ハルからの無言の見送りを受けた俺は凛の待つ正門へと急いだ。随分待たせてしまった上に先ほどのメールでなんだか怒らせてしまったようだからもしかしたら一人で帰っているかもしれない。息を乱さないように、でも、出来るだけ早く。
 門柱の端からはみ出した真っ赤な髪にほっとする。

「お待たせ、凛」
「大して待ってねえよ」

 言うや否や歩き出す凛の隣に並んでそっと横顔を窺う。そこには怒っているような色も気を悪くしたような色もない。代わりに部室にいる時から宿し続けているぼんやりとした表情を浮かばせたままでいた。気になることがあるのだろう。絶えずどこかで思考を巡らせているようだった。


 毎日こうして二人で帰る時もともと会話が多い方ではないが普段ならもう少し話したりするのに。今日の部活。昨日のテレビ。夏休みの宿題。他愛ない話題を投げつけてみてもほとんど返事はかえってこない。

 やっぱり先ほどのハルとのことを気にしているのだろうか。凛はこう見えて意外と繊細だ。一度落ち込むと結構長引く。
誰にも相談したりしない。俺だって例外ではなかった。

 何を言っても思考の海から凛を引きずり出すのは無理そうなので、一抹の寂しさをかみ殺しながら押し黙ってひたすら歩く。少し早歩きの凛と凛よりも背の高い俺の歩調はぴたりと合って意識しなくても並ぶのは容易だ。何より隣を歩きなれているから凛の歩幅がどれだけでどのタイミングで歩くかなんて知りすぎているほど知っていた。

 片道歩いて20分程度。俺のことを送ってから凛は自分の家へと帰る。俺の家から凛の家は決して遠いわけではなくむしろ近い方。だからと言って凛の家が俺の家までの帰り道にあるというわけじゃない。

 小学校に通い出したころからずっとこうだ。凛の持つ鞄の中にはいつでも使える状態の吸入器と発作薬が入っている。すべては俺のため。俺が発作を起こしてもすぐに対処できるように。凛は毎朝家まで迎えに来るし、毎夕俺を送り届けてくれる。
 母さんも父さんも凛のことをとても頼りにしていて、会うたびにいつもありがとう。これからも真琴をよろしくね、なんて小学生の友達に言うような調子を高校生の今まで引きずっていたりする。
 それに対する凛の返答は同じ。はい、もちろんです。

 幼少期に比べ喘息の症状はずいぶん落ちついた。朝夕の薬を欠かさず飲めば昼日中に発作を起こすようなこともほぼないし、部活だってみんなと一緒に出来る。なのに、父さんや母さん、凛の中で、俺はいつまでも幼いままみたいだ。


 いつもより長く感じる道のりを俺も凛も考え事をしながら歩けばいつの間にか目の前には見慣れた自宅の玄関がある。それじゃあまたね、そう言って背を向けようとした瞬間。

「ハルの家、行くのか」
「今日だけね。どうする?凛も来る?」
「いや、…………気をつけろよ」

 気を付けるって一体何に、そう尋ねる間もなく凛はさっさと踵を返した。まるでここから逃げ出すみたいに。






「お邪魔します」
「どうぞ」
 
 久しぶりに訪れたハルの家は記憶の中にあるそのままで、驚くほどなにも変わっていなかった。ともすればテレビの上にうっすらと積もった埃までが最後に見たときそのままのような気さえして、懐かしい気分が胸を躍らせた。

 畳間は古くなっていてもかすかにい草の匂いがする。自宅は全て洋間だから、なおさら嬉しくてたくさん息を吸い込んだ。ちゃぶ台の隣で深呼吸する俺のことをハルが不思議そうに見つめる。

「いい匂いだね。ハルの家」
「匂いなんてするのか」
「住んでるからわからないんじゃないかな。木と水とい草の匂いがするよ。あと……」

 さっきからふわふわと鼻腔を掠めるハルらしい匂いに笑みがこぼれた。「今日の晩御飯は焼き鯖?」静かな部屋の中に流れ込む微かな破裂音。網の上で皮を焼かれる青魚が跳ねる音だった。うん、いい匂い。今日も一日練習した後だからそこらの気体を吸い込むだけでお腹が空腹を訴えてくる。

