鼻腔を擽る朝の匂いで目を覚ます。フィルターから落ちていく挽きたての珈琲の芳ばしさと、バターの焦げる優しい匂いが寝室に流れ込んでくる。深く、息を吸い込んで、噛み締め、吐き出し上体をゆっくりと起こした。眠気で不明瞭な思考とは別に、習慣的な動作でベッド脇のチェストに手を伸ばしセルフレームの眼鏡を掴む。
    今、台所で朝食を作っているひとが、少し前まで居たのであろう傍らを手のひらでそっと撫でる。浅葱色をしたシーツの弛みがさらりと音を立てて平らかになる。もう温もりは残されていなかった。欠片も。認識した瞬間、かの人の体温が恋しくなる。冷たいフローリングに素足をおろす。かろうじて巻きついていた布地が残らず滑り落ち、肌が空気に晒された。足裏に張り付く板張りを、どうにか気怠く剥がしながら歩き、半分だけ開かれた寝室の扉を押し開けるとそこには僕の求めていた暖かさを持つ人がいる。
    何も言わず背中に抱きつくと、その人はくつりと喉を鳴らした。振り向き、まるで猫のように細めた目を僕の瞳と交わらせて言った。

「おはよう、怜」
「おはようございます、真琴さん」
「もうすぐ出来るから顔洗っておいで。あと、いつまでもその格好だと風邪引くから、はやく服を着てくること」
「今日は僕もあなたも休みです」
「それと全裸と何の関係があるんだ?」
「……。もう少し」

    洗いざらしの薄いシャツを素肌に纏っただけの彼と、シャツさえ纏っていない僕と、一体どれ程の違いがあるというのだろう。まっさらで無防備うなじに鼻先をうずめ、お互いの隙間を無くすようにぴたりと体を密着させた。暖かくて心地良い。この温度が欲しかったのだ。
    いたいけにしがみついたまま微動だにしない僕のことを、呆れたように笑いながら真琴さんは手元のフライパンを小刻みに揺する。鮮やかに黄色いスクランブルエッグがのべつまくなく弾けながら小さくひっくり返った。

    久し振りに二人揃って休みをとったのだから、どこか遠出をしてみようか、というのが昨日までの計画。一晩経ってみれば僕からも真琴さんからも、そんな気持ちは綺麗さっぱりなくなってしまっていた。別に、特段行きたいところがあるわけでもない。それならこのまま家の中でのんびり過ごすのもいいだろう。
    外は快晴、過ごしやすそうな陽気。だからといって必ずしも外出しなければいけないわけじゃなかった。平日の、良い天気の、真昼間に怠惰である小匙分の背徳感は、ひどく心地よさそうだなどととさえ。
    乳白色の湯気が立つ半熟卵。サラダにコーヒー、黄金色のトースト。テーブルに並ぶそれらの食事を口にしながら、僕達は話した。今日の予定は全てなし。何に追われることもなく。

「とても美味しいです」
「そう?ならよかった」
「ええ。初めは卵を割るのにも苦労していた人が作ったものとは思えない」
「……随分昔の話を出してきたな」
「なんとなく、ついこの間のように思えてしまって。今朝見た夢のせいかもしれません」
「高校の頃だぞ、10年前だ。……コーヒーのお代わりは?」
「いただきます」

    他愛のない会話だったが、その中にふと織り交ざった10年前という言葉に溜息をつく。そんなに経つのか、と思う。あの輝かしい高校時代から。真琴さんと出会った夏から、もう、10年も。


    僕達が二人で暮らし始めたのは、僕が大学を卒業し、一足先に社会人になっていた真琴さんの住む街で就職した春からだった。大荷物を抱えてこのマンションを訪れた午後、出迎えてくれた真琴さんの笑顔は今でも鮮明に思い出せる。
    僕を送り出す両親は、家賃を少しでも抑えるためルームシェアをする予定だと伝えたときあまりいい顔をしなかった。けれど、それも相手が真琴さんだと告げるまでの短い間。見ず知らずの相手などではなく、以前から度々我が家を訪れていた人物がシェア相手だと知って心底安心したのだろう。僕が家を出ると決めてからあれほど心配そうにしていたくせに、このことを知った途端、真琴くんがいるなら大丈夫ね、と笑っていた母に対し棘のような罪悪感を覚えた。母の信じる真琴さんと僕との関係性は、決して事実に基づくものではなかった。その時既に僕達は純粋な先輩後輩、あるいは友人同士などではなかった。当然のようにキスもしたし、セックスもしていた。心の深いところで繋がり、お互いがお互いにとってなくてはならない存在になっていた。
    両親が、世間が、僕達をどう思うかなど、考えたことはありこそすれ、現実に痛みを伴うことはなかったのだ。



