今日はとても寒い日で、広い窓から外を眺めていた俺はちらつき始めた雪に気づき思わず感嘆の声を上げた。机に向かって宿題をする真琴に興奮しながらそのことを伝える。

「真琴!雪!外雪降ってるぞ!」
「わあ、ほんとだ」

 強く握ったら折れてしまいそうに細い手を窓枠にかけて外を眺める真琴の隣で同じように雪を眺めながら、俺と同じ小学生なのにどこか大人びたその表情をちらりと横目で窺った。

 まるで手の届かない遠い場所、絵画のなかに描かれた現実にはない美しい世界を見ているような顔。寂しくて、でも諦めている。そんな顔をさせたくなくて真琴の手を取り立ち上がる。

「なあ外行こうぜ!雪で遊ぼう!」
「だ、だめだよ。お母さんから外には出ちゃいけないって言われてるもん」
「いいだろ、ちょっとぐらい」
「……ごめん、凛。部屋の中じゃつまらないよね」

 笑わせたかったはずの真琴は俺の意に反して悲しそうに眉を下げた。慌ててもう一度その場に座り、真琴の頬を両手で包んだ。やわらかくてすべすべとした肌を手のひらで撫でると「くすぐったいよ」と真琴が笑う。

 ほんわりとした真琴の笑顔はやっぱりすごく可愛かった。そう言うと、真琴はいつも怒った顔をするけれど。俺は男なんだから可愛いって言われても困るよ、なんて。

「部屋の中でも真琴がいるからつまんなくなんかねえよ」
「でも、雪で遊びたいんでしょ」
「いいの!それより真琴、宿題教えろよ。こくごとか全然分かんねー」
「それはいいけど……凛、宿題もってきたの?」
「あっ!」
「やっぱり」

 また真琴が笑った。たったそれだけで幸せな気分になる。本当は宿題を持ってきていたけど、せっかく真琴と一緒に居るのだから宿題よりも大事なことがあった。真琴に話したいことがたくさんあるし、真琴から聞きたいこともたくさんある。



 小学校で俺と真琴は違うクラスだから一緒に遊ぶことも少ない。その分放課後や休みの日はこうして真琴の家に来て遊ぶことが多い。真琴はあんまり家から出られないから、いつも俺がここにきて真琴の部屋で時間を過ごす。たまには真琴とドッジボールとか、サッカーとかしてみたいって思うけど、そう聞くたびにお母さんからだめって言われてるから、とすげなく断られてしまっていた。

 冬も夏も同じ温度の真琴の部屋。そこで真琴はいつも白くて触れたら壊れてしまいそうな姿をして本を読んでいる。毎日違う本を読んでいるから真琴はこくごが得意なんだと思う。

 俺はこくごがすごく苦手で、登場人物の気持ちとか言われてもさっぱりわからないのに、真琴は問題文をさらさらと読んだだけで「このひとはこのときこういう気持ちだったんじゃないかな」と正解を言い当ててしまうことができた。

 「真琴はすごいな!」そう言ったときのはにかみながら照れ臭そうに笑う表情も好きだった。思い出すと胸がきゅうっとなる。心臓がどきどきして、顔がじんわりと熱くなる。

 前に俺がそうなったとき、熱でもあるんじゃないかと真琴はひどく心配しておばさんに知らせに行こうとしたから必死に止めたこともあった。そういうことがあってから俺はなるべく真琴の前で赤面したりはしないよう努力しているのだけれど、たまに真琴はいつも以上にきらきらしているからあんまり努力の意味はなかった。

 真琴はそうなるたびに俺のことをとても気遣ってくれてますます顔が赤くなるという困った事態にもなっている。


 今もそうだ。考えただけで顔が熱い。真琴に顔を見られたら今度こそおばさんを呼ばれるかもしれない。

 だから俺は顔を背け、「凛?」と不思議そうにする真琴にわざとらしく喉が渇いたと告げた。真琴が飲み物を取りに行っている間に顔を冷やしてしまうつもりで。

「あ、うん。分かった、待ってて」

 案の定真琴はすぐに部屋を出て、壁一枚隔てた向こう側からぱたぱたと階段を降りる足音が聞こえた。とりあえず気づかれなかったことにほっと安堵の息を吐き手や下敷きで顔をあおいでみても熱さはいっこうになくならない。

 困った俺はふと窓を見て外の冷たい空気なら顔を冷やせるのではないだろうかと思いつく。


 真琴が部屋にいる時は開けちゃだめだと言われているが、今、真琴は部屋に居ない。
戻ってくる音がしたら急いで閉めればいいだろう。


 そう思って窓ガラスに手を掛けた。少しだけ隙間を開くと思ったよりも冷たい空気が室内に激しく吹き込んだ。正面からそれを受け止めているとあんなに火照っていた俺の顔がみるみるうちに冷えていく。

