合宿への不参加を決めたあのやり取りの後、他の部員にそのことを伝えるとみんな一様に残念がって結局、合宿は行わないこととなった。マコちゃんも凛ちゃんも参加できないのなら合宿したって仕方ないよ。渚はそう言ったけどあれだけ楽しみにしていたのだ。胸中は想像するに余りある。

 4人とも残念そうなそぶりは見せても俺と凛を責めることなんて一切しない。そんな彼らの振る舞いがなおさら罪悪感をかきたてた。

「ごめん、みんな。俺のせいで」

 耐え切れず謝罪を口にした俺に怜が不思議そうな表情を浮かべる。渚も江ちゃんも似たような顔をしていた。

3人で顔を見合わせると渚が俺の腕に飛びついてぎゅうぎゅうと力を込めてきた。つむじのあたりを押し付けられて金色の猫毛が腕の表面を擽った。
 怜と江ちゃんも渚と同じ優しい顔で笑っている。

「そんな顔しないでよ、マコちゃん」
「そうですよ!真琴先輩のせいじゃないです」
「合宿ならまた機会はあるでしょう。その時は僕の美しい泳ぎを存分に見せて差し上げますよ」
「怜くんの美しい泳ぎは毎日部活で見てるじゃない」
「海とプールでは美しさの種類が違います!」
「じゃあそれまで楽しみにしてるね!ほら、マコちゃんも笑って、笑って!」

 ひょい、と伸びてきた渚の手が俺の頬を無遠慮に掴んでうにうにと左右に引っ張ったせいで俺は今笑っているのか泣いているのかよく分からない顔になっている。3人の気遣いがありがたくて鼻の奥は痛むし視界の端はぼやけているのに笑えと言われる。それが馬鹿みたいに嬉しい。

 同時にひどい罪悪感はどうしたって消えそうにもなかった。

 表情筋のコントロールを奪われてしまっているから綯交ぜになった感情がそのまま顔に表れてしまう。もう自分でも笑いたいのか泣きたいのかよく分からなくなっていた。
ごめんね、とありがとう、が頭の中をぐるぐる回り最終的に俺の目端を潤ませていた涙の雫が決壊した堤防をいとも簡単に乗り越える。

「わああマコちゃん泣かないで!怜ちゃんハンカチ!」
「君は持っていないんですか!」
「僕のは一週間前にカバンに入れたやつだもん!」
「ハンカチはきちんと毎日換えるべきです!」
「分かってるけど忘れちゃうの!もーそんなこといいから早くハンカチ貸してよー!」
「真琴先輩こっち向いてください。はい、拭きますね」

 隣で繰り広げられている渚と怜の言い争いを全く意に介した様子もない江ちゃんがかわいらしいレースのハンカチで俺の目元を拭ってくれた。鼻先を掠めた薄い布地からは昂ぶった感情を宥めるような花の匂いがして、甘やかでありながらしっかりと芯のある香りは江ちゃんによく似合っていた。

 涙をたっぷりと吸い込んで湿った江ちゃんのハンカチを受け取ろうと手を伸ばす。

「ごめん、ありがとう江ちゃん。ハンカチ洗って返すよ」
「いいですよ、そんな。このぐらい全然大丈夫です」
「でも……」
「大丈夫ですから。私が自分でしたことですし」
「……そっか、分かった。ほんとにありがとう」
「いえいえ」

 女の子のハンカチを汚してしまったことはとても申し訳ないけれど、既に江ちゃんはハンカチをポケットへと仕舞いこんでおりそれ以上食い下がるのもどうかと思えた。ここは素直に江ちゃんの優しさに甘えることにして、改めてお礼を言い直した俺にさっきの香りを彷彿とさせる柔らかい笑顔を向けてくれる。

 渚と怜は相変わらず言い争っていて、ただし内容はハンカチの話から渚がいちごみるくまんをコンビニで買いすぎた話へと移行していた。

 大体君は食べすぎなんですよ!そのくせ圧倒的にビタミンが足りません!野菜を食べるべきです、むしろレモンをかじるべきだ!そんなのすっぱすぎて無理だよ!いちごにだってビタミンは含まれてるはずでしょ!生のいちごならともかくいちごみるくまんにビタミンは期待できませんよ!ええー!
 
