3.

    渚にそうすすめられたから。それだけの理由ではなかったが、怜は初めて訪れた日以降、何度かあの路地に佇む小さなカフェの扉を開いていた。自覚はなかったが、その様子はなにか、不可解なものに誘われているようでもあったかもしれない。ほんの僅かな違和感でしかない、その感覚に気づくことはないまま、怜はその日も、参考書の詰め込まれた鞄と共に、店の一番奥。大きめの観葉植物と隣り合った、一人用テーブルに陣取った。そこは彼にとって定位置となった場所で、入り口からは死角になり、ちょうどよく日も差し込んでいる。テーブルはある程度の広さがあり、参考書を広げるにもちょうどよかった。
    注文は、本日のコーヒー。その日の仕入れや、天気、気分に合わせて店員がブレンドしているのだという店の看板商品。運ばれてきたそれを一口含むと、前に訪れた時よりも酸味が強く、目の覚めるような味がした。引きずり続けていた連日の寝不足が、幾分かましになる。芳醇な香りを胸いっぱいに吸い込み、爪先に至る隅々まで巡らせた。何度か、陶器を傾けて、半分ほどを胃に落とし込む。繊細なカップをソーサーに戻す。
    傍らに置いていた鞄から、まだ半ばまでしか読み終わっていない問題集を取り出し、付箋で印を付けたページを机に広げた。本の継ぎ目から押し開き、必要な分だけの筆記用具と、ページの終わりそうなノートとを同じように並べて置いた。勉強、しなければ。今この時も、僕と同じ志望校を持つ、僕よりも頭のいい人が勉強し続けているのだろう。そんな考えに囚われて、呼吸が急に苦しくなった。どうしたって受験とは競争であり、他の誰よりも上であらなければ、自分が落ちることになる。勉強しなれば、息が苦しい、頭が痛い。胸元を掴み、意識的にゆっくりと息を吸い、深く吐いた。店内を満たすコーヒーの香りと、甘い焼き菓子の匂いとが吸気に混ざり、気分が落ち着いた。決して、全てではなかったが。
    渚が言っていたように、環境を変えてみるというのは良い事だったかもしれない。こうして、自室の机ではなく明るいカフェの隅の席に居ると、いつもより勉強が捗るような気がしていた。慢性的な頭痛も薄れ、唐突に吐き気がこみ上げることも滅多になかった。ページを捲る指先の震えが、確かに、抑えられていた。相変わらず時間の流れはとても早くて、そのことだけは自身を少し、焦らせてはいたけれど。分厚い問題集のページ数が、残り半分ほどになった頃。怜はふと顔を持ち上げた。冷め切っているだろうコーヒーに手を伸ばし、滑らかな取っ手に指を掛け、その隣に置いてある小さな皿の存在に気づく。

「……クッキー?」

    行儀良く均等に、一口サイズのクッキーが五つ、小皿の上に並べられていた。黄金色をした美味しそうなそれに、覚えはなくて困惑する。他の客と間違えているのだろうか、とも思ったけれど、今この時店内には自分以外、客の姿はなかった。ただいつものように、鼓膜に触れるか触れないかの音で静かなジャズが流れている。
    クッキーの小皿の下。ひそやかに添えられたカードを見つけ、引っ張り出して文面を眺めた。爪を滑らせるすべらかで、薄青いメッセージカードには、短く簡潔な文章が、丸みのある綺麗な文字で記されていた。

『サービスです。勉強頑張って』

    思わずカウンターに目を向けると、怜の視線に気付いたらしい。背の高いあの店員が、小ぶりなミルで豆を挽きながらささやかに微笑み会釈した。反射的に会釈を返す。怜は、不自然な音を立ててウッドチェアを引き、テーブルへと向き直る。赤い顔を気づかれていやしないだろうか、奇妙な焦りを押し殺すように、クッキーへと手を伸ばした。一つをつまみ、端を齧った。ほろりと崩れる繊細な食感、鼻腔を抜けるバターと紅茶の香り。小麦粉にバター、卵と茶葉。シンプルな材料で作られたそれはとても美味しかった。次々に手を伸ばしてしまい、小皿からクッキーは瞬く間に姿を消した。食べ終わった怜は、口元と指先を、備え付けの紙布巾で綺麗に拭った。
    甘いものを口にすると、凝っていた気分がある程度、ほぐされたような気がして。煮詰まりそうだった頭の中がすっきりと整理される。一時的に押しやっていた問題集を再び引き寄せて、よし、と小声で気合を入れる。今日はここで、区切りのいいところまで終わらせてしまおう。