    この人が僕の大切な人です。僕はこの人と生きていきたい。
    そう言って、真琴さんを両親に紹介したとき、父はとても怖い顔をして、母は酷く泣いていた。自分たちの息子が同性愛者であったという事実。そうして、そこから導き出されたあらゆる未来の可能性の喪失。二つがあまりに大きすぎて、受け止めきれず溢れた感情をそのまま表出しているようだった。
    黙って唇を噛みしめる父と、嗚咽に混じって聞き取り辛くはあったが、嘘でしょう、そうだと言って、と繰り返し僕に縋る母の声。鋭い刃物で貫かれるような痛みに心を苛まれ、それでも僕は母の問いかけに頷くことはできなかった。僕が何も答えないことに焦れた母が、隣で俯く真琴さんの肩を掴んで揺さぶった。

「どうしてなの、どうして、怜なの?あなたのせいで……!」
「違う!真琴先輩は関係ない!」
「関係ないわけないだろう!!君も、黙っていないで何とか言ったらどうなんだ!!」

    父の怒声を正面から受け止め、真琴さんは血の気が失せるほど握り締めた手を震わせた。絞り出すような声音で、今にも泣き出しそうな顔で、すみません、と呟く。その場に泣き崩れる母の背を支えながら、父は僕達の方を見もせずに言った。

「……好きにしたらいい」
「え……?」
「ただし、お前はもう私達の息子ではない。二度と顔を見せるな」

    ーーーー気がついた時には外にいた。
    隣で泣きじゃくりながら、ごめん、ごめんな、と繰り返し続ける真琴さんの手を強く掴み、引きずるように歩き出した。そうしよう、なんて思わなくとも体は勝手に動いて僕達二人の家を目指した。自分の無意識に感謝した。その時僕がすべきことは、悲しみに沈む真琴さんを一刻も早く連れ帰ることに他ならなかったから。

「真琴先輩のせいじゃない、あなたはなにも悪くないんだ」

    夜の闇にかき消されそうな謝罪が鼓膜を震わすたび、僕の口から零れ落ちた空虚で切実な慰めの言葉はあの時、彼に届いていたのだろうか。今となっては、確かめる術もなく。





「……い、怜?おーい、怜」

    思考に沈み込んでいた僕の意識を真琴さんが引き戻す。心配そうに覗き込む彼に微笑み、大丈夫だと告げる。

「すみません、考え事を」
「体調が悪いとかじゃないんだよな?」
「そんなに心配でしたら確かめてみますか?」

    真琴さんの両頬に手のひらを添え、テーブル越しに引き寄せた。指先で軽く前髪を払い額同士をくっつけてみる。吐息をも交換できる距離。僅かに鼻先を触れ合わせ、至近距離で覗き込んだヘーゼルグリーンの瞳が揺れる。
    十分に、お互いの体温を確かめあった頃、去り際に額へキスを落とし真琴さんを解放した。彼は今にも泣きそうな顔をしていて、その表情が恥ずかしさゆえだと知っている僕は罪悪感を覚えることなく、愛用のマグに手を伸ばす。口にした程よい苦味が、未だ薄っすらと残っていた記憶を波でさらうようにすべからく覆った。

「僕はもうこんなこともできるのに、あなたはいつまでも慣れませんね」
「……だ、だって、恥ずかしいものは恥ずかしいし」
「それでこそ真琴さんだと思います」
「褒めてないだろ、それ」
「まさか」

