自宅に戻ってからも、最後に見たハルの顔が瞼の裏に焼き付いていた。ハルを傷つけてしまったことが冷たい罪悪感となって俺の心にのしかかっていた。
 俺は幸せじゃないとハルから言われ、苦しくても幸せだったとハルの言葉を否定した。でも、結局あんなの屁理屈だ。周りから見た俺と凛の関係はハルが言うように幸せではないのだと思う。

 幼い日の約束ひとつで凛のことを一方的にしばりつけている俺はどんなにみっともないことだろう。
ハルはわざわざ指摘してくれたのに俺はただ自分の願望だけでその親切を無にしてしまった。終わりを告げられるなら凛がいい、なんて身勝手な望みのために。

 水着とゴーグル、洗い立てのタオルをエナメルバッグに詰めながら真っ赤な彼のことを思い出す。

 はやく凛に会いたかった。どうしても凛に会いたくなかった。
 矛盾する思いを抱えたまま部屋から出て玄関へと向かう。押し開けた扉の先、部活で会えると思っていた相手の姿がそこにある。

「凛……」
「よお」

 外壁に背を凭れさせて凛が俺を待っていた。白と水色のジャージに身を包み、額には薄らと汗が浮いていた。よく考えれば分かることだ。凛は俺を毎朝家まで迎えに来ていた。雨の日も風の日も、俺が外に出なきゃいけない日はいつも外壁の定位置で俺が出てくるのを待っていた。

 ハルの家に泊まった俺が一度自宅に戻るだろうと予想していたのかもしれない。凛ほど俺のことをよく分かっている人はいないから。

 まじまじと凛を見つめていた俺が思い出したようにおはようと言うと凛はちょっとだけ笑ってからおはよう、と同じものを返してくれる。俺たちはいつものようにあいさつを交わし、いつものように並んで歩いた。



 普段あまり世間話をするような性質ではない凛が今日はやけによくしゃべる。部活の練習メニューから天気の話、目の前で路地に消えていった白猫の話などそれはもうたくさん。
 話題が立ち消えてしまっては次の話題を振ってくるのは、もしかしたら大事な話をするタイミングを見極めているのかもしれないと思った。たとえばそう、昨日からずっと考えていた終わりのこと、とか。

 俺からきっかけをあげたりしない。なるべく長く続いてほしいから。このぐらい最後のわがままだと思って許してほしい。途絶えることのない他愛もない話に取りとめなく返答しながら学校までの道をゆっくりと進む。白い浜辺が目の前に広がり海の音が満ちたその場所で、凛は漸く立ち止まった。

 ああ、もうか。短かったな。俺も笑いながら足を止める。

「……なあ、お前」
「うん。なあに、凛」
「お前、昨日」

 凛にしては珍しく歯切れの悪い言い方はまるでこの関係が壊れることを惜しんでくれているかのように思えて悲しいのになんだか嬉しかった。少なくとも俺は凛にとってどうでもいい存在という訳ではなかったんだとそう思える。じわりと眦に滲んだ涙もお蔭で暫くは堪えられそうだ。

 綺麗な赤い目が痛みに耐えて歪んだ。ありがとう、ごめんなさい。言うべき言葉を口の中だけで練習する俺に凛は言った。

「ハルと、キスしたのか」
「……え?」

 予想外の問いかけに間抜けな声を出した俺を凛の視線が探るように貫く。「なんで、そのこと」思わず口にしてしまった言葉を、しまったと思う時にはもう遅くて、聞き届けてしまった凛が傷ついたような顔をする。

「ハルの家までお前を迎えに行って、言われた。お前とキスしたって」
「ちがっ……!凛、違うよ……!」
「何慌ててんだよ。別に、お前が誰と付き合おうと、俺には関係ねえ」
「付き合うとかじゃなくて、あれは……っ」
「じゃあお前、付き合ってもねえやつとキスしたのか」
「凛、話を聞いて……!」
「明日からは俺の迎えも必要ねえだろ。ハルと仲良くな。……じゃあな、真琴」

 想像していたのと同じ言葉で俺に最後の別れを告げた。凛は駆け出し、立ち止まらず、どんどん背中が小さくなる。

 待って、待っていかないで。確かに俺は凛からのさようならを求めたけれど、こんな形を望んでいたわけじゃなかった。凛に勘違いされたままなにもかも終わりになるなんていやだ。いやだよ凛。

 もうはるか彼方に見える凛の姿を追って駆け出した。こんなに全力で走ったのは初めてかもしれなかった。物心ついたときには既に母から強く走ってはいけないと言い含められていて、成長し喘息が治まりかけた今も本気で走るようなことはなかった。

 ここで凛と話せなかったらきっと一生の後悔になる。その衝動だけで足を動かし、今にも見えなくなりそうな凛のことを必死で追いかける。

「待って!凛!」

 走りながら叫んだけれど到底届いてくれそうもないか細い声が出た。酸素だけを無駄に消費して呼吸が一気に苦しくなった。喉がひゅうひゅうと風の音を吐きだし、乾いた咳が肺を揺らした。苦しくて意識がもうろうとする。足がもつれ、転びそうになる。

「ま、って…!凛……っ!」

 霞んでいく視界の中で凛の姿と風景が混ざり合い一つになった。待って、凛。置いていかないで。俺のことひとりにしないって約束してくれたのに。

 がくんと膝から力が抜けた。アスファルトで舗装された地面に前のめりになって倒れ込んだ。息が苦しい、空気が足りない。視界がどんどん狭くなって生理的な涙が頬を伝う。

「り、……ん」
「真琴っ!!」

 世界が暗闇に閉ざされていく。意識を失う直前に凛の声を聞いたのは、恐らく未練がましい俺のはかない願望だったのだろう。


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