ざらついたノートの表紙を撫でる。何度も捲られたせいで、柔らかくほどけた厚紙の端をいとおしげに指先で辿る。そこには、二年間が詰まっていた。ハル、渚、凛、そして怜。みんなと駆け抜けた日々が全て。
    こつん、と短いノックの音。部室の扉が性急に開く。突如として差し込んだ明るい光に目が眩み、霞んだ視界が元に戻る頃、息を切らして俺を見つめる怜の姿がそこにはあった。

「真琴、先輩」
「どうしたんだ、そんなに急いで」
「卒業式が始まります。なのに、貴方は急に居なくなって」

    探してくれたのか、なんて分かり切った質問を笑顔の裏に沈み込ませた。代わりに自分のすぐ隣、長椅子の空いたスペースを片手のひらで二度叩く。怜は躊躇いを滲ませたあと、重たく鈍い足取りでゆっくりと俺の要求に従った。
    肩が触れ合うほどの距離。これほど近い場所にいるのに、俺と怜は視線を交わらせることもせず、ただ黙って部室に転がる古びたビート板を眺めたり、静かに呼吸をしたりしていた。
    ふと、怜が俺の手にするノートを目にして瞬きをする。一瞬遠くを懐かしむように目を細め、口端に笑みを浮かべる。

「部誌ですか」
「見たくなってさ。……色々思い出してた」
「僕が水泳部に入部した時のことも?」
「書いてあるよ。新しい仲間が増えた、嬉しいって」
「僕が真琴先輩に好きだと告げた日のことはありますか」
「……あの時はもう、部誌を書き終えた後だったし。それに、こんなところに書いたりしないよ」
「でも、貴方の心にはちゃんと残っている」

    いつの間にか掴まれていた指先にぎゅう、と力がこもる。まるで隣にいる俺の存在を確認しているみたいだと思う。もしくは、遠くへ行ってしまう俺を引き止めようとしている、みたいに。

    卒業式の日の朝を迎えても、不思議と悲しみは湧かなかった。息苦しいほど寂しいけれど、それ以上に穏やかで、心地よい安心感に包まれていた。どうしてだろうと疑問に思った俺は、その原因を探るために、式の前の喧騒に満ちた教室を抜け出して部室を訪れた。二年間、水泳部の部長として欠かさず書き綴ってきた部誌を眺めて、漸く気づく。
    何も、後悔がなかったからだ。いつだって全力で、いつだってみんなでいられたから。心にわだかまる痛みも、悔恨も、何もない。だからこんなにも穏やかでいられる。

    今、隣に座る怜にも、俺の心が伝わればいいのに。そうして彼の小さな震えがどうか、治まりますように。
    繋がれていない方の怜の指先が、ポケットから何かを取り出した。色鮮やかなそれに目を奪われる。

「花?」
「卒業生用のコサージュです。造花ですが。遙先輩から預かってきました」

    手渡された濃い紫のそれは、裏返すと小さな安全ピンがついていた。ここにつけるんですよ。そう言って怜が指し示したのは左胸。鼓動の真上。
    俺は花を怜に返した。戸惑う彼に笑って告げる。

「つけて」
「っ、……はい」

    残酷なことを言ったと分かっている。まだ今日を受け入れ切れていない怜に、わざわざ自覚させるようなことをしていると。けれど、花が怜の色だったから。心臓に近い場所を刺し貫くものならば、どうしても怜に付けて欲しかったから。単なる俺の我侭を、叶えるために怜は針を持つ。
    時間から切り離された部室の中で、俺たちは厳かな儀式に臨むような面持ちでいた。音もなく布地に刺し込まれた針が、届くはずのない俺の心臓を浅く、細く抉っていく。
    怜が手を離しても、花は変わらずそこにあった。皮膚の下に流れる血潮を養分にしているかのように、左胸で燦然と咲き誇る作り物の花弁には、アクリル製の水滴がついていて歪んだ怜の顔を映している。

「ああ、やっぱり」

    認め難いものを傷つきながら飲み込むように。輝かしい夢を自らの手で切り裂くように。現実味を帯びた怜の安堵が、熱のない造花から伝わってきて。

「とてもよく似合っている」

    ぎこちなく、不器用に、怜はそっと微笑んだ。薄氷のような視界が砕けて、目尻を熱い滴が一粒、名残惜しみながら伝い落ちていく。

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