    悪戯っぽく、からかい混じりに。小さく笑う僕の声と、耳まで赤い真琴さんの可愛らしさを伴って、食卓の時は進んでいく。紛れもなく美しい時間だった。代償にしたものは大きすぎて、代わりを見つけることも隙間を埋めることも叶わないけれど。
    幸せだ、と思ったから、ポケットの中の重さを取り出した。取り出した金属を手に握り込み、もう片方を真琴さんに伸ばした。

「左手を」
「え?はい」
「目を瞑って下さい」

    どうして、などと聞かれない。素直に瞼を隙間なく閉じてくれたのを確かめて、手のひらに包んでいたシンプルなリングを爪の先でそっと摘み、彼の左手薬指に差し込んだ。何度も触っていた手だから当然サイズは丁度良いし、品のある華奢なシルバーは真琴さんによく似合っている。どうか内側に刻んだ文字が熱を帯びていますように、そんな祈りを捧げ離した。真琴さんがゆっくりと目を開ける。

「これ、指輪……?」
「ええ、僕も同じものを」
「今日は何かの記念日だったっけ」
「これから記念日になるんですよ」

    指輪の意味をまだ掴み切れていない、真琴さんがことんと首を傾げた。その仕草に笑いかける。真っ直ぐにあなたの瞳を、見つめて。

「結婚しましょう、真琴さん」
「けっ、こん?……でも、俺達は男同士で」
「養子縁組をするんです。そうすれば、夫婦にはなれなくても、僕達は家族になることができる」

    これから先を真琴さんとずっと一緒に生きていくために、僕は色々なことを調べた。その中でも特に、僕と真琴さんとの間で成立し得る法的な繋がりについて、殊更念入りに調べ尽くした。この国で同性婚は認められていない。それならば、僕と真琴さんが家族になるために一体どうすればいいのか、その方法を。
    例えば僕が、明日事故で死んだとして。夫婦でもない、男同士の僕達は、世間的に見れば単なる同居人にしかならない。まず最初に連絡がいくのはもう随分と会っていない父と母、残された真琴さんは僕の一切に関わることはできないだろう。法治国家における姻族関係の重要さは、この歳になってみると十分すぎるほどよく分かる。このままいつまでも二人で暮らしていくのなら、将来を真剣に考えるのなら、必要なことだ。
    黙って話を聞いていた真琴さんが強く唇を噛む。ぎこちない仕草で自らの薬指に燦然と輝く指輪に触れる。恐れを帯びて、けれど頑なに、彼が指輪を外そうとした手を握り、その表情を窺う。

「嫌ですか」
「……養子って、どういうことか分かってるのか」
「僕と真琴さんが家族になる」
「違う。もっと大事なことがあるだろ」
「大事なこと?……何を言いたいのか分かりません」
「…………怜には、両親がいるじゃないか」
「……あの人達は僕達を認めてくれませんでした」
「それでも!……っそれでも、親子だろ。口ではああ言っていても、怜のことはきっと今でも大切に思ってるよ」
「だから、養子縁組は出来ないと?」

    震えながら小さく頷く真琴さんにそっと微笑む。あなたはひとつ勘違いをしている。その言葉に彼は息を呑んだ。

「たとえ、真琴さんの養子になっても、実親との関係は失われません。両親の息子であると同時に、僕は真琴さんの家族になれる。……僕だって、両親を捨てたい訳ではないんです」

    この先もしかしたら訪れるかもしれない和解の時を待っていることに変わりはない。産み育ててくれた人たちなのだ。誰よりも僕を愛おしみ、慈しんでくれた両親なのだ。捨てられるはずがなかった。たとえいらないと言われても。僕の名字が橘になっても。
    身勝手で都合のいい僕の望みを真琴さんは叶えてくれる。そう信じていた。押さえていた真琴さんの指からそっと手を離しても、彼はその輝きをもう外そうとはしなかった。噛み締めていた唇をほどき、僕に向かって優しく笑う。
    それが、僕からのプロポーズに対する、何よりの答えだった。





「それじゃあ行ってきます」
「うん、気をつけて。いってらっしゃい、怜」

    玄関先で見送ってくれる真琴さんに軽く口付け、鉄製の扉をくぐった。ふと視線を横向けると、そこにある表札の文字を見て口の端を小さく持ち上げる。書いてある名字はただ一つ。口の中だけで呟くと、美しい響きに目眩がした。

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