恋人って何をするんだろう。
 ハルと付き合うことになって、最初に思ったこと。手を繋いで、キスをして、その先。多分そんなものなのだろうけど、俺は精々手を繋ぐぐらいが精一杯で、キスも、それ以外も経験したことがないからやり方なんて、そもそも本当にそれであっているのかさえ分からなかった。
 もしかしたら世間一般の普通の恋人同士はもっと別のことをしているのかもしれない。そうだとしたら、俺たちみたいな普通じゃない恋人同士は一体何をしたらいいのかな。

 母さんや蘭が夢中になって見ているテレビドラマ。時折江ちゃんから貸してもらう大ヒット中の恋愛小説。そのどちらも大抵は、付き合うまでの出来事しか書いていない。
 本当に俺が知りたいことはそこになく、画面の中で繰り広げられるハッピーエンドをぼんやり眺めながら、俺はその先について考えていた。

 ああ、本当に、恋人って何をするんだろう。幼馴染で、同じ男で、水の中では最強な鯖好きの恋人とすることを誰か知っている人がいるならば俺に詳しく教えてほしい。
 そうしたら俺はきっと、ハルと。





「ハル、一緒に帰ろうよ」
「ああ」

 着替えを終えたハルに声を掛けるといつも通り口数少なく短い返事。ハルの視線は自分の首元、シャツの最後のボタンに注がれていて、俺の手より細く綺麗な指先が白いボタンを布に押し込むところをなんとなく、じっと見つめてしまう。
 ハルの手に見惚れているのでもあるし、指先に見惚れているのでもあった。だって綺麗だったから。誰かに聞かれたらそう答える。

 緑色のネクタイが布と擦れ合い、しゅるりと音をたて喉下で形作られていく。その所作から結局俺は最後まで目を離すことができず、着替え終わって鞄を持ったハルから訝しげに声をかけられるまでぼうっとその場に立ち尽くしていた。

「真琴?」
「えっ?あ、ごめんハル、ちょっと考え事してて」
「帰るぞ」
「うん。渚、怜、それじゃまた明日」

 長椅子とパイプ椅子で向かい合わせに座り、雑談に興じている渚と怜に軽く声をかければ思ったよりも大きな声でまた明日ね!と返ってきた。お疲れさまでした、という控えめな声も後に続く。
 彼らはすぐさま自分たちの会話に戻っていき、明日の数学の時間がどうだとか、昼休みに見た雲の話だとか、多分そんなような他愛のない話を本当に楽しそうに話していた。

「暑いね」
「ああ」
「大会まであと少しだよ」
「そうだな」

 俺とハルの会話は渚や怜のものとは違っていつもほとんど一方通行だ。ハルが二言以上を話すことはそんなにないし、俺も慣れてしまっているから別にどうとも思ったりしない。 
 ハルなりに返事をしてくれるだけで十分だと思う。

 ただ、付き合う前と変わったのは、ハルがどこか遠くではなくて俺を見るようになったこと。群青色の瞳にちゃんと俺のことを映して、短い言葉を受け渡してくれる。そういう仕草に気がついた時、ハルも俺と話すのは嫌いじゃないのかもしれないなんてふと、そんな風に考える。
 確信は持てなかった。だって、ハルは何も言わないから。

 ハルの心がわからない。俺はこんなにも知りたいのに。教えてと言ったら教えてくれるのだろうか。俺のことが好きだとハルは言った。
 じゃあ、俺の、何が好きなの?ハルの中の恋人ってどういうもの?俺は一体どうしたらいいの。

 今、手を繋いだら、ハルはどんな顔をするのだろう。
 部活からの帰り道は大抵、二人きりになる。渚や怜とは駅で別れるし、俺とハルの家は同じ方向だから。人通りのとても少ない道の、特に誰もいない時間帯を毎日毎日通っているのに。
 俺はハルと手を繋ぎたかった。だって、恋人になったんだから。ハルは俺と手を繋ぎたいって思ったことあるのかな。できれば思っていてほしい。一方通行は寂しい。
 どきどきしながら手を伸ばして、ハルの揺れる手を掴もうとする。指先が触れた瞬間。