    決意通り、目標箇所まで問題集を解き終えた怜が、会計を済ませるためにレジへ向かうと、店内の観葉植物にブリキのジョウロで水を与えていた背の高い彼が、小走りに駆け寄ってきた。怜から差し出された伝票を受け取り、アンティーク調のレジスターを開く。耳に心地よい金属音と、束ねられた鈴が弾かれるような音がした。俯けていた視線をそっと持ち上げた。上目に彼を窺った。柔らかそうなヘーゼルグリーン色の髪。レジを打つために伏せられた目元には、睫毛の影がかかっている。
    清算を終えて、レシートがわりのメモを受け取り、怜は口を開いた。

「あ、あの」
「はい?」
「クッキー、ありがとうございました」
「ああ、いいえ。口に合いました?」
「ええ。とても美味しかったです」
「よかった。試しに作ってはみたんだけど、自分の味覚だけじゃ判断つかなくて」

    どこか悪戯っぽい笑みを浮かべる彼にぎこちない微笑みを返す。あのクッキーは本当に美味しかった。素直なこの気持ちが伝わっていればいいと思う。レジの向こうで佇む彼が、不意に、怜の肩から下がる重たげな鞄に目を向けた。ほんの僅かだけ眉を動かし、すぐになだらかな表情へと戻った。

「受験生、だよね?」
「……はい。いつもすみません」
「謝ることないよ。勉強が捗るようなら閉店までいてくれてもいいし。ここ、お客さん少ないから」
「このお店はあなたが経営者なのですか?」
「まさか。オーナーは別にいるよ。俺はただのバイト」

   ここには居ないオーナーのことを思い出しているのだろうか。仕方なさそうに目を細めた彼の雰囲気は呆れ混じりだ。彼にそんな顔をさせる、この店のオーナーのことが何となく気になってしまい、怜は首を傾けた。

「オーナーのことは昔から知ってるけど、すごく変わった人でね。お店のことは俺に任せきり。好きにしろって言われてる」
「それでは、オーナーさんは今何を?」
「今は確か、ピザ屋で宅配のアルバイトしてるよ」
「……理解できません」
「そうだよね。俺もオーナーのことはよく分からないな」

    カフェを経営していながらピザ屋でバイトをする不可思議なオーナーのことについて、ひとしきり二人で笑いあう。そういえば、こんな風にきちんと、会話をするのは初めてだ。今までは注文の時や、会計の時、一言だけ応答するぐらいでこんなに言葉を交わすことはなかった。意識すると声が震えてしまって、冷たいはずの耳朶が熱くなる。怜の異変に気付いたのか、彼は一瞬不思議そうな表情を浮かべ、どうしてか、心配げな色を過ぎらせた。何かを飲み込むような顔をして、躊躇ってから口を開いた。

「……いつも勉強頑張ってるよね」
「……あと、三ヶ月しかありませんので」

    事実、大学受験の第一関門とも言えるセンター試験まで、もうあまり日は残されていなかった。だからこそ怜の焦りは上限を知らなかったし、友人である渚にも以前のような接し方が出来なくなる程追い詰められてしまいもした。毎日、毎晩、時間に追われているかのように、ひと時も参考書から目を離すことはなかった。そうしていなければ不安に押し潰されてしまいそうになる。
    今日まで話すことがなかったとはいえ、店員である彼から見ても怜の姿は異常だったかもしれない。この店にいることで多少落ち着いてはいたが、追い詰められた怜の険しさは一目で分かるものだったから。顔色の悪さも、目の下の隈も、決して普通ではなかった。
    だからといって、気にされたら、嫌だな、と思う。変に心配されて、気遣われてしまっては、もうここには来られなくなる。そもそも最近通い始めたカフェの店員でしかない彼に、そこまで口を出される謂れはないのではないか、反発的な考えが頭を満たしていた。黙ってしまった怜に対して、彼はそれ以上踏み込まなかった。代わりに小さな可愛らしい包みを怜の手のひらへと押し付けた。触れるとほんのり温かい、中には差し入れと同じクッキーが何枚か詰め込まれていた。不織布の包みと彼の顔とを見比べて、困惑する怜に彼は言った。

「それ、焼いたばかりだから。家で食べて」
「あ、ありがとう、ございます」
「またいつでもいらしてくださいね」

    口調は柔らかく砕けたまま、今更店員染みた言葉遣いをする彼に見送られて、怜は店を後にした。肩から下がった鞄が重く、足取りの鈍い怜を後押しするように、閉じかけた扉の向こうから「ありがとうございました」と声がした。振り返りたいと思ったけれど、視界に映る街の景色が橙色に染まっていることに気づいて、結局振り返らなかった。早く家に帰らなければ。無意識のうちに触れたポケット越しに、クッキーの温かさが指先を伝って染み込んだ。

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