 濃い青色のエプロンを身に着けたハルが台所から顔だけ覗かせて部屋の隅を指差した。

「荷物はその辺に置いておけ。先に風呂、入ってこい」
「ハルは?」
「待ってる間に入った」
「わかった。お湯は抜いてもいいの?」
「ああ。洗濯物は夜のうちに干すからかごに入れておくといい」

 夏場で乾きやすいから明日の朝には取り込める。所帯じみたことを言うハルに、本当に一人暮らししているんだなあと今更ながらに実感させられた。ハルが一人暮らしだなんて考えてみると驚きだ。失礼ながらちゃんと生活できているのか心配になってしまう。

 俺の知っているハルなら家にいる間は水風呂で過ごしていてもおかしくない。食べ物は霞とか。仙人か神様の類かなって思う。水の。

 だけど、そんな心配いらなかったみたいだ。ハルはきちんと自活していて、俺なんかよりもしっかりしている。知らない間に一人暮らしが板についた幼馴染のことがすごく頼もしく思えた。

「なににやにやしてるんだ」
「何でもないよ。じゃ、お風呂もらうね」
「おい、」

 かといってハルに対し考えたことを丸々伝えるのも照れ臭いので、俺はそれ以上問われる前に下着とタオルとパジャマだけ持って脱衣所へと逃げ込んだ。子供になったような気分だった。年甲斐もなくはしゃいでしまう。
 お泊りってこんなに楽しかったかな。タイル張りのお風呂場に踏み込みながら俺を家に招いてくれたハルにひっそり感謝した。



 ゆっくり温まってから部屋に戻ると、タイミングを見計らったのかちゃぶ台の上に二人分の温かい食事が並べられていた。彩りや栄養まで気を使われているらしい湯気を立てるごはん。お湯の温かさで忘れかけていた空腹がよみがえりお腹を鳴らす。

 最後の小鉢を持ってきたハルに促されあんまり使われてなさそうなふかふかの客用座布団に座る。綺麗な姿勢で正座したハルが塗り箸を手にしていただきます、と手を合わせた。俺も慌てて後に続く。

「美味しい……」

 ハルの作った食事はどれもこれも美味しかった。メインの鯖はふっくらと良い塩加減で焼き上げられ、大皿に盛られた筑前煮は味がしみていてご飯によく合う。絹さやと油揚げのお味噌汁も出汁のきいた優しい味、小鉢に盛られたほうれん草の白和えは豆腐が滑らかにすられていて手間のかかったものだと分かる。

「これ全部ハルが作ったの?」
「不味かったか」
「ううん、そんなことない!すごく美味しいよ!」
「ならいい」

 いくら部活動後の男子高校生とはいえ二人分にしては多そうに見えた食事はあんまり美味しかったので一時間も経たないうちに綺麗さっぱりなくなった。ごちそうさまでした。手を合わせると、どことなく機嫌のよさそうなハルがお粗末さまでした、と言って立ち上がる。

 ちゃぶ台の上の食器を片づけ始めたハルを静止し、不思議そうな顔に微笑んだ。

「片づけは俺にやらせてよ」
「いい。座っていろ」
「でも、してもらうばかりじゃ申し訳ないから。ね?」
「……分かった」

 ハルからの了承も得たことだし、大きさの異なる食器をうまいこと重ね合わせて流し台へと運んでいく。その間ハルは落ち着かなそうに俺のことを凝視していて、なんだか信用ないなあとちょっとむなしい気分になった。そんなに心配しなくても前みたいに転んで食器を割ってしまったり、顔から床に転んだり、しないってば。



 この家を訪れたときにはまだ端の方だけ明るかった空も片付けを終えたときにはすっかり真っ暗で、ハルと並んで縁側に座り藍色の海に浮かぶ星を眺めた。氷を入れた麦茶のグラスにいくつも張り付いた水滴が指や手の平を伝い落ちる。雫が服を濡らしたけれど構わなかった。なんだかやけに安心していて。