 その光景を見て思わず笑うと言い争っていたはずの渚と怜がぱっとこちらを振り向いた。二人ともどこか安心したように口元を緩めていて、俺はまた自分が彼らに気を使わせてしまっていたのだと気づいた。

 沈み込みそうになる気分を必死に持ち上げ、知らないふりをする。今落ち込んでしまったらそれは渚と怜の努力をすべて無にしてしまうことだ。

 だから俺は江ちゃんに拭ってもらった眦をほころばせて、二人の優しさを素直に、純粋に受け取った。一番大事なものをしまっておく場所にしっかりとおさめた。みんないい子だ、本当にいい子。ここに居られて幸せだと思う。こんなにいい人たちに囲まれている、俺はなんて恵まれているのだろう。
 いけない。また泣いてしまいそうだ。

 ぱちぱちと何度も瞬きをして涙のかたまりを目の奥に散らすと視界の端にハルと凛の二人が映った。お互いの間に距離を空けて壁に凭れている。凛はなにか考え事をしているようでぼんやりと顔を床に落とし、ハルはそんな凛のことを流した視線でじっと見ていた。凛に対して言いたいことがありそうだった。あまりよくないことを。

 見られていると気づいたハルが凛を睨むのをやめて俺たちの方に歩み寄ってくる。一目で不機嫌そうだと分かった。あまり感情をあらわにしないハルだからこそこういう時の変化は誰よりもわかりやすい。深いしわが眉間に寄って、普段ならば凪いでいる青い瞳が眇められていた。
 不穏な空気を感じ取った怜が遙先輩、と言いかけたのを遮るように。

「俺は納得できない」
「納得……って、合宿ですか?」
「でもしょうがないよ。マコちゃんに無理させるわけにはいかないもん」
「そうじゃない」

 ハルが背後を振り向いて壁際の凛を射抜いた。一気に5人の注目を集めた凛が気配に気づき顔を持ち上げる。不穏な空気に眉を顰め、自分を睨みつけている張本人、ハルのことを睨み返した。

「なんだ、ハル」
「どうしてお前が真琴のことを制限する」
「してねえ。真琴が決めたことだ」
「本気でそう思ってるのか」
「……何が言いたい」

 凛の赤い目が激情に燃え上がる。ぎらぎらと揺らいで、不謹慎だけど俺にはそれがとても綺麗なように思えて燃える赤へと見入ってしまう。あの眼を俺は見たことがあった。スイミングクラブに通っていた頃、俺のことを苛めようとした上級生のことを凛は今と同じ目で捉えていた。それから暫くも経たないうちに、上級生はスイミングクラブをやめてしまった。

 何があったのかは分からない。でも多分、凛が何かしたんだろうとは思う。
 彼らが居なくなった後、凛はいつもと変わらない満面の笑顔で俺の頭を撫でてもう大丈夫だからな、と言ったから。


「わ、わー!みんな見て!もうこんなに時間が過ぎちゃってるよ!」
「きゃー大変!みなさん早く練習を始めてください!」
「今日こそバッタ以外の泳ぎができるようにならなくては!」
「がんばろうね怜ちゃん!」
「さあ全員着替えた着替えた!」

 肌に痛い空気を切り裂いたのは1年生3人の必死さを帯びた呼びかけだった。ものすごく勇気を振り絞ったのだろう、引き攣った声は幸いにも功を奏しハルと凛は軋むようにぶつかり合っていた視線を逸らした。それ以上相手の顔を見ようともせず制服に手を掛ける。

 部室は沈黙で満たされて渚ですら軽口を叩けるような雰囲気じゃない。空気清浄器の駆動する低い機械音、僅かな衣擦れの音だけが響く。俺たちは会話もなく水着を身に着けプールサイドに出た。到着したばかりらしい笹部コーチが

「なんだお前ら、まだ練習はじめてなかったのか!」
「えーっと……、ちょっとミーティングしてたんだよ。ね、江ちゃん」
「そ、そうです。ミーティングです!」
「ミーティングねえ……。ま、何話しあったかは知らねえが、そんだけ辛気臭い顔してるってことは結果はよくなかったてことかぁ?」

 がりがりと頭を掻いて怪訝そうに俺たちを見回し、まあいいか、と呟いた笹部コーチは手にしていたメガホンで今日の練習メニューを叫んだ。夏休み特別スペシャルメニューだ!お前らしっかりやれよ!という言葉に渚がうげぇと顔を歪めた。
 笹部コーチのお蔭で先ほどよりもまとわりつく雰囲気は軽くなったような気がする。あくまで気がする、の範疇ではあるが。ハルと凛は変わらずお互いを見ようともしないで黙々と練習メニューをこなす。



