白猫との一度目の協議を終えて、翌日。

「結果は芳しくありませんでした」
「そうなんだあ、残念だったね」
「しかし!まだ終わったわけではありません!今日の放課後もう一度あの方と協議をしてみますとも!」
「ちなみに昨日の協議はどんな感じだったの」
「そうですね……僕からは、真琴先輩に抱っこされる権利を譲る代わりに真琴先輩を抱っこする権利は僕のものである、という条件を提示したのですが……」
「したのですが?」
「にゃあしか言ってもらえませんでした。あれではイエスかノーか分かりません!」

 そう言った瞬間渚くんの目から光が完全に消え去った。獰猛な肉食獣のような所作で手にしていたイワトビックリパンの頭をむしぃっと噛み千切った。口いっぱいに頬張って指をチョコレートで汚しながら渚くんはぶちっばりっとイワトビちゃんを模した長いパンをどんどん胃袋に収めていく。

 いつもながらいい食べっぷりで、今日も渚くんが元気なことに少しだけ気分が浮上した。落ち込んでいる僕を元気づけようとこういう姿を見せてくれるなんて、やっぱり渚くんは素晴らしい友人だと思う。
 友人の心遣いを大切に噛みしめながら、僕は自分の弁当箱から緑色をしたアスパラを選び丁寧に穂先を口にした。塩コショウがきいていて、シンプルな味付けが実に美味しい。
 ごくん、と盛大に最後の一口を飲み込んだ渚くんが指先についたチョコレートを舐め取りながら

「猫語、分からないんじゃしょうがないよね」
「何度も繰り返し話していれば分かるようになるかもしれません」
「……それって怜ちゃんの言う非理論的ってやつじゃないの」
「何もわからない状態からの解読なんて言語学の世界ではありふれたことですよ」
「僕それ絶対間違ってると思う」

 ぼそりと落とされた呟きは僕の耳を華麗に通り過ぎた。聞こえていないことはないが、仕方ない。渚くんにだって間違いはある。自分の認識に抱く絶対的な自信は微塵も揺らぐことがなく、残りの昼食を片付けながら昨日白猫と交わした言葉の解読を脳内で試みた。
 
「僕それ絶対間違ってると思う!」

 はいはい、大丈夫ですよ渚くん。間違いは誰にでもあることですから。






 白猫との協議もはや5回を重ね、相変わらず進展のないまま1週間が過ぎようとしていた。時間の都合でどうしても協議を行えない日は猫語を解読すべく奮闘したが、正直なところその目途すらつかない。白猫の言語はにゃあ、とにい、となあう、とうにゃうにゃとうなぁ、そして喉を鳴らす音で構成されているのだということは分かったがそれだけだった。
 人間の言葉とは違い音節ではなく音波の揺れで言語を表現しているのだろうか。ならば僕は音波の揺れをコントロールできるようにならなければいけないのか。声帯を作り変えるところから、いいや、そもそも判別が可能になるよう鼓膜の機能をどうにかしなければ。

 毎日ぶつぶつと考え続ける僕のことを渚くんは変わらずのんびり見守っていた。一見するとその様子は僕に無関心なように見えなくもないが、内心では誰よりも僕を心配してくれているのだと友人である僕はちゃんと気付いている。
 ただ黙って僕を勇気づけてくれる渚くんに感謝をささげながら、僕は途方もない道筋をそれでも諦めはしなかった。

「言語体系が異なる相手との新たな意思疎通の手段……」
「怜ちゃん」
「こうなればむしろ言語以外の伝達方法を探すべきか……?」
「れーいーちゃん!」
「うわああっ!」

 ばしっと背中を叩かれて思わずその場で飛び上がる。叩いた主は渚くんで、水着の入ったエナメルバッグを肩に掛けた彼はどことなく不満そうに頬をまるく膨らませていた。
 何か怒らせるようなことをしただろうか。普段あまり見ることのない渚くんの責めるような目に背筋が緊張で少し震える。

「な、渚くん……?」
「今日もあの子のところに行くの?」
「え、まあ。まだ意思疎通できていませんし」
「そもそも怜ちゃんがあの猫と話したい理由はなんだった?」
「それは、……もちろん真琴先輩をあれ以上傷つけないためで」
「怜ちゃんさ、もう何日マコちゃんとまともに話してないと思う?」

 苛むことを目的としたような響きの言葉に僕は愕然とした。何日、真琴先輩と。考えてみればここ最近はずっとあの白猫のことにかかりきりになっていたせいで、真琴先輩とまともな会話を交わしたような記憶がなかった。部活の時に多少の返事や、やりとりはあっても、以前にしていたような他愛のないやりとりなど。

 真琴先輩の寂しそうな顔がふと脳裏に浮かんでくる。最近の真琴先輩はいつもそんな顔で僕のことを見送っていたというのに、僕はなんて馬鹿なことを。
 湿った空気に満たされた部室を慌てて見渡してみるけれど、そこに真琴先輩の姿は無い。渚くんが僕に向かって呆れたようにため息を吐く。

「マコちゃんならハルちゃんと一緒にもう帰っちゃったよ」
「そ、うですか……」
「明日、ちゃんと謝らなきゃだめだよ?」

 今日の夜はしっかり反省すること。そう言い残して渚くんも、僕を置いて部室を出て行ってしまう。見捨てられたような気分だった。そんな勝手な思考許されるはずもないのに。悪いのは自分だ。紛れもなく。真琴先輩に寂しい思いをさせた。本来の目的をすっかり忘れて彼のことをないがしろにして。いったい僕は何がしたかったのだろう。

