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「貴方が好きだ」
「……本気か?」
「はい。ですが、答えは要りません」

    明日からも、今日までのように。身勝手な無理を要求する、僕の言葉に貴方はただ一言の文句も言わず、微笑むだけで。許されたような気がしたのだ。そんなはずないのに、僕はかつて愚かだった。多分今も、そうだろう。

    屋上に続く鉄扉の、ステンレス製のドアノブに手を掛けたのは本当に久しぶりで。冷たく滑らかな表面を、しっかりと握り、重たい扉を押し開く。頬に強い風が当たるが、初めにこの場所で真琴先輩と出会った時よりも暖かい。
    視線をそっと持ち上げる。真琴先輩は相変わらずそこにいた。僕は少し安堵する。もしかしたら、真琴先輩は既にいなくなってしまっているのではないかと思ったから。彼が僕の願望であるなら尚更だった。けれど、まだそこで微笑んでいる。僕はまだ何もかもを諦め切れていないのだ。口元に自嘲の笑みを浮かべながら、頑丈なフェンスに背を預ける真琴先輩へと近づいた。

「お久しぶりです」
「ああ、久しぶり」
「怒らないのですね」
「来るべきじゃない、って言っただけで、来るな、とは言ってないからな」

    僕にとって、都合のいいことを仰るのですね、と言おうとして、口を噤んだ。僕の方こそ、都合のいいことばかり言って、真琴先輩を困らせている。どちらにしろ、僕にとって不利益はないのだから、彼の甘ったるい優しさを素直に受け入れておきたいと思った。
    手招かれ、隣に座るよう促される。差し出された手のひらの上に彼用の弁当箱を置いてやる。どこか名残を惜しむように、殊更ゆっくりと包みをほどく真琴先輩の横顔を見つめた。

「うん、美味しい」
「卵焼き甘すぎませんか」
「ちょうどいいよ。怜、本当に料理が上手くなったな」

    以前と同じ、可愛らしい仕草。きらきらと輝いて見えるのは、僕がそう見たいと思うからなのか。弁当箱の中身は目の前で確かに消えていく。その確かな事実にさえ、僕は気を許すことができなかった。何が真実で何が虚構なのか。どこまでが現実でどこまでが幻なのか。僕自身の采配次第で、意思ひとつで、真琴先輩は今すぐここから消えてしまうのかもしれないのだから。
    けれど、そうだったとしても。

「ごちそうさま。美味しかった」
「お粗末様です」

    戻ってきた弁当箱はやっぱり軽い。中身はまっさらに失われている。食事が必要なのですか、そう尋ねると真琴先輩は、まさかと首を振って教えてくれた。

「怜のお弁当だけは美味しそうに見えるし、実際食べたら美味しいんだ」
「食べたものは何処に行っているのでしょう」
「さあ?少なくとも、血肉にはなってないだろうな」

    そうでしょうね、と頷きかけた。真琴先輩が言ったことは、彼自身の本質に迫るものだ。改めて僕は真琴先輩を見つめた。僕の知る真琴先輩そのものだった。
    短く黙る。目を合わせる。ヘーゼルグリーンの瞳が揺らぐ。

「触れてもいいですか」
「……いいよ」

    瞼を下ろした真琴先輩の頬に指先をそっと伸ばして、触れる。
    僕はひどく驚いた。その異常な冷たさと、何より、自身の指先に確かな感触があるということ。息遣いも、鼓動も、暖かさも何も無い。けれど触れている。氷のように冷たいけれど、そのすべらかで愛おしい肌は、かつて一度だけ触れることのできた、真琴先輩そのもので。
    だって、てっきり僕は、触れることなど出来るはずないと思い込んでいたものだから。何度も指先で確かめるように、真琴先輩の頬を押すと、彼は僅かだけくすぐったそうに肩を震わせた。手のひらで、頬の全てを覆う。緩く下がった彼の目元を親指で慈しむようになぞる。

「触れるのに、ここにいるのに、貴方はもういないのですね」

    呟くと、真琴先輩は一瞬だけ驚いた顔をして、ふわりと笑う。僕の手のひらに頬を擦り寄せる。冷たいのに、柔らかかった。まるで、そう、生きているみたいに。
    考えた途端涙が出た。次々に溢れて止まらなくなった。呻くように言葉を吐く。貴方が静かに聞いてくれることを僕はずっと前から知っていたから。

「どちらでもいいんです。貴方が例え僕自身の生み出した幻でも、幽霊でも、もうどちらでもいい。貴方にまた会えた。それだけで、僕は」

    嗚咽を漏らす僕の背に真琴先輩の腕がまわる。優しい力で抱きしめられる。冷たくて、とてもあたたかくて、ますます涙は止まらない。僕の涙腺は一年前に、すっかり壊れてしまったものと思っていたのに、まだこんなにも透明な雫を溢れさせることができたのだ。
    どうか、消えないでと願う。ずっとこのまま寄り添っていて欲しくて、しがみつきたくなる衝動を必死に飲み込み、嗚咽に変える。真琴先輩はそんな僕を見て、仕方なさそうに首を傾げると、耳元でかすかに囁いた。

「心配だったんだ」

顔を上げると、目が合った。

「怜は泣き虫だから」
「それほどでも、ありませ、ん」
「泣きながら言われても説得力がないぞ」
「久し、ぶりなので、止め方がわからなくて」
「どのくらい?」
「あ、なたが、いなくなった、日から」

    真琴先輩が悲しそうな顔をする。違う、どうか笑ってください。不恰好な僕を、思い切り。貴方にそうされたかったのです。途切れながらそう伝えると、真琴先輩は無理やりに顔を歪めて、笑顔のようなものを形作った。何もかもが綯い交ぜになって、けれどどうにか笑っていた。

「もう、大丈夫?」

    奇妙な表情のまま、真琴先輩が僕に尋ねる。躊躇い、震え、頷きを返した。大丈夫、僕はもう歩いてゆける。僕を包む冷たさと、あたたかさを覚えている。
    どんな奇跡か分からないけれど、今目の前に存在する彼への愛しさと、離別の苦しみを涙に変える。真琴先輩から手のひらを離し、貰った分より多くのものを捧げるために、瞬きをして。見上げる優しい瞳の中に、情けない顔をした自分が映り込み、その所為か、少しだけ笑うことができた。
    ぐらつく両足を叱咤して立ち上がる。真琴先輩の視線が僕のことを追いかける。右手には二人分の弁当箱。剥き出しの頬を、開いたばかりの桜の匂いが混じった風がゆるやかに撫でた。目を、閉じて。息をする。まだ少しだけ苦しいけれど、これから慣れていくのだろう。貴方の存在しない世界での呼吸の仕方。その方法に。

「怜」

    名前を呼ばれて、目を開けた。真琴先輩は半ば消えかけていた。薄く向こう側を透かした姿で、相変わらず僕に向けて微笑む真琴先輩が、小さく唇を動かした。声に出さず紡がれた言葉。驚き、瞬きをした次の瞬間、真琴先輩は空気に溶けた。見えなくなって尚、そこには彼の気配が残っている。

    手の甲で乱暴に涙を拭った。洟をすすり、最後の嗚咽を殺した。春の色濃い空気を吸い込み、手のひらで強く頬を叩いた。僕は、歩かなければならないのだ。でないとまた、真琴先輩を、心配させてしまうから。


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