 こんなふうにのんびりと夜を過ごすのは好きだ。夜風は湿気を帯びて生ぬるく、心地よいとは言えないけれど頬を撫でる感触は嫌いじゃない。

「綺麗だね」
「いつもと同じだ」
「そうかなあ」

 俺には目の前の星空がいつもと同じだなんて到底思えなかった。雲一つない夜空には星を遮るものなどひとつもない。月は明るく真っ白で地上にあるものすべてをあまねくやさしさで照らしている。この夜が特別ではないのなら、一体なんだというのか。


 無数の星をひとつずつ眺め、目に留まった赤い光の星を見てふと凛を思い出した。今頃どうしているだろう。凛もこの空を見ているのかな。

 できることなら凛とも一緒に今日の夜空を眺めたかった。もっとわがままを言うのなら、無理なことだとは分かっているけれど凛や水泳部の皆と合宿に行って、そこでこんな空を見てみたかった。きっと、綺麗だったはずだ。

 赤い星は周りの星よりひと際強く輝いている。帰り道での凛の姿が頭の中をよぎっては消える。何を悩んでいたんだろう。たまには俺にも話してくれたらいいのに。俺の悩みは聞きたがるくせに、凛は一度も俺のことを頼ってくれたことがない。

 常に俺の心配ばかりして俺の近くで過ごす凛。ああ、でも、それは本当に。
 ――――――凛のやりたいことなのだろうか。


 昔、幼い俺たちは幼いなりの真剣さで約束を交わした。とるにたらなくて、でも重たくて、二人で抱えていなければ持っていられない約束を。

『俺がずっと真琴のこと守ってやるからな!』

 凛の差し出したものに比べて俺の代償は少なすぎた。無責任に縋る俺に対し時間も何もかも捧げてきた凛へ俺は一体何をした?何を与えられただろう?この関係を後ろめたいと思うのなら手を放してあげればいいのに。

 それすらできない。俺は身勝手でも傲慢でも最低でもいいから凛に隣にいてほしくて、かつての約束が一方的なものだと知った今になっても凛を解放してあげることができていない。そうしようともしなかった。

(…………でも、)

 潮時だろう。俺が気付いていたのと同じように凛もまた気づいていたのだと思う。知っていて知らないふりをしていたのは少しでも俺と一緒に居たいと思ってくれていたのか、それとも長い時間を共に過ごして無意識化で培われてきた情のようなものがそうさせたのか。ひとりではまともに息もできない俺を憐れんで一緒に居てくれていたのなら。
 昔ほど発作も起きなくなった俺に、憐みを見いだせなくなったのなら。

 はっきりと形にした瞬間とてつもない寂しさが押し寄せてきた。凛がいなくなるって考えただけで絶望的な気分だった。さっきまであんなに楽しかったのに。情緒不安定にもほどがある。だって、だってここには凛がいないから。

 助けて、凛。俺のこと守って。俺のこと捨てないで。約束通りずっとそばにいて。
 さすがにそこまで愚かなことを口に出したりはしないけれど。

 隣で黙っていたハルが密やかな声で俺を呼んだ。

「真琴」
「なに、ハ……っ」

 一瞬の出来事。青い瞳が近づいて、離れて。
同時に水のように冷たい皮膚が俺の唇に触れて、離れた。

 感情の読み取れない血の通った人形みたいな顔。月明かりに照らされて透き通る青白い肌。されたことの意味が理解できなくて呆然とハルを見つめてしまう。理由も告げない。キスしたくせに。俺から理由を尋ねろと、いうの。

 腹立たしいほど鷹揚な動作でハルは縁側から立ち上がった。そのまま部屋の奥へ行ってしまおうとするから反射的にその背へと呼びかけた。

「ま、待って!今の……」
「寝る時間だ。布団、敷いてくる」

 無情にも俺の言葉は最後まで音にすることが叶わずに喉の奥へと消え去った。その時ハルがどんな顔をしていたのか確かめることもできなかった。

 赤で塗りつぶされていた思考にぼたりと落とされた真っ青な絵の具。二色がぐちゃぐちゃとうごめいてお互いのことを塗りつぶそうと俺の思考を好き勝手に荒らす。混ざり合うこともせず、ただ不躾にぐちゃぐちゃ、ぐちゃぐちゃ。