 打ちのめされた気分のままのろのろと荷物を抱えて僕も部室から外に出る。すっかり傾いた日差しが肌に突き刺さり、じりじりと表皮を焦がしていく。
 このまま帰る気分にはなれなかった。でも、どこに行ったらいいのか。

 僕の足は無意識のうちに通い慣れた道を辿っていく。






 結局あの後、ふらふらと足の赴くままあの白猫の住む場所へとやってきてしまっていた。浜辺の傍らを覚束ない足取りで歩み、真琴先輩への謝罪の言葉をずっと考え続けていた。何と言って謝れば彼の心を癒せるのだろう。寂しい思いなどさせないと誓っていたはずなのに。

 石段に差し掛かる直前の、曲がり角。微かな話し声が耳に飛び込み、僕は咄嗟に身を隠した。

「……り、元気…………うか、よかった」
「この、声は」

 塀に隠れながら声の方を覗き込むと、そこには今しがた考えていた真琴先輩の姿がある。彼の足元にはまとわりつく白い毛並み。人懐っこい甘い鳴き声で真琴先輩の足に身体を擦り寄せている。
 姿を現すことも、その場から立ち去ることもできず、光景を見つめる僕の前で真琴先輩はよく伸びる白猫を抱え上げ石段に腰かけた。ふわふわの毛並みを手のひらで撫でつけながら、どこか愁いを帯びた表情でささやかに呟きを落としていく。

「最近、怜はお前に会いに来てるんだって?」
「にゃぁう」
「何話してるの」
「うなぁ」
「それじゃ分からないよ」
「にゃうん」
「……いいね、お前は。怜に構ってもらえて」

 額を白猫の背に預け、俯いた真琴先輩の目の前に衝動のまま走り出た。真琴先輩!声の限りに叫ぶと驚いた真琴先輩が顔を跳ね上げ、僕を見た。ぱちん、とひとつ瞬きをした。

「れ、い?」
「本当に……!本当にすみませんでしたあっ!!」

 ずしゃあ、とその場に土下座した僕に慌てて駆け寄ってくる気配がする。膝から降ろされたのだろう白猫のあたたかい体躯が僕の背に飛び乗り、ふみふみと何度も踏みつけるのを真琴先輩が「わああダメだよそんなことしちゃ!」そう言って背中から降ろしてくれた。

「どうしたんだよ、土下座なんて!」
「僕は、僕は真琴先輩を悲しませて…!!」
「いいから顔上げて!ほら!」

 さすが真琴先輩というべきか。僕の意思など意にも介さず腕の力だけで上半身を持ち上げられ、強制的に目を合わせられる。戸惑いと、困惑と、少しの怒りを混ぜ込んだようなその表情。やっぱり怒っている。胸が苦しくてとても痛い。

 石段に並んで座らされ、何か言おうと口を開くものの喉が凍りついてしまっている。真琴先輩はまた俯いて、僕から表情が窺えない。白猫は変わらず自由気ままに僕の膝に飛び乗ったり、真琴先輩に甘えてみたり、好き勝手やっていた。今はその立場がうらやましい。

 ああ、僕も猫だったら!真琴先輩に身体を寄せて、ごめんなさいという意味の鳴き声を上げていたというのに。

 ここに来るまでシミュレートしていた謝罪の言葉は何一つ覚えていなかった。何の役にも立たない。仮に覚えていたとしても陳腐に聞こえて口にはできなかったかもしれないけれど。

「あの、怜」
「は、はいっ!」
「……どこから、聞いてた?」
「へっ?」

 てっきり怒られると思っていた僕は反射的に伸ばしていた背筋から力を抜き、隣で俯く真琴先輩をまじまじと観察した。髪から覗く耳たぶや、頬が赤い。んん?

「ええと、……最近、怜はお前に会いに来てるんだって?からです」
「…………っ!!」

 真琴先輩がその長い手足をばたばたと暴れさせた。何かに耐えかねているような仕草。もしかして、と希望が湧く。怒っているわけではないのかもしれない。むしろこれは。

「あの、照れてますか?」
「言うなよ!」

 持ち上げられた真琴先輩の顔は見事なまでに真っ赤だった。鼻先を近づけると怯えたように後ろに下がるので、逃さないよう後頭部に手を回し自分の方へと引き寄せた。唇だけで名前を呼ぶと観念したように抵抗がなくなる。
 吐息を交換できるほど近い。こんなに近づいたのはずいぶん久しぶりのような気がする。僕が猫との意思疎通を図る前まではしょっちゅうこんな風に距離を失くして笑い合っていたのだというのに。
 今なら言えるような気がして僕はその距離のまま口を開いた。

「最近、話せなくてすみませんでした」
「……渚から聞いた。別に俺は、その、怜よりも猫の方がいいとか、そういう訳じゃなくて」
「はい。分かってます。僕が馬鹿だったんです。……許してくださいますか?」
「……ん、」

 返事の代わりに真琴先輩が僕の肩口に額を擦りつける。不器用な仕草が真琴先輩らしくて、思わず笑った僕のことを不満そうな視線が一瞥した。そんなことさえかわいらしいと思える、僕は本当にこの1週間何をしていたのだろうと思う。


 真琴先輩のあたたかさを抱きしめる僕を白猫が見ている。
 あなたにはこんなことできないでしょう?勝ち誇った僕の問いかけに、白猫は丸まった尻尾を伸ばし地面を音もなくぱしりと叩いた。


  

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