胸の中に風が吹く。
 吸い込んだ空気を吹き飛ばしてゆく。
 激しい咳と断続的な喘鳴、息が苦しくて視界が霞む。床に膝をついた俺の背を傍らから伸びた広い手が支えた。
 口元へと押し当てられるプラスチック製の吸入器。
 生理的な涙が頬を伝って、重力に従い鼻と顎まで濡らして、背中を撫でる温かい手が三回目に降りたタイミングで思い切り息を吸い込んだ。火傷をしたみたいに熱い気道を通るきめ細かな粉末。
呼吸を、ゆっくりコントロールする。

「っ……あ、りがと、凛」
「まだ喋るな」

 無愛想な言葉の中身は俺だけに捧げられる優しさに満ち溢れていた。その声色にまた少しだけつかえた呼吸が楽になる。
 まるで盲目的に神様を信じる殉教者のような凛は、何もかもわかっている顔をしていて、動かすための力がまだない俺の手を固く握ってくれた。



―――――――――――――



 毎日50分ずつ厳かになる教室の中にはシャープペンシルの細い芯から解き放たれて空気に溶け込む炭素のにおいと隣同士に座る仲良しにしか聞き取れない話し声、机に突っ伏す学友のひそやかな寝息がごちゃごちゃと混ざり合っていて、比較的ゆるい性質の担当教師(教科は現国だった)がもう諦めてしまったように教科書を読み上げていた。

 谷崎純一郎の春琴抄。耽美で閉塞的、夢みたいな世界。自己を犠牲とすることに、美しい姫君に献身を捧げることに、至上の悦びを感じた男の終なる選択。

 現実味の伴わない霞のような物語、そういうものが嫌いではない俺だけが教師の朗読に耳を貸しているような気さえした。自己犠牲ってのはいい。それが結局自分自身のためだったとしても本人以外誰も傷つかない。ひとの自己犠牲は別だけれど。
 少し怖い。その対象が自分に向けられていると、特に。

 真面目に授業を受けている生徒はたぶん、教室に半分もいない。先週末に学生の頭をこれでもかと悩ます期末試験が終わって、ひととおりの答案がそれぞれの教科で返却されて、結果が良かったにしろ悪かったにしろ誰しもにひと段落が訪れた夏休み直前、午後最後の授業。
 だらけるなという方が難しいそんな時期、普段ならもう幾分か引き締まっているはずの教室は今、なんとなく不真面目でもいいような雰囲気がある。
 窓際の席に座っている俺も例外ではなく、物語の朗読が終わり解説に差し掛かると怠惰に引きずられてしまうまま、ちらりと視線を横向ければたなびく遮光布の隙間からすぐにグラウンドが目に入る。

 見下ろす先の砂地の一面。真っ白い日差しを跳ね返して焼けつく赤茶の陸上トラック。敷地外との境界に沿って背の順に並べられた使い方のよく分からない運動器具。
 窓硝子と空間を隔てた先では、どこかのクラスが太陽の下、走り回ってサッカーをしていた。ぼんやりと眺めてみる。


 向かって右側の陣地からドリブルで深く切り込んでいく見知った赤が目を惹いた。ひと際目立つ深紅の頭が、本格的な夏を間近にして鋭さを増した陽光の弾丸をものともせずに、立ちはだかるディフェンダーを見る間に躱して最後のひとり。
 相手チームのキーパーと正面きって対峙した瞬間、放たれたシュートは弧を描き新緑色のゴールに突き刺さった。驚くほどやわらかな軌道でキーパーの頭上を飛び越えて。

 広いグラウンドに散らばっていた生徒が見事にシュートを決めた彼、俺の幼馴染であるところの凛のもとにわらわら集い、見た感じ遠慮なく肩や背中を叩いている。手荒な賞賛に身体を揺らしながらも、遠くに見えるスコアボードから見ておそらく決勝点を決めた凛は気を悪くした風もなく、笑ってひとりずつに応えながら蹴り戻されたボールを器用に足元で転がしていた。
 足元に覚束ない気配などなくて、意識を寄越さなくてもボールがどこにあってどういう動きをしているのか全て把握しているみたいに。

 あまり、というか全然。サッカーなんてしたことはない。幼い頃からの喘息があるから。乾燥したこの時期、兆候のある時や、激しい運動になりそうな時は体育の授業を見学させてもらっている。あんまり響きのよろしくない特例措置というやつで。
 そんな俺にも凛のプレーがサッカー部にだって劣らない凄いものであったことは分かる。
 
 試合終了も近い時間帯で、しかもこの炎天下。体力的にも限界を迎えている選手ばかりの中でコートの右から左へとど真ん中をぶっちぎるロングドリブル。
 もちろんそのさなかでは相手チームの選手が次々ボールを奪おうと挑んでくるわけで、猛追をいとも簡単にさばききった後は誰もが見惚れる軌跡を描く目に鮮やかなループシュート。

 足を使ったスポーツが得意だとはいえ、ここまでくるともう得意とかいう次元を飛び越している気がする。
 とにかく凛は昔からこういうことがずば抜けていて、小さい頃走れない俺を置いて駆けだす背中はあっという間に地平線の彼方へ消えていった。そうして俺がいないことに気づき、行く時よりも速いスピードで駆け戻ってくるのがお約束。

