――が、待ってる」
「……また、聞こえない」

 潮騒のような耳鳴りがうるさい。七瀬の声が聞こえない。薬の匂いが強くなる。なにかが僕の目の前を過ぎる。
 葉月を、僕を、待っているのは。
七瀬の青い、海のような瞳が、葉月の金色と溶けて、波立つ。





 勉強をして、部活をして。相変わらず葉月は水泳部の勧誘をやめないし、帰り道にはあの日以来、毎日七瀬が待ち伏せている。謎めいた言葉は相変わらずで、まるでわざと、分からないように話しているのではないかと思えた。
 夏はより近くなり、大会を終えた陸上部はひとまずの落ち着きを見せている。放課後、いつも通り部活へと向かおうとしていた僕に、同じ陸上部の同級生が活動の中止を伝えてきた。拍子抜けしてしまった僕の、背後から近づく気配。

「今日は陸上部お休みなの?」

 振り返ると、満面の笑みを浮かべた葉月がすぐ傍まで寄ってきていた。

「ええ、まあ。そのようです」
「じゃあじゃあ、これから暇だよね」葉月の笑みが深くなる。「水泳部、覗いてみない?」
「遠慮しておきます」
「ええー! なんで!」

 ばたばたと手を振り回す葉月に、なんででもです、とだけ答えて、帰り支度を整える。部活が無いなら無いなりに、家に帰って勉強するとか、本を読むとか、やりたいことはたくさんある。葉月の言うように、別段、暇なわけじゃない。

「いいじゃん行こうよー楽しいよー」
「まとわりつかないでください!」
「いーやーだー! 怜ちゃんが来てくれるまで離さないー!」

 宣言通り、葉月は僕の腕にしがみついたまま、いくら頑張っても離れなかった。おまけに、力の限り踏ん張っているようで、どんな馬鹿力を発揮しているのか、その場から一歩も進むことができない。
 しばらく攻防を繰り広げた後。どうあっても離れてくれない葉月に半ば呆れてきてしまって、僕は、はあ、とため息をついた。

「……分かりました。見学だけなら」
「ほんと? やったあ!」

 了承した途端、葉月が僕の手を取って、全速力で走り出す。彼は何かを期待するように、年の割に幼く丸い頬を紅潮させている。見学だけ。そう、見学だけだ。別に何をするわけでもないのに。彼はどうして、こんなにも無邪気に。
 不意に、不可思議な感情が、僕の心を揺さぶった。葉月に掴まれた手の熱が。目の前で揺れる金色の猫毛が。僕を引き戻そうとする。足りないものに気づかせようと。
 葉月が一度だけ振り向いた。――――が待ってるよ。さあ、はやく。
 聞き取れないはずなのに、葉月が何と言ったのか、僕は確かに知っている。





 見学だけだと言ったはずなのに、葉月によって更衣室に押し込まれ、あれよあれよという間に水着へと着替えさせられてしまった。
 目の前には、青く凪いだプールの水面。無意識に足が竦んでしまう。

「どうしたの、怜ちゃん」
「いえ……なんでも」

 隣から僕をのぞき込む葉月が、猫のように金色の目を細めた。僕の内心を、水への恐怖を、見透かすような怖い瞳。泳ごうよ、と手を引かれる。僕はその手を振り払う。

「怜ちゃん?」
「やはり、僕は泳ぎません」
「そんなこと言わずに。水着まで着たんだから」
「っ泳げないんです、僕は」

 もう、いい。言ってしまえ。意を決し、とうとう口にした僕の秘密を聞いて、葉月はひとつ、ふたつ、瞬きをした。それから、声をあげて少し笑った。かっと、頭に血が上る。馬鹿にされた、そう思って。
 けれど、葉月は首を振った。もう一度、僕の手を掴んだ。

「ううん、泳げるよ。怜ちゃんが泳げないはずない」
「本当に泳げないんです! ずっと昔から、どうやっても体が浮かなかった」
「それは昔の話でしょ。怜ちゃんは、泳げる。僕は知ってる。だって一緒に泳いだんだもの。毎日、毎日、たくさん泳いで、大会にだって出たじゃない」
「君は、一体何の話を……」
「んもう、埒が明かないや。やっぱりここの怜ちゃんじゃだめかぁ」

 奇妙なことを言って、葉月が深々とため息をついた。

「分かってたことだろ」いつの間に現れたのか、水着姿の七瀬が、髪から水滴を垂らしながら葉月の傍らに並び立つ。プールを訪れた時から、一番端のコースでずっと泳いでいたのは七瀬だったらしい。葉月がここにいる以上、七瀬以外に泳ぐ人などいないのだから当然だ。水泳部は、葉月と、七瀬と、名を知らないマネージャーの女子生徒が一人。他に、誰が。
 幾条にも集まった髪の先で、膨らみ落ちる水滴を名残惜しそうに眺めていた七瀬の群青が僕を見る。一瞬で逸れて葉月に移る。興味がない、と言われたみたいだ。わずかな痛みが僕の胸をはしった。