 なんだっていうんだ一体。どうしてハルは俺にキスなんて、そんな、無意味なこと。どうしよう凛。ハルとキスしちゃった。凛とじゃなくてハルと、なんで。

 なにもかもがわからない。それ以上何も考えられずおぼつかない足取りでハルが畳間に敷いてくれた客用布団に倒れ込んだ。座布団同様こっちもふかふかで昼間に干しておいたのか太陽のいい匂いがしたけれどそれだけで誤魔化せるはずもなかった。困惑と何故だかわからない悲しさで胸がずしりと重たくなる。

 隣の布団に寝ころぶハルと顔を合わせたくなくて背を向けた。瞼を閉じて今日はこのまま寝てしまうことに決める。何も考えないためにはそれが一番の対応策だ。

(あ、薬……)
 まだ飲んでいない。朝昼夕欠かさないようにしていた内服薬と吸入ステロイド。発作を起こしにくくするために使うもの。
 枕元のスポーツバッグに手を伸ばそうと試みて、やめた。もうそんな気力もなかった。大丈夫、最近発作は起きていない。一度ぐらい使わなくたって明日ちゃんとすれば大丈夫。


だから今夜はもう眠ろう。凛が怒るかもしれないけど。
目覚めたら全てを忘れていればいい、そんな都合のいい願望を抱えて。






 朝が来た。昨夜のことは綺麗に全部覚えていた。
 凛に対する絶望的な気分もハルからされたこともひとつ残らず。あったことを最初から順に紙に書けと言われればできそうなぐらい完璧だった。

 なんてひどい気分だろう。俺が最悪な目覚めを迎えたときハルはとっくに起きていて水風呂にひと浸りしたあとは昨夜の夕飯と同じく完璧な朝食を用意してくれた。
 白くつやつやとしたお米に豆腐とわかめのお味噌汁、蕩けそうにやわらかいだし巻き卵とやっぱり塩鯖。お礼だけはかろうじて言うことができた。目を合わせるのはできそうにない。話せば昨日のされたことの意味を尋ねてしまいそうで俺とハルは黙々と目の前の朝食を口に運んだ。

 部活さえ始まってしまえばここまで気にもならないはず。泳いでいれば一時的にでも水が忘れさせてくれる。その間に思い込んでしまおう、昨日のことは何かの間違いで、ハルだってそう思いたいはずだと。

 息苦しい時間をどうにか終えて部活に行くための支度をした。俺は一度家に帰るため、昨日干しておいた洗濯物を適度に畳んでバッグに詰めた。薬も忘れずにきちんと飲んだ。
あの時はとても疲れていて思わず服薬をおろそかにしてしまったが、今改めて考えるととんでもないことをしてしまった。気温差の激しい明け方が一番発作の起こりやすい時間なのに。
 何もなかったからいいものの今後は薬を飲まないなんて馬鹿なことはやめておこう。
 
 昨夜と同じく朝食の後片付けは俺がやって、ついでに流しを簡単に拭きあげる。普段から手入れされているのか年季の入った流し台はそれほど汚れが見当たらず、洗い物の最中に跳ねた水滴を拭き取るだけで十分そうだ。ふきんを流水にくぐらせながら手先で揉んで軽く洗った。これでよし。
 

 荷物をまとめて居間に置いておいたスポーツバッグを肩にかけ玄関へと向かう俺の後ろをハルがとことこついてきた。無言のまま時折空気が揺らぐのは何と話を切り出せばいいのか迷っているみたいだった。

 だからといって俺から話を切り出すわけにもいかない。そもそもがこっちの方こそ何と言ったらいいのかわからない。翻弄されたのは俺だ。昨日の夢には凛とハルが出てきた。内容は全く覚えてないのにお蔭で全然眠った気がしない。

 とにかく、部活に支障を出さないようにしないとみんなに心配をかけてしまう。そのためにはせめてわだかまりを端に追いやれる程度の大きさまで片づけてしまわなければいけない。

 そう思っても振り向く勇気は出なかった。突きつけられるだろう現実が恐ろしくて仕方が無かった。容赦のないハルの言葉を聞いたらきっと、崩れてしまう。
 凛と俺を繋ぐ最後のよすが。小さなころの約束の鎖。凛と俺が一緒に居る理由。ありとあらゆるすべてのこと。

