いつからだろう。好きです、という僕の言葉に、真琴先輩が唇を引き結び、酷く辛そうな顔をするようになったのは。僕に抱きしめられた真琴先輩が、体を硬く強張らせて怯えるようになったのは。
    初めてその事実に気づいた日。とうとうこの日が来たのかと、僕はある意味予定していた出来事の上をなぞったような感覚をおぼえた。必死に知らないふりをしていたが、いつかこんな日が来るのではないかと、ずっと前から頭の片隅で考えていたことだったから。そういう意味では真琴先輩を、本心から信じた時など一度もなかったかもしれない。最初から終わりのような関係だった。できるなら、どうしても避けられない終わりがもう少し、遠ければよかった、なんて思う。



    誰もいない部室の真ん中で、僕は孤独だった。静かで、あらゆるものから、隔絶されていた。その上とても気分が良くて、今にも鼻唄を歌い出しそうな、不思議な高揚感に包まれていた。それがこれから起こることに対する、ある種の防衛本能なのか、または別の何かなのか、判別をつけることにはこだわらなかった。どちらでもいいのだ。結局、僕がただ僕のエゴイズムで、優しいあの人を傷つけることには、どうしたってかわりないのだから。
    真琴先輩と付き合うことになってから、今日までの日々を思い出す。見たことのない顔。聞いたことのない声。触れたことのない場所。全てが夢のようで。輝きに満ちたこの思い出があればどうにか生きていけるだろう。僅かな時間だったとはいえ、僕は名前だけでも、真琴先輩の恋人であったのだ。

    部室の扉がノックされる。行儀よく僕の返事を待って、立て付けの悪い簡易な扉が軋みながら開いた。そこに立つ彼へと微笑みかける。多分、ちゃんと笑えたはずだ。確証はどこにもないけれど。

「こんにちは、真琴先輩」
「どうしたんだ?こんなところに呼び出したりして」
「そこに、座ってください」

    お話ししますから。そうして、貴方を。続きを飲み込んだ僕の言葉に従って、真琴先輩は正面のパイプ椅子に浅く腰掛けた。落ち着かない様子でちらちらとこちらを窺っていた。
    真琴先輩がここを訪れてくれたことにほっとする。他ならぬ僕が、呼び出したのだから、律儀なこの人が約束を安易に違えるはずはないと知っていたのにもかかわらず。誠実で優しい真琴先輩。美しいものを前にして、眩しさに僅か、目を細めた。僕はこの美しさを守りたい。

「忙しいのに、突然すみません」
「いいよ。それより、」
「受験勉強はどうですか」
「え?ああ、まあまあかな」
「真琴先輩ならきっと大丈夫ですよ。応援しています」
「ありがとう。怜の方はどう?渚からまたタイムが縮んだって聞いたよ」
「ええ。少しですが」
「少しでも凄いよ。努力の結果だ」

    冬である今は、岩鳶高校の屋外プールが使えない。週に一度の鮫塚学園との合同練習で、同じバッタの選手からデータを収集し、身につけるべく練習したことで以前よりも格段に速く泳げるようになった。それでもまだ、遙先輩や真琴先輩、渚くんには追いつけない。それでも真琴先輩の言葉は素直に、嬉しいと思った。先輩として、部長としての、他意のない言葉。もしかしたらこれから、そういうものすら、受け取れなくなるかもしれないと、考えると息が詰まるけれど。
    自ら雑談を振っておいて、黙り込んでしまった僕に、怪訝そうな視線が注がれる。喉奥で引き攣り震える舌を、強く噛んで覚悟を決めた。手を伸ばし、真琴先輩を引き寄せる。バランスを崩した上半身が僕の胸元に倒れこみ、広い背に回した両腕で強く、その肩を抱きしめる。

    ……その身体が、酷く震えていることを認識してから、緩慢に離れた。最後に名残を惜しむぐらいなら、許されるだろうと打算した。零れ落ちそうなほど大きく目を見開いた真琴先輩の表情。白く色を変えた頬。真一文字の口元を目にし、覚悟していたことなのに、心が鋭い刃物で突き刺されるように痛む。声が掠れてしまわないよう、気をつけながら語りかけた。本当に泣きたいのは僕ではない。僕が泣くなんて許されない。

「別れましょう、僕達」
「えっ、……どう、して?」
「僕は貴方に酷いことをしてしまった。貴方の優しさに、つけ込んで」

    きっと、僕の告白を、優しい真琴先輩は断ることができなかったのだ。どれだけ苦痛だったろう。その苦痛を強いてきたのは僕だ。だから、苦しむのは僕だけでいい。真琴先輩が苦しむより、僕が痛んだ方がずっといい。真琴先輩は解放されて、自由になる。幸せで、とりとめのない日常に浸る。遙先輩も渚くんも凛さんも、真琴先輩を大事に思う人は、僕でなくとも沢山いるのだから。僕は真琴先輩が辛い記憶を思い出してしまわないよう、離れた場所にいなければ。
    これが最後。そう思うと、堪えていたはずの涙が僕の視界を悉く滲ませた。ぼんやりと輪郭が曖昧になり、誤魔化すために深く俯く。少しでも落ち着こうと、塩素の匂いが染み付いた部室の空気を吸い込むけれど、吸い込んだそばからそれは次々、僕の眦に突き刺さり、固まって、塩辛い涙へと変わっていくようだった。馬鹿みたいに上手くいかない。重荷になりたくなどないのに。
    声を殺して泣く僕の手を、真琴先輩が強く握った。痛い程の力にはっとして、顔を上げると、真琴先輩も僕と同じようにほたほたと涙を流していた。小さい子供のような泣き方で、ぐすぐす鼻を啜りながら、真琴先輩が首を振る。

