からからという音を立てて玄関の引き戸が開かれる気配がした。

 明かりも何もついておらず薄暗い部屋の隅の方で膝を抱えてうずくまっていた俺は一抹の希望に突き動かされて玄関に続くふすまを見つめた。静かに開いたふすまから姿を現した人影が俺を見てひそやかに名前を呼んだ。

「遙先輩」
「……怜、」
「部活、休むんですか」

 怜はすたすたと畳を踏みしめ躊躇いなく俺の前にしゃがみこむ。仕方のない人だ、とでも言いたげな顔をしていた。俺の酷いさまを見て大体何があったのかを察したのかもしれなかった。怜は聡明な方だから俺みたいに無神経なことをして人を傷つけたりしないのだろう。

 薄闇のなかで水泳部のジャージは白く浮かび上がっていて暗がりに溶け込もうとしている俺を容赦なく照らし出す。ほっといてくれ、と口に出す代わりに黙ったまま俯いた。だというのに怜はそんなこと意にも介さずそこにいた。俺が何か話すまで帰ってはくれないみたいだった。

 仕方なく暗がりで考え続けていたまとまらない思考を口に出してみる。

「俺は、間違ってたのか」
「どうでしょうね。僕はまだ水泳部に入って間もないですから。先輩たちの間に何があったのかも知りません」
「真琴を幸せにしたかったんだ」
「十分幸せなんじゃないですか。そう思ったから遙先輩はここでそんなふうにうじうじしているわけでしょう」
「……慰めに来たんじゃないのか」
「まさか。僕は部活を遅刻した先輩を迎えに来ただけですよ」

 どことなくつまらなそうな怜の受け答えで小さじ一杯ほど気分が浮上する。怜にとってしてみれば俺がこうして腐っているのも大したことではないのかもしれない。青く透き通ったプールの中で一時間も泳いでいればそれなりに忘れてしまう程度の悩みなのかもしれなかった。

「だって、ようするに失恋でしょう」
「オブラートに包め」
「僕が来たときあからさまにがっかりした顔をしておいて」
「戻ってきたのがお前じゃなくて真琴だったら好きだと言おうと思ってた」
「それじゃあそもそも始まってもいないじゃないですか」

 今度こそ本当に呆れを隠さないため息を漏らして怜はやれやれと肩を竦めた。それからちょっと考えて鷹揚に腕を組む。

「天方先生ならこう言うでしょう。こんな名言があります。恋をして恋を失った方が、一度も恋をしなかったよりマシである」
「そうなのか」
「そうなんじゃないですか。よかったですね」

 誰の名言かはわからない。けど、今の俺が真琴を好きにならなかった俺よりもほんの僅かでもマシだというのならその分だけは救われた気がする。
 体育座りのままではあるが顔を上げて怜を見るとそこにはっきり「早く練習に戻りたい」と書かれていた。

「凛先輩も真琴先輩もお休みで僕と渚くんしかいないんです。笹部コーチの指導を二人で受けるのはきついので遙先輩もそろそろ準備してください」
「……わかった」

 怜に促されるがまま支度を済ませて家を出る。昼に近づこうとしている時間の太陽は顔面に直接日光を浴びせてきて、強い光線に包まれた瞬間プールの残像が目の前をよぎった。
 青く冷たいあの水に一刻も早く飛び込みたかった。



――――――――――――



 夏休みはあっという間に終わり、明日から新学期が始まろうという日の夕暮時。

 俺は家の近くの公園にある古びた小さいベンチに座って約束の人を待っていた。時計の時刻は17時55分。あと5分で待ち合わせの時間だ。

 実は30分ほど前からこの場所に座っていた。緊張を少しでも落ち着けるためだったはずが待っている時間にますます緊張感は増して既に全身強張っていた。おまけに15分ほど前からは頻繁に時計を確認するせいでいっこうに時が進まない錯覚に陥り、緊張と時間によってじりじりと追い詰められているみたいだった。

 胸を押さえ軽く深呼吸する。公園の入り口に現れた人影が俺を見て血相を変えた。

「真琴!」
「あ、凛。久しぶり」
「苦しいのか?薬は?」
「へ?あ、違うよ。ちょっと深呼吸しただけだから」
 
 ベンチに腰掛ける俺の前に跪きぺたぺたと顔中を触られて、離れていた少しの間にも凛が変わっていなかったことに思わず笑ってしまう。やっぱり凛は優しかった。本質的な、根っこのところでどうしようもなく変わってしまっていたとしても。

 膝をついたまま安堵する凛のことを慌てて立ち上がらせる。その服でそんなことをしたら途端に汚れてしまうだろうに、凛は気にした様子もなく適当に砂埃を払っていた。

 改めて俺の目の前にあらわれる明日からの真新しい凛。
 凛の色味と調和した鮫柄学園の夏制服。

「かっこいいよ。すごく似合ってる」
「そうか?目に焼き付けとけよ、しばらく見られねえぞ」
「でもやっぱり冬服の方が見たかったな」
「まだ出来てねえらしいからな。冬にはこっちに戻るから、そん時まで楽しみにしとけ」
 
 凛の広くて骨ばった手が乱暴に俺の頭を撫でる。こんなにも楽しそうに髪を乱されてしまっては抗議する気もまったく起きず一緒になって笑ってしまう。凛からこんな風に撫でられるのはもう最後になるかもしれない。



 お互いの針で傷つけあわないために俺たちは離れることを選択した。夏休み明けの新学期から凛は全寮制の鮫柄学園へと転校することになった。気軽に会いに行けないような距離じゃない。それでも、今までに比べれば寂しくて仕方がなくなるほど遠い場所に行ってしまう。

 隣に凛がいないというのは一体どんなものなのだろう。不安だったけれど、悲しくはなかった。これで凛はあるべき場所に戻れるのだという喜びこそが先にある。

 狭いベンチを二人で分け合い会わなかった間の話をした。鮫柄学園への編入手続きでここ最近凛は忙しく、部活にも来られなかったから話したいことはたくさんあった。たった一週間かそこらでこんなに体がむずむずする。これから何ヶ月も凛と会えない日々は続くのに。

 口に出さないと決めていた想いが喉の動きを鈍らせる。俯く俺に気づいた凛が黙って頭を撫でてくれる。泣いてしまうからやめてというと、泣いとけばいいだろと無責任に返ってきた。
 泣かないって決めたのに、だめだ、視界がぼやけていく。

 
 零れる涙を隠すように凛の胸へと鼻先を埋めた。新しい匂いのする制服に水滴が次々染み込んで布地を色濃く染め上げていく。乾けば消えて、洗濯すれば完全に失われてしまう、ただ一瞬だけ新しい凛に干渉できたというあかし。

「さようなら、凛」
「じゃあな、真琴」


 笑って告げるはずだったお別れは涙に滲んで不明瞭だった。
 俺を抱きしめて離さない凛が仕方なさそうに笑っている。


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