 立てつけの悪い引き戸を開き、背を向けたまま口を開く。
 きっと卑怯だと思われただろう。

「昨日はありがとう、楽しかった。……それじゃあ、またあとで部活でね」
「待て、真琴」
「……っ」
「話を聞け」

 俺のものより細くて白い骨ばったハルの手が肩にかかって半ば無理やりに振り向かされる。息を呑むと水の匂いがして、ハルはまた俺が目覚めるまで水に浸っていたのだと俺の感覚に知らせてくる。息苦しくて涙が滲んだ。溺れてしてしまいそうだと思った。

「話なんて、ないよ」
「俺にはある」
「いやだ、聞きたくない」
「お前は凛といるべきじゃない」
「……っやめて」
「凛といてもお前が苦しむだけだ」
「違う、そんなことない、やめてよハル」

「お前は……っ」
 
 離れようとする俺のことをハルが強引に抱きしめた。突然のことに身体が固まる。俺よりも細い腕のどこから出てきているのか不思議になるほどの力でハルはぎりぎりと俺を締め付けて耳元で引き裂かれるように叫んだ。


「お前は幸せじゃないんだ……っ真琴!!」


 言葉が耳に届いた瞬間、薄氷のようだった俺の足元がぱりんと音を立てて割れ砕けた。わけもわからないまま目から勝手に涙があふれた。ハルの背中を叩いていた手から力が抜けてだらりと垂れさがる。

 ハルの腕の力が弱まった。安心しているみたいだった。
 涙が落ちるのとかわらない速度でぽたぽたと言葉があふれ出た。ハルが耳を傾けている、俺を慰めようとしている、そんな気配。

「う、そ」
「嘘じゃない」
「俺は幸せで、だって、凛が一緒に居てくれて」
「お前たちは近すぎた。お前も凛も、お互いを傷つけあってた」
「……わかんないよ、わかんない」
「真琴、いい子だから」

 噛みしめていた俺の唇をハルの指先がほどかせる。血が滲んで熱を持ったその場所に二度目のくちづけが降ってくる。抵抗する気力も起きなくてされるがままでいた俺にハルは優しく微笑んだ。見たことのない顔をしている。

 かつて手放してしまった大切なものを再び取り戻したかのような。

「お前は俺が幸せにする」

 聴覚に吹き込まれた囁きが頭の中に染み込んだ。
しあわせ。それってどういうもの?
 凛と一緒に笑い合えたのを思い出すと顔がほころぶのは。凛とこっそり手を繋いで耳まであつくなったのは。凛の隣を歩いていて心があたたかくなったのは。
 あれはすべて、しあわせではなかった?俺と凛はずっと、……ずっと。

「……真琴?」

 黙ったまま何も言わない俺を不審に思ったのか、顔を覗き込んできたハルの肩を掴んで思い切り押し戻した。袖口で水滴を拭いながら、目を見開いて驚くハルを真っ直ぐ見つめて息を吸った。

「凛と一緒だと、時々すごく苦しくなる」
「だから、お前は俺が幸せに……」
「ううん。違うよハル。俺は苦しくても幸せだった」
「お前がそう思いたいだけだ」
「かもしれない。けど、それはハルが俺を幸せじゃないって思うのと同じだよ」
「…………っ、お前たちはおかしい」
「知ってる。きっと、凛だって知ってると思う」

 終わりはもうすぐ近くまで来ているのかもしれないけれど。
 次に顔を合わせたとき、凛はもうかつてのようには笑ってくれないかもしれないけれど。
 それならせめて最後の言葉は凛の口から聞きたかった。じゃあな、真琴って。そしたら俺は多分すごく泣いて、でもどうにか形だけでも笑って、今までありがとう、ごめんねって伝えられる気がするから。だから。


「ごめんねハル。俺のこと、心配してくれてありがとう」


 俺を引き留めようとするハルから逃げるように外へ出た。
明け方の早い時間だというのにもう太陽は眩しくて、新緑に覆われたそこら中から噎せ返りそうに青い匂いがした。無数の蝉の声に包まれながら一瞬だけ背後を振り向くと悲しそうに目を伏せたハルがその場に立ち竦んでいた。

 せっかく手に入れた大切なものが、地面に落っこちて割れてしまったのを目の前で見たような顔をしていた。


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