 成長するに従って順調に実力を伸ばした凛は二年生の今に至るまでサッカー部や陸上部の勧誘が相次いでいる。部には入らないにしてもせめて助っ人として試合に出てくれ、なんて平身低頭頼まれるのもしょっちゅう。
 それらすべてを断って凛が所属しているのは俺と同じ水泳部だった。


 俺が渚に誘われて水泳部に入ると言ったとき。
 凛はそうかよと言ったきり、すぐ後にはそ知らぬ顔で入部届を書いていた。
 俺たちが入学した一年後に嵐のごとく岩鳶へとやってきた渚は水泳部創設にあたり凛のことも誘うつもりだったらしく、打診より先に入部届を出してもらえたのがよっぽど嬉しかったのか感激に顔を輝かせて俺と凛に抱きついてきた。ハルちゃんも入部してくれるって!またみんなで泳げるね!とかつての思い出を懐かしんでいた。

 俺たちはITSCで毎日一緒に泳いでいた。ついこの間にも、もう随分と昔にも思える。スイミングクラブの閉鎖と共に水と離れてしまっていた。空白期間は長い。

 元々、俺が水泳を始めたのは患っている喘息が理由だ。生まれつき体が小さかったのに加え、幼い時分は症状が酷くてまともに運動ができなかった。肌色なんて生白くて、触れたら折れてしまいそうだった俺をことさら心配した母親が、水泳ならば比較的喘息の症状が出辛いことを聞きつけて地元のスイミングクラブに入会させてくれたのが始まり。
 俺が水泳を始めたことを知り、凛も後を追いかけてスイミングクラブに入ってきた。俺は純粋に嬉しくて、凛と一緒に居られることを当然のように受け止めていた。
 何にも疑わない子供だった、それは、言い訳になるのだろうか。


 俺と凛と、ハルに渚。小学生時代に通っていたスイミングクラブ以来の付き合いである4人と、加えて渚が陸上部から引っ張ってきた怜、マネージャーであり凛の妹でもある江ちゃん。
 たった6人の部員しかいない水泳部はこれから夏の大会に向けて本格的に練習を開始していくところだ。

 とはいえ顧問をお願いした天方先生は正直競泳に造詣が深くない。スイミングクラブ時代お世話になった笹部コーチにその分指導をお願いしているとはいえ、毎日教えを乞えるわけもないのでお世辞にも大会を目指すには恵まれた環境とは言えず、水泳部全体にはどこかもどかしい空気が漂っている。
 実績のない水泳部は学内での評価も高くないし、部費だってほかの部活動よりずいぶん少ない。部員はもちろん欲しいけれど、満足のいく部活動がしたいなら水泳部以外に入ったほうがいいことは確かだった。

 そういう不自由な環境で、やっぱり俺は泳ぎたくて、野球にもサッカーにも目もくれず水に手を伸ばすことができたのは本当に嬉しいことだと思う。高校最初の一年間を水風呂なんかで燻っていたハルも俺と同じことを思っているはずだ。もちろん水泳部を創った渚も、陸上部から水泳部へと飛び込んできた怜だって、マネージャーの江ちゃんだってみんな一緒のはずだった。

 ――――――ただ、凛だけは。
 同じかどうかわからない。


 そこまで考えて目を閉じた。凛が間違いなく水泳を好きだということは知っている。それでいいじゃないかと言い聞かせる。
 自分に対する言い訳はじりじりと心に後ろめたさを呼び起こし、濃い灰色のいやな感情が俺の呼吸を鈍らせた。
 胸の奥がちくりと痛む。息が詰まって、囀りにも似た微かな喘鳴。
 無理をしないようゆっくりと深呼吸をして凛の笑顔を思い浮かべた。そうだ。凛は笑っていたのだ。俺がまた水泳をやると決めたとき。入部届を書きながら確かに表情は笑顔だった。
 
 それがどういう理由によるものか、完全に推し量ることはできないけれど。
 悪い意味ではなかったはずだ。少なくとも俺はそう信じている。

 そこまで大事にはならず呼吸はなだらかな落ち着きを回復した。何度か吸ったり吐いたりしてしばらく様子を確かめても大丈夫そうだった。
 再び窓の外に視線を向けると慌ただしく後片付けの行われているグラウンドの中心で、凛が顎を持ち上げてまっすぐに俺を見上げていた。綺麗な凛の赤い髪はどこにいてもよく目立った。ここからはよく見えなくても、髪と似た色をした凛の目もかがやいていることは確かだった。俺への心配でかがやいて、身を案じているだろうと分かった。

 とんとん、と指先で自らの喉元を叩く。出来うる限りの何でもなさを装って凛の瞳を見つめ返す。さっき考えていたことなどおくびにも出さない。感情を隠してしまうなら無よりも笑みの方が都合いい。
 だいじょうぶ、と動かした唇は勘のいい彼ならば読み取れたはず。
 そうである証拠に、安堵したらしい凛はあっさりと顔を逸らしてしまうと手に抱えていたサッカーボールを体育倉庫まで返しに向かった。


 窓の外を眺めている間に気づけば黒板は白と赤と黄色のチョークで容赦なしに埋められていた。
 最後に書かれた設問、『佐助が自らにとり絶対的な師たる春琴の火傷を受けて両目を突いた理由はなにか。』

 ああ、そんなの、考えなくたって分かるよ。


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