「でも、ハルちゃんだってどうにかしようとしてたでしょ」
「最初はな。今はもう、してない」
「嘘つき。放課後毎日、怜ちゃんのこと待ち伏せてるくせに」
「……希望を捨てたわけじゃない。あいつが泣くから」
「それで十分。ハルちゃん、最後の手段の時間だよ」
「ああ、そうだな。それしかない」

 僕のことを差し置いて、わけのわからない会話を続けていた二人が揃って僕に目を向けた。葉月はにこにこと笑っているし、七瀬の表情は相変わらず読めない。
 ただ、その顔にどことなく、不穏なものを感じて背筋が粟立つ。
 隣で七瀬が、水に飛び込んだ。水滴がむき出しの足先にかかった。水温はそれほど低くないのに、やけに冷たく、足指が痺れる。笑みを浮かべたままの葉月が、僕に向かって一歩を踏み出した。

「ねえ、怜ちゃん」
「な、んでしょうか」
「本当はもうちょっと穏便に済ませたかったんだけど……ごめんね? こうするしかないみたい。でも、怜ちゃんのせいだからね」
「僕のせい? 七瀬先輩といい、君といい、いったい何だと言うんですか! 理解できない」
「……怜ちゃんの、おばかさん!」
「な……っ、うわああっ!」

 衝撃。浮遊感。目の前の空。ざぶん、という盛大な音とともに、視界がぼやけて不明瞭になる。突き落とされた。一瞬で理解する。掛けていたはずの眼鏡が外れ、どこぞへと流れていった。全身を包む大量の水。
 太陽を背にして、水の壁を盾にして、砂浜の絵のように輪郭の定まらない渚くんが何か言っている。聞き取れなくとも、何故か理解した。「沈め」なんて、残酷な言葉だ。僕が泳げないと知っているのに。知っていながら、こんな酷いことを。
 言われずとも僕は沈んでいた。深く、深く、どこまでも深く。浮かび方を知らない体は、いつまで経っても底に行き当たらない。
 辺りには、僕以外にも、様々なものが漂っている。白い布、カーテンだろうか。鉄屑、恐らく車の残骸。奇妙な鳥のマスコット。僕のものではない眼鏡。
 徐々に光を通さなくなった周囲の水が群青に染まり、波のような、うねりが僕をより深みへと押し流す。心なしか、足を引っ張られているような気さえする。いや、本当に、引っ張られている?
 恐る恐る下を覗くと、先に飛び込んでいた七瀬が僕の足首をしっかりと掴み、潜水している姿が見えた。思わず口から空気が漏れた。白い気泡がふわりと浮かび、代わりに水が流れ込んでくる。胃から肺まで水に満たされ、死を覚悟したが、息苦しくはならなかった。ただ、空気を失ったせいか、沈むスピードが何だか増した。
 薬品の味がするプールの水を、いつまでも底に着くことのないここが最早、本当にプールなのか確信が持てないにしろ、空気の代わりに仕方なく飲んでいるうちに似たような光景が脳裏を過った。
 海。夜の海。嵐の夜。高い波。溺れた記憶。

(――――溺れた? 僕が? 海なんて、僕は泳げないのに)

 荒れる海の中、頼りにしていたビート板は流され、うねる海流に翻弄されながら必死にもがいた。雨と、塩辛い海水が口の中に流れ込み、息ができず、苦しくて。
 覚えがないのに、リアルな記憶。これが実際にあったことならば、あの時、僕はどうやって助かったのだろう。
 答えを求めて七瀬を見た。西洋の伝説にある恐ろしい海の魔物のように、僕を水底へと誘う七瀬は、ちらりとこちらを一瞥しただけで口を開いてはくれなかった。
 仕方なく、また沈む。こうして連れていかれるのだ。きっと底はあるのだろう。目を閉じて考えた。嵐の夜、危険な海、波をかき分け、そう、誰かが助けに来てくれた。新たに飲み込んだプールの水が、やけに塩辛くなっていた。まるで海水のように。





 ふわふわと。ゆらゆらと。
 一時間以上も潜った気がする。減速し、たどり着いたのは、何もない青い広場だった。目的の場所に辿り着き、役目を終えたのだろう七瀬が僕の足首をようやく離す。浮力があるのか、上手く立てなくて、不格好にしばらくもがいた。七瀬はそこらを泳いでいて、足をつける気さえなさそうだった。
 プールの底には、僕を突き落とした張本人が待っていた。彼は笑顔を浮かべたまま、両手を広げて僕を出迎えた。ようこそ、お帰りなさい、と言った。

「お疲れさま、怜ちゃん。長旅だったね」

 彼の言葉には親しみがあった。地上にいた時とは少し違う、本当の親友に呼びかけるような、気の置けない響き。だから僕も、それに見合った認識で彼の名を呼んだ。

「そうさせたのは、君でしょう。渚くん」
「……うん、ごめんね? 怜ちゃんがいつまで経っても戻ってこないから」
「その点は謝ります。深く、沈みすぎてしまった。君と遙先輩がこうしてくれなければ、もう暫くあのままでいたのだと思います」

