4.

    単純に、珍しいと思った。普段は木造りのカウンターの向こうで作業をしているか、それでなくても何かしら動き回っている彼が、怜の目の前に椅子を引いて腰掛けたこと。これまでも、勉強をする怜に対して差し入れをしてくれることはあったが、二人分のカップをテーブルに置いて、そのまま留まるのは初めてだ。
    どうかしましたか、と尋ねる前に、店員の彼が微笑んだ。

「少しだけ休憩しないか?」
「……僕は、構いませんが、お店はいいんですか」
「うん。お客さんも居ないし」

    そう言われ周囲を見渡してみると、確かにそう広くない店内に怜以外の客は居なかった。店が静かなのは何時ものことだけれど、コーヒーミルで豆を挽く音も、水泡が弾けるようなドリップの音も無い今、空間はどことなく厳かな雰囲気に満たされていた。テーブルに広げていた参考書とノートを、とりあえず端に寄せて場所を作る。片方のカップを受け取って、真新しい薫りを吸い込んだ。
    向かい合い、沈黙が落ちる。首筋をちりちりとした感覚が這い登り、なんとなく、その状態が耐えきれなくなった怜が何を言うべきかも見つけられないまま口を開いた。

「っあの、」
「……怜はさ」

    怜から話すのを待っていたかのようなタイミングで、翠色の双眸が控えめに怜を窺い見た。誹りも嘲りもない純粋さで、疑問を口にした。

「どうしてそんなに勉強してるんだ?」
「え、それは、大学に合格するためで」
「大学に行ってどうしてもやりたいことがあるの?」
「やりたいこと、……?」

    思わず何度も目を瞬いて、正面で微笑む彼を見つめた。どうしてそんなことを聞いてくるのか不思議だったし、そんな風に答えの分かり切ったことをわざわざ聞かれたことに驚いた。少しの間、頭の中にある言葉を整理する。乾いてしまった唇を冷め始めたコーヒーで湿らせてから、怜は言った。

「明確にやりたいことがある訳ではないんです。漠然と、理論的な部分でスポーツ関わりたいという想いはありますが」
「そう、なのか?」
「はい。でもこの先、やりたいことが出来た時、その道に進むためには、土台を作っておかないと。そのために僕はスポーツ工学に力を入れているあの大学に行きたい」
「…………」
「……変なこと言いましたか?」
「いや、うん。……なんかごめんな。余計な心配しちゃったみたいだ、俺」
「余計な心配?」
「怜はすごいなあ、って話だよ」

    誤魔化すように小さくはにかんだ表情を真正面から捉えてしまう。照れの混じるやわらかな笑み。みるみるうちに頬が熱くなり、思わず彼から顔を逸らした。

「どうした?」
「っいえ、なんでも。ちょっとコーヒーが気管に」

    わざとらしく怜が咳き込むと、気遣わしげに眉を顰める彼に少なからず罪悪感を抱きながら暫く視線を合わせずにいた。そうしていないとどうしても、まともに言葉を交わせる気がしなかった。大きく息を吸い込み、吐き出す。鼓動を落ち着けようと試みる。
    「そういえば、」なにか思い出したように彼が呟いた。怜の様子を不審には思っていないようで、相変わらず心配そうな顔のまま手を伸ばし、怜の肩を摩りながら

「さっきスポーツに関わりたいって言ってたけど、何かやってたの?」
「高校に入ってからですが、水泳を」
「水泳?俺もやってたよ!高校までだけど」
「そうなんですか?」
「へえ、偶然だな。種目は?」
「バッタです。それしか泳げなくて」
「俺はバック。そっか、怜も水泳やってたんだ。……うん。やっぱり」
「な……っ!ちょ、ちょっと……!」

    さっきまで怜の肩に触れていた手で、彼は怜の二の腕を掴んだ。にぎにぎと感触を確かめるように、薄い皮膚と筋肉の上から何度も力を込めていく。テーブルに身を乗り出し二の腕から肩、僧帽筋を手のひら全体でなぞり上げた。
    反射的に身を引こうとするが、背後にある観葉植物のせいで、動くことはままならない。狭い空間でばたつけば、テーブルの上で不安定に揺れるカップが倒れてしまうかもしれず、にっちもさっちもいかない状況で身を強張らせた。幸いなことにそれから幾らも経たないうちに、彼は怜から手を離し、満足げに頷いた。

