真琴先輩はよく猫の話をする。
 遙先輩の家へと続く古びた石段の中腹を、真琴先輩のいう『アイツ』は住処にしているらしい。真っ白で、ふわふわで、柔らかくて可愛い小動物。僕と真琴先輩が出会うから真琴先輩の心を奪う永遠のライバル。
 今日も真琴先輩は僕に向けて、ライバルのことを嬉しそうに話す。

「でね、本当に可愛いんだ。手を出すと喉を鳴らしてすり寄ってきて、抱っこしても怒らないんだよ。毛並みもすごく綺麗で、野良猫だなんて思えないし」
「はあ、そうなんですか」
「1年前はあんなに小さかったのに今ではこんなに大きくなってさ。あ、写真見るか?」
「ええ、はい、それじゃあ」
「ほら!これ!可愛いだろ?待ち受けにしてるんだ」
「……僕よりもですか」
「え?」
「僕より、この猫の方が、可愛いというんですか!」
「ええ?!」

 ふつふつと煮詰まっていた感情がとうとう爆発してしまい、思わず叫び立ち上がった僕のことを真琴先輩が呆然と見つめる。いつも穏やかに凪いでいるヘーゼルグリーンの美しい瞳が白黒と落ち着きなく色を変え、僕の方へと手を伸ばすのを振り切りその場から逃げ出した。
 走ってその場を去る間中、背後を振り向く勇気もなかった。真琴先輩がいったいどれほど呆れた顔で僕を見ているのか、知ってしまうことは恐ろしくて仕方がなかったから。






「怜ちゃん、起きてよ!次移動だよ!」
「そんな元気はありません……」
「元気がなくても移動しなきゃ!化学の先生怖いんだから!」

 心優しい渚くんがシャツを掴み引き起こそうとしても、僕の身体は鉛のように重くその場から立ち上がる気力すらなかった。昨日の自分の言動が一晩明けても尾を引いていた。
 思い返すだけで死にたくなる。どうして僕はあんなことを。

 真琴先輩から真っ白な猫の話を聞き続けていると、得体のしれない感情が自分の中へと淀んでいった。ぞくぞくと背筋を這い回るような。喉をべたべたと詰まらせるような。決していいものとは言えないその感情。
 胃の底から食道を通り、気道に広がり終には口から言葉となって流れ出したそれは真琴先輩をきっと傷つけた。彼はただ、通学途中でよく会うかわいらしい友人について僕に語って聞かせていただけにすぎなかったのに。ああ、なんて。

「僕は馬鹿なんだぁー!!!」
「わああ怜ちゃんいきなりどうしたの!」

 頭を抱えて机に額を打ち付ける。ごん、と鈍い音がした。打ち付けた額が酷く傷むのでもしかしたらたんこぶになるかもしれない。けれどそんなことはどうでもよかった。真琴先輩に許してもらえるのならたんこぶぐらい幾らでも作る。
 だがしかし、たんこぶをいくら作ってみたところで真琴先輩の心情に何の影響も及ぼさないであろうことは僕だってよく分かっていた。何をすべきかもちゃんと分かる。真摯に、心から謝罪すればいい。

 そうするために必要なことがひとつ、目の前に立ちはだかる。

「……彼、いや、彼女でしょうか」
「もー怜ちゃん!チャイム鳴っちゃうよ!」
「決着をつけなければ……」
「はい教科書持って!立って!歩いて!」
「お互いの領分を侵さずにすむ方法を……」
「さあ化学室にレッツゴー!」

 思考の海に深々と沈み込んでいた僕は気が付くと化学室で教科書を開いていた。同じく机に開かれていたノートは真琴先輩から見せてもらったあの猫と同じように燦然と白く輝いている。数式や化学式の記されたノートと同じだけ、白いノートというものも美しいのだと今知った。
 隣に座る渚くんが我に返った僕に気づき、こそこそと話しかけてくる。

「ねえ怜ちゃんどうしたの?いつもおかしいけど今日は特におかしいよ」
「聞き捨てならない言葉が聞こえた気がしますが……まあいいでしょう。実は昨日、真琴先輩と喧嘩をしまして」
「喧嘩?マコちゃんと怜ちゃんが?」
「ええ、ですが……あれは喧嘩というのもおこがましい。僕が一人で勝手に怒り、真琴先輩を傷つけてしまったんです」
「めずらしいね、怜ちゃんが怒るなんて」
「自分でもどうしてあんなに腹が立ったのかよく分かりません」
「原因はなんなの?」
「猫です」
「猫?」
「君も知っているでしょう、遙先輩の家に続く石段にいる、あの」
「ああ!白い子!マコちゃんにすっごく懐いてるよね」
「それです!!」

 大声を上げて立ち上がった瞬間、当然のことながら化学室中の視線は全てあますところなく僕に注がれた。教壇の前に立ち鉛蓄電池の化学反応について解説していた化学教師も例外じゃない。生徒の間で怖いと名高い教師が黒板にすらすらと化学式を連ね僕に向かって銀色に光る細い指示棒を突きつけた。

「竜ヶ崎、放電した時に両極で起こるイオン反応式を答えろ」
「Pb + SO42- → PbSO4 + 2e-及び4H+ + 2e- + PbO2 + SO42- → PbSO4 + 2H2Oです」
「……正解だ。座れ」

