遙先輩の泳ぎを見たとき、僕はこの世にこれほど美しいものがあるのかと、人はこんなにも美しくなれるのかと、心の底から感動した。泳げない僕があんな風に泳ぎたいと思う程、遙先輩が泳ぐ姿はどうしようもなく美しかったのだ。
そうであるから、僕が水泳部でまず行ったことは遙先輩に泳法の理論について教えを乞うことである。どうすればあんな風に美しく泳げるんですか。僕の純粋な問いかけに遙先輩は少し不思議そうな顔をして、黙り込んだまま結局答えてはくれなかった。何時尋ねても結果は同じ。無言でじっと見つめられる。
僕は思う。やはり遙先輩の泳ぎには独自の理論というものがあって、おいそれと他人に教えるものではないのかもしれない。もしくは古い職人気質の人間に教えを乞う際度々聞くように、大事な技術は見て盗め、というのが信条であるのかもしれなかった。
だがしかしそうなってくるとあまり都合が良くない。今の時期はまだ肌寒く、岩鳶高校の屋外プールで泳ぐことはまず、無い。見て盗もうにも見る機会がない。そうやって困り果てていた僕に声を掛けたのは遙先輩と同じ二年生である真琴先輩だった。
「よかったら、今度の日曜日市民プールに行かないかな」
「市民プール?」
「温水だから今の季節にも開いてるんだ。遠いからしょっちゅうは行けないけど、怜は水泳部に入ったばかりだし、本格的な活動が始まる前に少しでも練習しておきたいんじゃないかと思って」
「遙先輩は行くんですか」
「え、ハル?うん、誘うつもりだけど……」
おーい、ハル!真琴先輩の呼びかけに、プールサイドでストレッチをしていた遙先輩が振り返る。
「今度の日曜、市民プール行こうと思うんだけど、ハルも来るだろ?」
「……!」
「行くってさ」
話を聞きつけた渚くんが何処からともなく現れて、僕も行く!と勢いよく手を上げる。真琴先輩にまとわりついて
「ねえいいでしょマコちゃん!」
先輩に対するにはあまりに軽すぎる態度だったが、そこは幼馴染ゆえなのか。真琴先輩は特に気にする様子もなくはいはいわかったわかった、なんて言いながら渚くんをいなしていた。
「では、ぜひ僕もご一緒させてください。遙先輩の泳ぎを見るいい機会だ」
ずり落ちた眼鏡を持ち上げて、僕がそう言うと真琴先輩は何故だかとても嬉しそうに「ハルの泳ぎは綺麗だもんね」と笑った。




日曜日。市民プールは時節柄か、思ったよりも人が少なく練習するにはいい環境だった。
誰よりも素早く水着に着替えた遙先輩が真っ先にプールへと飛び込んでいく。洗練された美しいフォーム。飛び散る水飛沫のひとつさえ、泳ぐ姿の装飾でしかない。
僕は食い入るようにその姿を見つめて、どうすればあの姿に近づけるのか様々に思考を巡らせる。
「上腕三頭筋の伸縮……水面に対する腕の入射角は……水中で保つべき姿勢と抵抗の考慮……最も効率的な速度が……」
考えれば考えるほど、遙先輩のように泳ぐということがどれほど難しいことなのか、その事実が目の前に突きつけられる。遙先輩から遠ざかっていくような気さえした。
それでも何か学び取るべく目を凝らしていた視界の端に、飛び込み台に立つ真琴先輩の姿が映った。
「マコちゃん頑張れー!」
僕の隣で渚くんがぶんぶんと大袈裟に手を振っている。小さく手を上げた真琴先輩が、虹色の光沢を放つゴーグルを身につけて、静かに深呼吸したようだった。
肩が大きく上下して、次の瞬間、僕は息を呑む。

「ハルちゃんのフリーも綺麗だけど、マコちゃんのバックもすごく綺麗だよね」
僕に話しかけたのだろうか。渚くんの言葉が通り過ぎてゆく。
返事をしないことに呆れたのか、渚くんが思い切り僕の体を揺すったが僕は真琴先輩から一瞬も目を離さなかった。
しなやかな筋肉の収縮と、力強くも繊細なフォーム。空を見上げて泳ぐ真琴先輩の、精緻な硝子細工じみた美しさ。
「……綺麗だ」
渚くんを振り切って、プールを往復し終わった真琴先輩へと足早に歩み寄る。ゴーグルを外した真琴先輩が僕に向かって首を傾げた。
その手をとって、翠色の双眸を覗き込む。
「真琴先輩」
「は、はい」
「どうしてもっと早く教えてくれなかったんですか」
「えっと、……何を?」
「あなたの泳ぎが、そしてあなた自身が、あんなにも美しいってことをです!」
「えぇ?!」
後ずさる真琴先輩を掴んだ手ごと押しとどめ、僕の目に真琴先輩が如何に美しく映ったのかを事細かに伝え続けた。
言葉は次々に溢れ出てきて留まる様子がない。真琴先輩が俯き微動だにしなくなっても、ひととおり言い終えるまで構わなかった。
真琴先輩が顔を上げる。縁に朱を梳かれた目が驚愕に見開かれる。
「うわぁ!?怜、鼻血!鼻血出てる!!」
「鼻血……?」
手の甲で口元を拭ってみると、なるほど確かにぬるついた感触があった。拭った肌にはべったりとスプラッターばりに真っ赤な血液が塗りたくられていた。
いつの間に、こんなに興奮していたのだろう。けれど不思議ではない。泳ぐ真琴先輩の美しさに抱いた感情は未だ全く冷めやらなかった。
鼻血などに頓着しない僕と相反するように、真琴先輩はその長い指で僕の鼻を摘まんで頭を前に傾かせた。
「このまま、ちょっとじっとしてて。血が止まるまで啜ったりしたらダメだよ」
「はい。あの、真琴先輩」
びくっ、と真琴先輩の体が跳ねた。そんなに怯えられるようなことをしただろうか。
「鼻血が止まったら僕に泳ぎを教えてください」
「あ、ああ。もちろんいいよ。今日はその為に来たんだしね」
「それからもう一度先輩の泳ぎを見せてください」
「……俺のじゃ、参考にならないんじゃない?」
「そんなことありません!」
まっすぐに翠色を見つめながら、鼻を摘ままれたままの間抜けな顔で僕は言う。
「あなたは、とても綺麗だ」

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