「……!」

 ハルが素早く手を引いた。さっきまでゆらゆらと、体の横に垂らしていた手でエナメルバッグを掴み、俺からすっと目を逸らした。ショックだった。ハルはやっぱり俺と手なんて繋ぎたくないのだ。考えてみれば当然なのだけれど。
 俺の手は女の子みたいに柔らかくもないし、小さくもない。骨ばっていてハルのより大きい。繋ぎたいって、思う方がおかしい。

 考えれば考えるほど真っ暗なところに沈んでいくみたいだ。俺は俯き、ハルと反対側を向いて黙ったままとぼとぼ歩いた。
 だって、本当にもう、どうしたらいいのかわからない。ハルから言われた好きだという言葉さえ、夢だったのじゃないかと思えてくる。俺とハルが付き合っているっていうのは、夢を見すぎた俺の錯覚で、ハルはいつも通りただの幼馴染だったのに俺が突然手を繋ごうとしたから拒絶されたんじゃないだろうか。
 そうだとしたら、救えない。俺はもう明日から、いや、今この瞬間からハルの顔をまともに見られなくなる。それならせめて最後に一度。そう思って俺が何気なく、ハルの方へと視線を向けると。

「……真琴」

 思いがけず、ハルが俺を見ていた。透き通った群青色の瞳に俺の姿が映っていた。それだけで顔が熱くなる。全速力で走った後みたいに鼓動が速い。
 静かに、名前を呼ばれたから、小さい頃から染みついた習慣に従い反射的に応えた。

「どうしたの、ハル」
「……お前、その」
「俺?」

 ハルの視線が不安定に揺れる。手持無沙汰に力の抜けた俺の手の甲をじっと見る。もしかして、さっき逃げたこと、悪いと思っているのかな。そんなこと思う必要ないのに。ハルは何にも悪くない。悪いのは全部、俺だから。
 思ったことをそのまま口にしようとして、息を吸い込んだ俺の手をハルが追いかけてしっかりと掴んだ。ぎこちない動きで指が絡む。重ねあわされた手はあっという間に恋人繋ぎというやつになる。

 あんまりにも、びっくりしてしまって、俺は目を白黒させた。繋いできたのは自分だというのに、ハルまで目を白黒させている。間抜けな顔をした俺たちは、お互いがしゃべれるようになるのを待って。それからいつの間にか止まっていた歩みをのろのろと、思い出したように再開させた。

 繋いだ手のことが気になって仕方ない。手汗、かいてないかな。やっぱり硬くてつまらなくないかな。ハル、今、どんな顔してるの。
 横目で覗いたハルの顔はさっきと同じくそっぽを向いていて表情なんてなにも見えない。ハルばっかり平気そうでずるい。俺はこんなに大変なのに。心臓が口から飛び出しそうで何度も何度も息を吸う。

「ハル、ねえ、ハル」
「何だ」
「あの、あのさ」

 ああ舌まで。緊張でうまく回らない。どうしても、聞きたいことがあるのに。
 聞いて、頷いてほしいことがあるのに。

「……さっきは」
「さっき?」
「お前、手。……繋ごうとしただろう。逃げて、悪かった」
「え、……ううん、俺も、突然だったから。ごめん」
「謝るな。その、だから」

 ハルがようやくまた俺を見た。俺よりも白いハルの肌がほんのりと赤く、染まっていた。交わった視線を外すことができない。ハルがゆっくりと口を開く。

「俺も、お前と手を繋ぎたかった」
「……本当?」
「じゃなきゃこんなこと、しないだろ」

 少しだけ、持ち上げられる繋がった手。しっかりと絡んだ指のお蔭でちょっとやそっとじゃ外れそうにない。それを見て、自惚れてもいいのだろうかと。ちょっとだけ、期待する。
 何をするのか、ではなくて、俺が何をしたいのか。他の誰でもないハルと恋人として何をしたいのか。望んでみてもいいのだろうか。口に出しても。ハルは俺を、嫌いにならないでいてくれる?
 尋ねる前にハルが頷いた。俺の心を読んだの、と聞くと、お前口に出してたぞ、と言われた。

 うん、……すっごく恥ずかしい。



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