強く、一度瞼を閉じても、目の前の光景は消えなかった。黒くてさらさらの綺麗な髪を長く伸ばした可愛い女の子。きっと精一杯おしゃれしたのだろう、膝丈より短いスカートが踏み出した足に合わせて揺れる。華奢なミュール、歩きづらそうで、でも足取りは軽やかだった。楽しくて仕方なさそうに。隣にいる人を見上げて笑っている。
 俺は、彼女が細い腕を絡める隣の人をよく知っていた。
 赤い髪。鍛えられた身体。上着の襟元から時折覗く肩の筋肉。鋭い歯。見間違ったりしない。あれは絶対に。

「凛……?」

 そこで、なにをしているの?どうして、その子と笑い合っているの?
 ――――俺の知らないその子は、誰。



 嫌になるほど暑い日の朝、自室のベッドに突っ伏して立ち上がる気力もなかった。枕元の目覚まし時計が指し示す時刻は12時。今日は、ひと月も前から凛と遊びに行く約束をしていた日で、待ち合わせの時間は10時。駅前。
 訪れない俺を責めるように先ほどから何度も鳴り響く携帯の画面をぼんやりと眺めていた。表示される名前はもちろん凛だ。親指だけで操作した画面いっぱいに凛の名前が並んでいる。申し訳なさで心がちくりと痛むけれど、それでも起き上がる気にはなれない。待ち合わせ場所に行きたくない。凛と顔を合わせたくなかった。俺の頭の中にはずっとあの日の光景が焼き付いている。

 華奢で、可愛い女の子と歩く凛。とてもお似合いに見えた。

 浮気、というやつだと思う。多分。まさか凛がそんなことをするなんて、最初は信じられなかったけれどある程度考えた今になってはちょっとと言わず納得できる。だって、凛が恋人に俺を選ぶ方がおかしい。同じ男で、ごつくて、女の子と比べたら勝っているところなんて何もない。
 あの子は凛に告白したのだろうか。そうして、オーケーをもらって、付き合い始めたのだろうか。仲睦まじい様子だった。とても友達同士には見えなかった。腕を組んで、密着して歩いて、俺が見たことも無い顔で凛はあの子に笑っていた。思い出すと息が苦しい。俺はこんなに凛のことが好きなのに。
 待ち合わせに顔を出せば、凛はきっと俺に別れようと言うはずだ。今は浮気になっているけれど凛は義理堅いひとだから。こんな状態いつまでも続けておくはずがない。きちんと本命一人に絞って大事にするはずだから。ほんの短い期間とはいえ、俺がそうしてもらったように。あの大きな手のひらであの子の頭を撫でるのだろう。

 閉じかけた瞼を貫くように想像した光景が容赦なく襲ってくる。消そうと思っても消えてくれない。凛に捨てられることが怖くて、身動きできなかった。
 仰向けになり両腕で目の上を覆う。手の中でまた携帯が震えた。凛からだって見なくても分かった。短い振動に今度はメールなのだと思い、重い右腕を持ち上げて恐る恐る文面を眺めた。白い画面に黒い文字で、短い文章が表示されている。

『お前の家に行く』

 こうなるとは、思っていたけれど。階下から微かに聞き取れた固定電話の話し声。母さんがとった電話の相手は間違いなく凛だった。真琴?ええ、家にいるわよ。代わりましょうか?そんな、会話。
 母さんが俺を呼ばなかったから、凛は俺がいることだけを確かめて電話を切ったのだ。今から出かけようとすれば母さんはきっと引き留めてくる。凛くん、こっちに向かってるみたいだから待ってたら、そう言って。言い訳をするのは簡単だけど、今の俺ではそんなことさえできそうにない。頭が全然働かない。逃げたいのに、それもできない。
 ただまな板の上に寝かせられた鯉みたいに、じっと、凛の鋭い刃先が降りてくるのを待つことしか。

 上半身に力を入れてどうにか身体を起こしてみる。寝すぎたせいで背中が痛い。首を動かすと痛みがはしる。立ち上がる気は無かったから、着替えもしていない服装のままぼんやりとベッドに座っていた。さっき時計を見てからもういつの間にか30分も経っていた。今から駅前に向かったら着くのは13時近くなる。連絡も無しに3時間の遅刻だ、許されない。
 凛がこちらに向かっているからその必要はないにしろ、人と約束をしておきながら無断ですっぽかす最低な行為にますます気分が重くなった。でも、だって、会ってしまったら。
 凛は一体どんな顔をして、俺に別れを告げるのだろうか。