 窓枠とガラスの狭い隙間を風が音を立てて吹き込んでいたせいで俺は扉の外から響く足音に気づくことができなかった。真琴が扉を押し開く音さえ微かにしか聞こえなかった。
背後でがしゃんとけたたましい音がした。振り向くと真琴がその場に膝をつき周囲には零れたジュースと割れたコップが散乱していた。

「大丈夫か、真琴!!」
「……っ、……!」
 
 細い喉を手のひらで覆い苦しそうに身を屈めて激しい咳を繰り返すその様子は尋常ではなく、俺は転がるように部屋を出て階段の下に向かい大声を張り上げた。

「おばさんっ!!早く来て!!真琴が!!」

 苦しむ真琴の傍らに膝をつき何度も背中を撫でたって咳はちっとも治まらず、むしろますます激しさを増していた。真琴の小さな口からは窓から吹き込む風と同じ音が絶えずこぼれ出て、紫に変色した唇と紙のように真っ白な顔色が俺の不安を掻きたてる。

 弱弱しく震える手を握りしめると浅い呼吸を繰り返していた真琴が俺に顔を向けた。辛くて、苦しいはずなのに、浅い呼吸の最中で真琴は振り絞るように俺を呼んだ。俺は何度も頷いて、ここにいる、一緒にいる、と馬鹿みたいに繰り返すことしかできず、駆けつけてきたおばさんが真琴に治療を施すのをただ呆然と眺めていた。





 
「真琴はね、暖かすぎたり、寒すぎたりするとああいう風に息ができなくなってしまうの。凛くんみたいに走り回ったり、思い切り遊んだりもできない。そういう病気なのよ」
 
 薬で発作が落ち着いた真琴はすぐに深い眠りについた。

 発作の原因を作ってしまった俺のことをおばさんは責めなかった。ちゃんと教えてあげなくてごめんなさい。そう言って俺にどうして真琴がほかの子と違うのか、その理由を教えてくれた。窓を開けちゃいけないのも、外で遊んじゃいけないのも、全部真琴が苦しまないようにするため。真琴を守るためだということを。

「治らねえの?」

 恐る恐る聞いた俺に、真琴とそっくりな顔で笑いながら

「真琴が大人になったら治るわ」
「そしたら真琴といっぱい遊べる?」
「ええ、そうね」

そう言ってくれたけれど、何もできなかった無力さと真琴を苦しませてしまった原因が自分にあることが悔しくて俯き奥歯を噛んだ。

 真琴の眠るベッドに近寄り膝をついて青白い肌にそっと触れる。いつもより冷たいけれど大丈夫、ちゃんと生きている。

 俺が触れたことで起きたのか真琴が薄らと目を開けた。声はまだ出せないらしく吐息だけで俺の名前を呼んだ。真琴から俺がよく見えるように乗り出して顔を覗き込んだ。翠色の綺麗な目がまぶたの間から俺を映す。

 その時俺は初めて真琴を心底かわいそうだと思った。かわいくてかわいそうな真琴。あんなに苦しくて辛いことを抱えて生きなければいけない真琴。俺よりもずっと弱い存在である目の前の真琴を見ていると自然に口が動いていた。

「真琴が大人になって、病気が治るまで一緒にいる」
 
 真琴がぱちんと瞬きをした。驚いているみたいだった。しゃべろうとして、でもできなくて口を開いたり閉じたりしていた。そんなのだめだよ、真琴がそう言いたいのは分かっていたけれど俺は構わずに誓いを立てた。
 
「俺がずっと真琴のこと守ってやるからな!」
 
 強引に小指を絡ませてできるだけ強くぎゅっと握った。早口に歌を歌い終わって小指がそっとほどけたあと、真琴は少しだけ戸惑ってから俺の大好きな顔で笑った。
かわいくてかわいそうな俺の真琴が「やくそくね」と小さく呟いた。






 薬品の匂いが染みついた病室で眠る真琴はあの日と同じ青白い顔をしていて、病院着に身を包んだ胸元は浅く上下しているのに不安になりそうなほど静かだ。光を透かした薄いカーテンの擦れる音と自分自身の鼓動だけがそこにあるすべてかもしれない。

 こびり付いた涙のあとを拭い去ろうと真琴の頬に指先を伸ばす。肌に触れるか触れないかで真琴がゆっくりと目を開けた。上から覗き込む俺のことを見て「あの時と同じだね」そう言った。

