西日の差し込む部室には俺と怜の二人だけだった。いつも騒がしい渚は用事があると言って足早に帰宅していった。ハルは水温の下がり始めたプールに未だ浮かんだままでいる。もうしばらくはそうしていることだろう。
着替えを終えて、部室の真ん中に置いてある長椅子に腰掛ける。ぼんやりとシャツを羽織る怜の背中を見つめていた。よく糊のきいた真っ白なシャツは目に眩しい。規則正しく伸びた折り目が持ち主の性格を表しているみたいだ。そんな風に思う。
「僕の背中に何かついていますか」
「え?ああ、ううん。そうじゃないよ」
あんまりじっと見過ぎてしまったのか。首から上だけで振り向いた怜の怪訝そうな視線。首を振って否定すれば静かに、そうですか、と怜は言った。どうして俺が見ていたのか、とかあんまり興味の無さそうな仕草で黙々と着替えを続けていく。
別段怒られたわけでもないし、不快そうにされたわけでもないから俺は背中を緩やかに丸めてやっぱり怜を見つめたまま。
ネクタイの結び方がとても綺麗だった。襟足から滲んだ水分でジャケットが少し湿っていた。骨ばった指が制服の袖や、裾を丁寧に整えて鮮やかな黄緑色のリュックサックを拾い上げた。
「帰りましょうか、真琴先輩」
俺の目の前に立った怜がメガネを持ち上げて言った。長椅子に腰掛けたままだから自然と怜を見上げる形になる。
薄暗い室内と差し込む強い西日のせいで俺を見下ろす怜がどんな顔をしているのかわからない。それが、なんとなく寂しいような気がして俺は怜を手招いた。
ひとつ瞬きをした怜が視界の中で大きくなった。目を閉じた瞬間に唇にあたたかいものが触れて、またすぐに離れていった。瞼を開く。不思議そうな怜の顔。
「水の匂いがしますね」
「え?俺、臭うかな。塩素の匂い?」
慌てて自分の腕をふんふんと嗅いでみても、まだ水っぽく乾かない鼻腔では臭いなどよくわからない。
「いいえ。そういうのじゃなくて」
「う、わっ」
「何と言いますか、……透明な、水の匂いだ」
無防備だった首筋に怜の鼻先が押し付けられた。すう、はあ、と二三度空気が吸い込まれて吐き出された。匂いを嗅がれている、と思うといたたまれない気分になって唇をむずむずと動かした。
肩がこわばっているのがわかる。喉の奥で舌が縮んで、息も詰まっている。耳のすぐそばで怜が小さく笑った。「顔、赤いですよ」意地悪な声がする。
「も、いいだろ。わかったから」
なにがわかったのかはわからないけれど、自分でも驚くぐらい必死な声が出た。かすかに肩を揺らした怜が俺の首筋から離れていく。じわりと汗ばんでしまったような気がして手のひらで怜のいた場所を押さえた。伝わる脈がとんでもなく早い。
怜は時折こうして俺のことを恥ずかしがらせて楽しんでいる気がする。その証拠に、こういうことをする時の怜はいつも軽やかに楽しそうだ。俺の両頬に手を添える怜のことを睨みつける。
「……後輩のくせに」
「先輩は、先輩なのに可愛いですね」
「可愛いって、……俺に言うことじゃないぞ」
「あなた以外に言いません」
眼鏡の奥にある怜の瞳が嘘なんか言っていないと俺に訴えかけてくる。勝ち負けを競うようにお互いの目を覗き込む。どちらともなく少しずつ距離が縮んでいく。視界が狭まる。唇の温度さえ感じ取れるような距離、瞼を降ろす瞬間。
「なにやってる」
「っうわぁ!!は、ハル?!」
「……酷いタイミングだ」
濡れ羽色をした髪から水滴を滴らせたハルが荒っぽい歩調で近づいてきた。じろりと怜を睨みつけて「離れろ」と吐き捨てる。
「お断りします。遙先輩には関係ありません」
「ある。真琴に近づくな」
「それは僕ではなく真琴先輩の自由です」
火花が散っている。もちろん、本当に散っているわけじゃないが俺の目には怜とハルの間に激しくぶつかり合う火花が見えていた。けれど、この二人は一体何を争っているのだろう。睨み合う二人の横でなんだか放り出された気分だった。
どうしようかな、としばらく迷って。「怜。ハル」と声を掛ける。ぱっと弾かれるようにして二対の目が俺を見た。ちょっとだけ微笑む。
「帰ろう?ハル、待ってるから着替えなよ」
ハルは勝ち誇ったような顔をして、怜は正反対の顔をした。すぐに着替える、そう言ってハルが自分の荷物に向かう。どこか不満そうな表情の怜が恨みがましい視線をよこす。どうして遙先輩も一緒なんですか、顔にそう書いてあった。
手を伸ばして怜の頭を撫でる。湿った髪が指に心地いい。
「……そんなことで釣られると思ってるんですか」
「あれ、釣られないの?」
「……釣られてあげます。仕方がないので」
ハルに聞こえないようにこそこそと言葉を交わして、気づかれないうちに一度だけお互いを抱きしめた。怜の胸元に引き寄せられるようにして長椅子から立ち上がる。
着替えを終えたハルが振り向くのと同じタイミングで俺と怜は距離をあけた。じっと勘ぐるハルに向かって怜がふふんと鼻を鳴らした。
「知ってますか、遙先輩」
「なにをだ」
「真琴先輩からは透明な水の匂いがするんですよ。特に首の辺りから」
「お前……!」

「ああもうだから喧嘩するのはやめろって!」

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