 頭上を見る。空は、厚い水の壁に遮られて見えない。陽光も差し込まないはずの深層は、十分に明るく、不自由はなかった。沈む間に夢を見た。否、夢ではない。幾層もの現実が、僕の記憶として戻っていた。
 地上は仮想。もしもの世界。夢、と言うのがしっくりくる。
 プールの底にあるこの場所は、僕の深層意識。一番現実に近い場所。
 僕は事故に遭った。大切な人を庇って、車に撥ねられた。意識を失う直前に、大切な人の泣く顔を見た。酷く、心が痛んだ。だから。

「満足したの」渚くんが首を傾ける。「何か、変わった?」
「いいえ何も。強いて言うなら、君の言った通り、僕は馬鹿だ」

 つまらない仮定に囚われて、大切なことを忘れていた。地上はそれなりに美しく、悪いものではなかったけれど、かけがえのないものが足りなかった。そんなことに、今更気づくなんて。
 ――――帰らないと。あの人のところに。
 気づかないふりをしていた心の隙間。そこに収まるべき人は、きっと僕を待っている。遙先輩の言っていたように、泣いているのなら、その涙を拭う役目は僕に与えられるべきだった。誰にも譲らない。僕のせいで流れた涙は、すべて、一滴残さず僕のもの。

「……眠りすぎました。そろそろ、目覚めます」

 僕の言葉に、渚くんが頷く。遙先輩は、周囲をゆるやかに漂いながら、静かに目を閉じた。
 強く情景を思い浮かべる。一番最後に見たものを。やわらかな色の瞳から、次々に零れる透明な雫。いとしいひと。僕の大切な人。
 目の前の彼に、手を伸ばそうとした瞬間。
 足元が、音を立てて崩れた。







 ――――――風を感じて、瞼を持ち上げた。
視界の端。夕暮れの、橙色が差し込む窓際では、清潔な白布がゆらいでいる。糊で塗り固められたような、重たい瞼を数度瞬かせ、渇いた咽喉に空気を通す。何度も嗅いだ薬品の匂い。身じろぎすると、体の下で、寝台がきしむ音がした。

「――――……怜?」

 まるで、信じがたい光景を目にしたみたいに、震えた声が僕を呼ぶ。耳に心地いいその響きに、僕の口元が無意識のうち、弧を描いた。

「ま、こと、先、輩」

 声が出しづらくて仕方ない。眠っていて、しばらく話していなかったからだろう。でも、伝わったはずだ。その証拠に、僕の体はあたたかな腕に抱きしめられた。同じように抱きしめ返す。腕の回らない感覚が、いびつで、とても懐かしい。随分長くこうしていなかった。心の中の、埋まらなかった隙間が、ようやく綺麗に塞がってくれた。
 充足感と、安堵。僕にしがみついてしゃくりあげる彼、――――真琴先輩の髪を撫で、首筋に鼻先を押し付ける。肺いっぱいに息を吸い込む。鼓膜を擽る真琴先輩の泣き声を聞きながら、掠れる声で少しだけ話した。

「長い、夢を、見ていたんです」
「ゆ、め?」
「あなたのいない夢を」

 車に撥ねられた僕に駆け寄り、泣いた真琴先輩を見て、思った。なんて痛々しく泣くのだろうと。僕のせいで、真琴先輩はこんなにも痛ましく涙を流して。それならば、いっそのこと、僕は真琴先輩と出会わない方がよかったのかもしれない。こんな顔をさせるぐらいなら。
 そうして僕は夢を見た。出会わない夢。始まらない夢。どこにも彼がいない夢。

「あなたのいない、世界は、それなりに幸福でした。少なくとも、悲観する要素は、なかった。あのまま時を重ねれば、僕は、悪くない人生を送ったのでしょう。……でも」ひそやかに笑う。「どこか、空虚で、現実味がなくて。周囲のすべてが、僕に、問いかけるんです。本当に、それでいいのか、と」

 事故の日から、何日経ったのだろう。夢の中では春が過ぎ、夏を経て、季節は秋に差し掛かっていた。あの場所と、現実との時の流れが同じものとは思えない。僕は何日、真琴先輩を待たせてしまったのか。病室にも、窓の外にも、読み取れる要素は見当たらず、分からないままだ。

「こっちを、……僕を」

 呼びかけると、真琴先輩は、涙でぐしゃぐしゃになった顔を持ち上げた。真琴先輩は泣き虫だ。僕の前でならそれもいい。理由が僕であるなら、なおさら。
 目尻に指を這わせ、水滴を掬い上げながら、僕は言った。

「結局、僕はあなたのいない世界では生きられない。そんな簡単なことに気づくのが、随分遅くなってしまった」

 真琴先輩の体温が僕の体温と融和する。ここが、この人のいる場所が、僕の世界だと確信する。こんなにも大きな存在を失い、どうやってあの場所で生きていたのか、今となってはもうどうでもいいことだ。
 やっと分かった。思い出した。僕は。

「――――僕は、あなたが好きなんです」

 ただいま、と囁くと、真琴先輩が身を震わせた。息をのみ、鼻をすすって、僕におかえり、と微笑んだ。
 涙はまだ、枯れる気配がない。

BLコンテスト・グランプリ作品
「見えない臓器の名前は」
- ナノ -