 その顔はあんまりにも綺麗でどこまでも安心しきっていて、自分の中に燻って凝った後悔や自責の念が形を変え八つ当たりのように口をつく。自分でも最低だとは思うが止められなかった。

「なんで、あんな風に走ったりすんだよ!お前が倒れたとき、俺が、俺がどんな思いで……っ!!」
「……泣いてるの?」

 力なくベッドに落ちていた真琴の手が持ち上がり俺の眦に触れた。自分でも気づかないうちに泣いていたのだとその時分かった。自覚した途端とめどなく零れ出す涙を拭おうとしている真琴の手を掴み折れるほど強く両手で握った。冷たい手のひらに額を預けて子供のようにしゃくりあげる。

 眠りのはざまでうつろうようにぼんやりと俺を眺めていた真琴が不意に微笑み息を吐いた。吐息が余分に混ざりすぎて滲んだ不明瞭な声で

「ねえ。聞いて、凛」
「真琴……?」
「俺のこと、今まで守ってくれてありがとう」
「そんなの当然じゃねえか……っ」
「当然なんかじゃない、約束したから。凛はずっとあの約束を忘れないでいてくれた。…………本当は鮫柄に行きたかったんだろ?高校受験の時、凛が鮫柄のパンフレットを取り寄せてたこと知ってたのに、俺が凛と一緒にいたいって言ったから、そのせいで凛は……っ」

 隠してきた罪を白日の下に晒しだそうと懺悔する真琴はそれでも俺から目を逸らさなかった。瞳に俺以外を映さないまま最後まで言葉を続けることに全力を傾けているようだった。咳き込み、息を詰まらせながら真琴は言った。

「自由を、奪ってしまって、ごめんね」
「……っ違う」
「違わないよ、俺のせいだ」
「違う!お前と一緒に居ることを選んだのは俺だ!!」



 真琴の言う通り確かに俺は鮫柄高校を受験するつもりでパンフレットを取り寄せていた。真琴が岩鳶に行くと知っても心は変わらなかった。その頃にはもう十分真琴の喘息は落ち着きを見せていたし、元々病気が治るまでという約束だったのだからまた普通の友人に戻るだけだと考えていた。

 俺は真琴の後を追いかけて始めた水泳に夢中で、水泳部に力を入れている鮫柄高校でもっと速くなりたいという憧れに突き動かされていた。
そんな時だった。ハルが俺のことを呼びだしたのは。

「凛、お前鮫柄に行くのか」
「おう。なんで知ってんの?」
「パンフレット見てただろ。……真琴は岩鳶だぞ」
「そうみたいだな。残念だけど、まあしょうがねえよ」

 意図の分からない質問に付き合わされて少々うんざりしていた俺はハルが黙ってしまったのを見てこれでようやく泳ぎに行けるとのんきなことを考えていた。

 ハルから呼び出されるなんて滅多になかったことだから何を言われるかと構えていたがこんなことなら後でメールでもなんでもしてくれたらいい。わざわざこんな場所に呼び出さなければいけないほどの用件とは思えない。

 踵を返そうとした俺の背にハルの無感情な言葉がぶつかる。

「お前はそれでいいんだな」
「なにがだよ」
「お前は、真琴を手放すんだな」
「は……?」

 凍りついた俺を見てハルは勝ち誇ったように笑った。それだけでハルが何を言いたいのか俺には理解できてしまった。これまで俺が独占してきた真琴の隣をハルは奪おうとしているのだ。いや、違う。奪ったりしない。ただ俺のいなくなった場所に入り込もうとしているだけ。

 実際それは簡単だろう。鮫柄学園は全寮制で実家のあるこちらに戻るのは年に数度の帰省時期か週末に顔を出すぐらいしかできなくなる。そうすれば必然的に真琴と会う時間も少なくなってハルは俺のいない間に真琴と親交を深めていく。元々の付き合いは俺よりも古いハルだから真琴が完全に気を許すまでそんなに時間はいらないはずだ。

 想像が頭を駆け巡った。俺が今まで真琴としてきた全てのことはハルとの新しい思い出に塗り替えられる。真琴の一番はハルになって俺の存在は忘れられる。

 ――――――途方もなく恐ろしかった。嫌だ、と強く思った。


 刺すように鋭い視線でハルのことを睨みつけても眉一つ動かさない。苛立ちから歯を噛みしめてもせき止められなくなった感情を言葉にしてハルにぶつけた。ありとあらゆる醜い感情を詰め込んだ声にハルが漸く目を見開いた。