「水泳やってるとこの辺筋肉つくよね」
「ええ、まあ、はい……」
「?……顔赤いけど、暑い?暖房効きすぎてるかな」
「っ大丈夫です。さっき咳き込んだ所為だと思います」
「ああ、そっか」
「……あの、どうして水泳、やめてしまったんですか?」

    気になってしまって、問いかけが自然と口をついた。口にしてしまってから、無遠慮すぎたろうかと心配になって、恐る恐る彼の表情を覗き見た。
    彼は何処か遠くを見る目をして、窓から差し込む橙色の西陽を懐かしむように眺めていた。気を悪くした様子はない。ただ、見たことのない顔をしている。

「小学生の頃から、ずっと一緒に水泳を続けてきた幼馴染がいてね」
「幼馴染……」
「お互い赤ちゃんの頃からの付き合いだった。家も近所で、親同士も仲が良くて、毎日のように一緒に過ごしてた。小学校も中学校も高校も、スイミングスクールも一緒で、でも、その幼馴染、……ハルは他県の大学に行った。それでなんとなく、水泳から遠ざかっちゃって」

    寂しくて、悲しくて、ひとかけらだけ嬉しそうな感情の入り混じった過去を語る言葉。とても大切な人のことを思い出しているような、彼の声。あなたはその人が好きなのですか。唐突に浮かんだその疑問を、無理矢理胃の底に押し込めた。どうして自分がそんなことを考えてしまったのか分からなかった。
    彼の話したことに対し、なにか答えるべきだと思う。会話の流れでとはいえ、話し易いとは言えないことを聞いておきながら黙っているのは失礼にもほどがある。けれど今、口を開くと、さっきの疑問が出てきてしまいそうで怖かった。彼が誰を好きだとしても、自分には関係のないことだというのに。そもそも彼と怜とは単なる店員と常連客。踏み込む権利など、怜には無い。
    居心地の悪い沈黙の中、怜は残ったコーヒーを飲み干した。カップから飲み物がなくなったことを合図にして、彼が席を立つ。会話はコーヒーが続く間だけ、というのは暗黙の了解ではあったが、どうしてかとても寂しくて、思わず引き止めてしまいそうになる。結局何も言えなかったけれど、空になったカップを手にした彼はいつも通りの顔だった。慈しみに満ちたやわらかな表情で、ほんの少し目元を緩ませた。

「今日は質問ばかりだったな」
「そうですね、お互いに。まさかあなたも水泳をやっていたとは思いませんでした」
「……怜、れーい」

    咎めるような、その呼び掛け。不服の色を隠さない瞳で彼の視線が怜を射抜く。突然のことに狼狽えながら、けれど、理由もわからないまま謝るのも躊躇われて。目を白黒させていると、彼は堪えきれなくなったように小さく吹き出し、自らのことを指差した。

「俺の名前は?」
「た、橘真琴さんです」
「正解。じゃ、呼んでみて」
「え?あ、あの……橘さん」
「俺は怜って呼んでるのに?」
「ですがその……」
「…………」
「……、っ真琴、さん」
「あはは、よくできました」

    無言の圧力に押し負けて、要求された答えをどうにか、絞り出すように口にする。そうしてから、自分のようなものに気安く呼ばれて、不快にしてしまったのではないかととてつもなく心配になって、俯けそうな顔をそろりと上向け彼を見た。悪戯っぽく、意地悪に笑う彼と、目が合って。

「これからはそう呼んでよ」

    昨日よりもずっと近くなった距離に、目が眩んだ。目映かった。怜は返事もしないでただ頷き、あとはずっと、テーブルの端に押しやってしまった参考書の存在を思い出すまで、真琴の笑みを眺めていた。フィルム式のカメラがそうするような仕草で、瞼の裏に焼きつかせた。

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