 おおお、と教室内がざわめきぱらぱらとまばらな拍手が起こる。渚くんがきらきらと輝く目で僕のことを見つめている。
誤解しないでいただきたいが、別に授業をまるっきり無視しているわけではないのだ。むしろきちんと聞いている。聞いたうえで、別のことを考えているだけなのであって、授業に関する問題を出されれば答えられる程度には理解している。

 授業をして下さっている先生には申し訳ないのだが、理解するという最低限のラインのみ意識を傾けていることでどうか許していただきたい。僕にはもっと考えるべき大事なことがあるのだ。真琴先輩との今後について。ライバルとの不可侵条約について。
 彼は彼ですっかり授業に飽きているらしい、渚くんはノートの端にペンギンだかダチョウだかよく分からない生き物を落書きしながら再び声を出来る限り潜めて僕に話しかけてきた。

「それで、あの白猫がどうかしたの」
「真琴先輩は最近あの猫の話をよくするんです」
「ふうん。可愛いからね、あのこ」
「僕よりもその猫の方が可愛いんですかと聞いてしまいました」
「……なにそれ。比べられるもの?怜ちゃんは自分が可愛いと思ってるの?」
「真琴先輩にとっては……可愛い後輩なのではないですか」
「多分僕の方が可愛い後輩だと思う」
「…………」
「嘘だからこんなところで泣かないでよ怜ちゃん」

 ぐすぐすと鼻をすする僕の背を適当な手つきで渚くんが撫でる。その横顔が至極めんどくさそうに見えるのはきっと気のせいなのだろう。何しろ彼は僕と真琴先輩が所謂お付き合いをする以前からいつも相談に乗ってくれたかけがえのない友人であるのだから。

 それにしても。僕は考える。あの白い猫に抱いているどろどろべたべたした感情の名前を。どうして僕はこんなにも腹が立って仕方ないのか。
 真琴先輩の嬉しそうな顔。やわらかくあまく緩んだ頬。薄く開いた唇と憂いを帯びて潤んだ瞳。白猫のことを話してくれる真琴先輩に思いを馳せていると「わあ気持ち悪い顔」という渚くんの呟きが聞こえたがこれも気のせいの一つだろう。

 彼は、誰かに僕のことを話す時も、ああいう顔をしているのだろうか。
 そもそも。自分の恋人について、例えば遙先輩だとか、凛さん、渚くんやほかの誰かに、話して聞かせることがあるのだろうか。
 
 その時僕は初めて明確に、あの白猫を羨ましいと思った。なんの衒いもなくごく自然なまま真琴先輩から好意を語ってもらえる存在であることを。好きだ、と率直に示してもらえる愛すべき存在であることを。
 ようやく感情に名前がついた。多分、これは嫉妬なのだ。
 僕はあの猫に嫉妬している。

「渚くん」
「あーあ、お腹すいたなー」
「今日の放課後は君と一緒に帰ることができません」
「用事でもあるの?」
「協議してきます」
「猫と?」
「はい」
「頑張ってね!」
「はい!」

 力強い渚くんの声援に俄然やる気が満ち溢れてきた。かの白猫とお互いの領分を理論的に定め、不可侵条約を結んだならばこんな醜い感情に悩まされることもなくなるだろう。そう思ったからこそ僕は放課後、部活を終えた後、白猫に会いに行くことに決めた。

 残念ながら僕は猫語を介すことはできないが、そこはまあ、気合で何とかなる。精神論というものは時折理論にもとる効果を発揮してしかるべきであるからして。
 まだ見ぬ恋のライバルに対し、自身の権益を守るため、僕は頭脳をフル回転させてシミュレーションを行っていく。隣の席では落書きにも飽きた渚くんがすぴすぴと鼻から息を漏らし、机によだれを垂らしながら気持ちよさそうに眠っていた。






 部活動の間、僕と真琴先輩は元々必要以上に話したりすることがなく、精々が僕の泳ぎを見ていた先輩から時折アドバイスがあったりなかったりする程度なので昨日の気まずさを表出することなく無事に時間は過ぎ去ってくれた。
部長として活動を仕切る真琴先輩と、マネージャーの江さんが並び立つ前に整列し、今日の練習はこれで終わりです。明日も頑張りましょうとお決まりの文句の後、僕は走らないまでも早歩きで部室に戻り急いで着替えた。

 後ろから追いかけてきた渚くんが慌ただしくシャツを羽織る僕を胡乱気に眺め、ほんとに行くの?とでも言いたそうな空気を分かりやすくぶつけてくる。行きますよ、と背中に返事を書いておき、言葉を発する間も惜しみながら帰り支度を進めていく。
 鞄に水着を詰め込んで、制服を最低限美しく羽織って。

「それでは、お先に失礼します!」
「ばいばい怜ちゃん。また明日ね」

 ひらりと振られる渚くんの手を背にし、部室の扉を押し開けるとちょうど戻ってきたところらしい遙先輩と真琴先輩が驚いた顔をして僕を見ている。ああ、けれど、今は一息さえ惜しいのです。尊敬すべき先輩と、僕がこんなにも急ぐ理由である愛しい真琴先輩に軽く会釈をし、お疲れさまです!と叫びながら二人の横をすり抜けた。

「……一体なんだ?」
「さあ……?」

 待っていてください、真琴先輩。明日には必ず、あなたの前に。
 心に強く誓いながら脳裏に描いた白猫の住む石段へと全力で駆けた。きっとあの猫は僕を待っている、そんな気がしていた。


  

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