「嫌だ」
「真琴せんぱ、い」
「嫌だ。俺は別れたくなんて、ない」
「でも…、!」
「ごめん、なさい。ごめん、怜、謝るから、別れるなんて言わない、で」
「どうして真琴先輩が謝るんですか」
「だって、俺がいつまでも、怜のこと……っ、怜のこと、好き、だって、言わなかったから」

    思いがけない言葉に、さっきまで制御出来ていなかった涙が嘘のようにぴたりと止まる。滲んでいた視界が粗方元に戻ると、今度は目の前で泣き止む様子のない真琴先輩を慰めたくて、慌てて取り出したハンカチをその目元に押し当てる。振り払われることはなかった。際限なく伝い落ちる涙を丁寧に拭い去る。大きな体を震わせて泣く真琴先輩はやっぱり可愛くて、別れようと決めたのに、決意があっさり崩れそうになる。
    薄紫の布地を湿らせながら、確かめなければならないと思った。先ほどの言葉の真意と、それから、僕がもしかしたら思い違いをしているのかもしれないという、自己中心的な希望について。
    真琴先輩が落ち着くころを見計らい、その両瞳を覗き込む。翠色の虹彩が僕を映して細かく揺れた。お互いに泣き腫らした顔で見つめ合う、この状態を傍から見ればどんなに滑稽なことだろう。今、そんな些細なことに構っている余裕はない。

「……真琴先輩は、僕が嫌いなのでは?」
    勢いよく首が横に振られた。握られた手のひらに力がこもる。

「でも、僕が好きだと告げたり、抱きしめたりすると、貴方は嫌がっていた」
「嫌じゃない!っ、ただ」

    色素の薄い睫毛が揺れた。自らに対する不甲斐なさと、罪悪感とを綯い交ぜにして、痛みと共に吐露するようなとても美しい表情だった。

「俺は、いつも怜に甘えてばかりで、何も怜に返せていなくて、だか、ら、やっぱり、呆れられたんだって、思って……っ」

    また、涙が零れた。身体中の水分全部、涙に変えてしまっているのじゃないかと心配になるような勢いで、真琴先輩が泣きじゃくる。ぐしゃぐしゃに崩れた顔と、何を言っているのかわからない声に、僕の心臓が高鳴った。他人にはとても見せられない、さらりとした洟、真っ赤に腫れた瞼、湿った唇と白い歯の一片、気を許しきった酷い顔で泣く真琴先輩に、どきどきする。
    これ以上ないぐらいどきどきして、思わずもう一度腕を伸ばした。さっきみたいに試す為ではなく、衝動に任せて力いっぱい、真琴先輩を腕に収めた。抵抗は少し。驚きからくるものだろう、すぐに真琴先輩が応えるように抱きついてくる。好き、と、怜、を、それしか言葉を知らない子供のように繰り返して、僕に縋る真琴先輩に同じだけの気持ちを返す。
    材料が揃ってしまえば、結論にたどり着くのはこんなに簡単なことだったのだ。真琴先輩の涙や洟をシャツの袖口で拭ってあげながら、堪えきれずに吹き出した。なんて小さく、些細なことで僕達は悩んでいたのだろう。

「僕達はただ単に、言葉が足りなかっただけなんですね」

    一向に僕から離れる様子のない真琴先輩がおずおずと視線を持ち上げ、ことんと首を傾けた。

「怜?」
「貴方が苦しんでいることに、気づけなくてすみませんでした」
「違う、怜が悪いんじゃない、俺が何も言わなかったから……っ」

    尚も言い募りそうな真琴先輩の唇に、そっと噛みつき先を制した。よく泣く真琴先輩は相変わらず泣き止まない。自責の念から泣いているのか、それとも安堵から泣いているのか、自分自身にさえも分からなくなっているらしかった。

「これからはお互いに、言いたいことをきちんと伝えるようにしましょう。……もう、こんな風にすれ違ったりしたくないです」
「俺も嫌だよ。別れるなんて言わないで」
「……真琴先輩は僕のことが大好きなんですね」
「なっ!あ、う、…………、うん」
「僕も真琴先輩が大好きです」
「……そっか」

    言いたいことを言うと決めたそばから、心の内を包み隠さずそのまま口にする僕に、多少気後れしながらも応えてくれるいじらしい様子が愛しかった。恥ずかしさを押し殺し、どうにか想いを露わにしようとする真琴先輩の頬を撫でる。親指と人差し指で冷たい耳たぶを柔らかく挟む。

「少しずつでいいですよ」

    そうだ。焦る必要などない。僕と真琴先輩はこれからも一緒にいるのだし、同じ過ちを繰り返したりもしない。あるいは別の問題が出てきたとしても、その時は今日のように二人で、解決していけばいいのだから。

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