 太陽は刻一刻と傾き辺りは橙色に包まれる。部活が終わるまでとうとうぎこちなさは消えなかった。いぶかる笹部コーチの背中を1年生三人が強引に追い出し、その間に俺と凛、ハルは部室に戻って無言で着替えた。いち早く着替えを終えた凛が荷物を掴み、俺を振り向く。

「正門で待ってる」
「あ、うん。分かった」

 居心地の悪い場所に長居は無用らしく、用件だけを端的に述べて凛が部室から出ていくと少し前から着替えの手を止めていたハルが俺を呼んだ。白いタオルを頭に被るだけで羽織ったシャツに落ちる水滴を気にもしないからずり落ちそうなタオルを手に取り丁寧に髪を拭ってあげた。

 静かに目を閉じてされるがままになっていたハルからひととおり水気が失われる。重力に従って地面に落ちるタオルの下から覗くのは、不機嫌とはちょっと違う物言いたげな顔。

「お前はそれでいいのか」
「……合宿のこと?」

 正直俺は驚いていた。さっきのこともそう、ハルがこんな風に人に対して干渉しようとするなんて滅多にないことだった。それぐらい俺の決めたことが納得できなかったのかもしれない。
 そうだ、俺が決めたこと。凛からの助言を受け取って、間違いなく俺自身が選んだ。

「いいもなにも、俺が甘すぎたんだよ。よく考えればすぐわかるのに、合宿ってしたことなかったから浮かれたんだ。迷惑かけてごめん。ハルも楽しみだっただろ」
「俺は、……お前が一緒だと思ったから」
「え?」
「最近お前と泊りがけ、してないだろ」

 驚いたなんてものじゃない。まさかハルの方からそんなことを言ってくれるなんて。
 これまでにも、俺から時々そういう話を振ったことはあった。ハルの反応はあんまり芳しくなくてちょっとがっかりしていたから、もしかしてハルがそういう俺との何気ない会話を気に留めてくれていたのだとしたら。

 プールの水で冷えていた頬にみるみる温かさが戻ってくる。俺があんまり喜ぶからハルは若干戸惑って、開いた目を白黒させているけどそんなのはどうでもよかった。
大切な幼馴染が変わらずそうあってくれたこと。示された事実がこんなにも嬉しい。
 ぽかんと口を開けていたハルが何か思い付いたのか俺の右手をしっかり掴んで胸の前まで引っ張った。

「今日、俺の家に泊まりにこい」
「ハルの家に?いいけど、でもなんで」
「合宿の代わりだ」
「……いいの?」
「悪いなら言わない」

 頷くとハルが小さく笑った。一度家で母に話し、泊まり用の荷物を用意してからハルの家に行くことになった。ハルの家なら俺の家と距離は離れていないから母もそこまで心配はしないだろう。

 せっかく合宿の代わりだというのなら渚たちも誘いたかったけれど、いつまでたっても部室に戻ってこない上さすがに女の子である江ちゃんを一人で来させるわけにもいかず、今日のところは俺だけでひそかに泊まることにした。

 凛もきっと、だめだろう。ハルとあんな風になったばかりだ。
 一応誘ってみるべく短いメールを送信する。『今日、ハルの家に泊まりに行くんだけど凛も行かない?』返事はすぐにきた。『勝手にしろ』それだけ。

「凛、来られないって」
「そうか」
「渚たち戻ってこないし先に帰るよ、荷造りあるし」
「用意できたら連絡しろ。迎えに行く」
「ええ?いいよ、そんなの」

 じとっ、とハルが俺を見た。有無を言わさぬ圧力に晒されて俺は再び頷いた。そうしないとなんだか大変なことになりそうな気がしたのだ。ハルはたまに思い切りのいい行動に出る。家まで迎えに来られないからとこのまま俺についてきかねない。
 そのこと自体は別にいい。一泊分の荷造りなんて大した量ではないのだし、ハルを待たせることもなくすぐに終えられるだろう。問題はそこまでの道のり。正門では凛が俺を家まで送っていくために待っているのだ。

 ハルと凛が顔を合わせれば、またあの刺々しい空気にさらされる。それだけは避けたい。


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