「真琴を守れんのは俺だけだ」
「真琴はもうお前に守られなきゃいけないような存在じゃない。お前が持ち歩いている発作薬だってずいぶん使ってないんだろう」
「いくら頑張ったってお前じゃ俺にはなれねえよ。真琴と約束をしたのは俺だ。お前じゃない」
「お前が鮫柄に行くのなら約束はこれで終わりになる」
 
 ハルの言葉は正しかった。そうだ、さっきまでの俺は真琴との約束を終わらせて鮫柄に行くつもりだったじゃないか。なのにいざハルからそれを突きつけられると受け入れられずに混乱している。

 真琴から離れるってそういうことだ。俺の隣で笑っていた真琴が誰かの隣で同じように笑うこと。一緒にいることがなくなるから守る必要も失われて。

 腹の中が煮えたぎって今にも叫びだしそうだった。
 真琴は俺のものだとみっともなく叫んで、暴れて、ハルにそのことをわからせたかった。

 けれど多分、そうしたとしてもハルは笑みを崩さなかっただろう。俺が鮫柄に行く限り、ハルの望むように真琴は一人になるはずだから。

 心はもう決まっていた。血を吐くように声を振り絞った。

「鮫柄にはいかねえ。俺も、真琴と岩鳶に行く」
「岩鳶に水泳部はないぞ」
「部活じゃなくても泳ぐ場所はある。でも、真琴は岩鳶にしかいねえ」
「……そうか」

 俺がそう宣言したあと、わけのわからないことにハルは安心した、と呟いて一人だけさっさと行ってしまった。その場に取り残されてしまった俺はぽかんとハルを見送ってから言われたことの意味についてどうにか理解しようとした。

 安心した、とはどういう意味だ。むしろ悔しがるところではないのか。真琴の隣を狙っていたのなら俺が岩鳶に進学するのが心底邪魔に思えるはずだ。わからない。

 考えても考えても答えは出ず、結局俺はハルのいうことだからと諦めてしまうことにした。分からないものにいつまでも囚われたって仕方がない。

 とにかく俺は岩鳶でも真琴を守るし、一緒にいてハルを近づけないようにしよう。ハルだけじゃない、他にも真琴に目をつけるやつがいるかもしれない。

 
 たとえ、その中の誰かと真琴がいくら仲良くなったとしても。
 真琴の隣は俺のものだ。絶対に誰にも渡さない。



「――――だから、俺はお前のせいで鮫柄を諦めたんじゃない。お前がほかのやつといるのが嫌だったから自分で選んで岩鳶に来たんだ。お前の世界を狭くしたのは俺だ。お前には俺しかいないって信じ込ませて、お前を縛った。謝るのは俺なんだ……!」

 こんな醜い俺のことを真琴にだけは知ってほしくなかった。約束を盾にして身勝手に真琴を束縛した愚かで最低な俺のことを。

 黙って話を聞いていた真琴が両腕を伸ばして俺の頭を抱きよせた。力任せに手を握ることしかできなかった俺とは違うやさしいあたたかさに包まれてまぶたが少しだけ重たくなった。囁く真琴の声が震える。真琴も泣いているのかもしれない。

「今ならハルの言ってたこと分かる気がする」
「ハルの言ってたこと?」
「俺たちは近すぎて、お互いのことを傷つけあっているんだって。……ごめんね、凛、苦しかったよね。俺も苦しかった。ずっと、ずっと」
 
 俺たちはヤマアラシのジレンマに陥っていることに気づかないまま今日この日まで来てしまった。お互いに傷つけあっているだなんて夢にも思わず相手に針を突き刺していた。
ハルはちゃんと気付いていたのだ。俺と真琴から流れる血をどんな思いで見ていたのだろう。

 近すぎて傷つけることしかできないのなら選ぶべき選択肢はひとつしかない。なにをすればいいかはよくわかる。そうすることが一番だと知っていて目を逸らし続けていたから。

 俺は岩鳶に進むと決めたときからいつも頭の片隅にこびり付いていたある考えを口にした。頭上で真琴が息を呑み、何度も鼻を啜ったけれど「うん、そうだね」と言ってくれた。

 真琴が同意したことで途方もない孤独感が身体中を駆け巡る。頷かないでほしかったという状況と相反した思いが嵐のように吹き荒れる。


 寒さから来るものではない震えを止めるため俺はベッドの上の真琴に何度も何度もキスをした。

 鼻腔に染みつく薬品の匂いと真琴の流す涙の味は、これから先思い出すたびに鮮やかな現実感を伴って俺の心を締め付けるのだろう。


 ――――――それはまるで、恋にも似て。


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