 少しだけ開いた窓の外から荒い足音が微かに聞こえた。聞き届けた体がびくりと震えた。恐怖から、そして、悲しみから。逃げたくて、なのに声も出せない。チャイムの音。母さんの足音。扉が開く。階段を上る、音。
 ノックされた。息を飲んだ。扉の向こうに凛がいる。

「おい、真琴」
「…………」
「入るぞ」

 鍵はかけていなかったから、当然、扉はいとも簡単に押し開けられて露わになった。ベッドに座り膝を抱える俺を凛がじっと見た。真っ赤な目が俺に突き刺さる。たくさん言いたいことがあるのだろう。聞きたくないけれど、無理そうだった。

「お前、何で来なかった」
「……ご、めん」
「具合悪いのか」

 すたすたと歩み寄ってきた凛が俺の額に手を当ててありもしない熱を測った。どちらかというと冷たいと思う。色を失くした指先を握りしめてうずくまっていた。血の気の感じられない肌は温度を失くして凍えている。
燃えているみたいに熱く感じられる凛の手が額から離れていった。持ち上げた視線の先では眉を顰めた凛がひとときも俺から目を離してくれない。睨まれているのか、見つめられているのか、怒っているのかも分からない。何も読み取れない表情がますます俺の恐怖を煽った。
 別れよう、と言われるよりも、嫌われる方が辛いから。
 約束を守らず、2時間以上も凛を待たせたのは俺自身だというのに、今さら後悔したって遅い。凛は俺を嫌ってしまった。何の心残りもなく、俺の目の前から消えてしまうのだろう。嫌だ。いやだ、行かないで、凛。
 ぱたぱたと目から涙がこぼれる。しゃくりあげる俺のことを、凛はやっぱり何にも伝わらない表情のまま見下ろしている。

「理由、あんだろ。言えよ」
「っごめ、ごめんなさい」
「謝んなくてもいいから。どうした?」
「……っ!」

 首を振ると溜まっていた涙が弾けていくつも落ちていった。いつの間にかしゃがんでいた凛が困ったように俺を覗き込む。珍しく眉を下げている。困っているのだと初めて分かる。俺が、そんな顔をさせているのだ。
 別れを告げる今になってそんな優しい顔をするなんて。凛は俺が知っている以上に酷い男だったらしい。こんな、無様で情けない俺に未練を持たせるようなこと。どうせなら立ち直れないぐらい酷く切り捨ててくれたなら。いっそその方が、よかった。
 穏やかな凛の声が鼓膜を揺らす。俺はまだ嗚咽を殺しきれないでいる。言葉は喉の奥に留まって、形にならない。一向に出てくる様子がない。泣きじゃくる俺の代わりに凛が、ため息を吐き、口を開いた。

「俺のこと嫌いになったのか」
「っ……な、んで」
「じゃあ、俺はお前に何かしたのか」

 ひゅう、と細く息が鳴った。何かしたのか、だって。そんな。
 分からないはずがないじゃないか。

 部屋に乾いた音が響く。思い切り頬を張られた凛が呆然と俺の両目を見つめた。あまりにも突然で、何をされたのかわかってないのだろう。叩いた俺さえ分からないのだ。俺は今、凛のことを。
 肌を焼く沈黙が部屋に満ちる。凛は何も言わないまま、俺も口を開けないまま、時間が過ぎる。涙はまだ止まっていない。煩わしくて仕方がないのに、涙腺はコントロールを失いとめどなく雫を湧きあがらせる。凛の白い頬は赤く染まり、手のひらがじんじんと痺れるように痛んだ。

「……真琴」

 名前を呼ばれて目を閉じた。両手で耳をふさぎ俯いた。見たくない。聞きたくない。好きなのに嫌い。でも行かないで。感情の全てを押しこめるように、俺は続く凛の言葉を拒絶して低く悲鳴を上げる。

 冷たくなった凛の手が、頑なな俺の手首を掴んだ。



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