2.

    強引に手を引く渚に連れられて訪れたその場所は、怜のよく知る繁華街からひとつ、路地に入っただけの。けれど、繁華街の賑やかな雰囲気からは隔絶されたように静かな道沿いに、ひっそりと佇んでいた。隠れ家的な場所だよね、なんて楽しそうに言った渚の気持ちがわかる気がする。目印は小さな看板と、扉に掛けられた『Open』の文字板だけ。一見すれば普通の民家のようで、植木とプランターに囲まれた扉を、率先して渚が押し開いた。耳障りにならない程度の大きさで、金属製のベルが涼やかな音を鳴らした。
    怜は俯き、吐き気を噛み殺していた。今すぐにでもここを出て、自室に戻り、勉強しなければならないような、そんな衝動を押さえつけるのに苦心していた。今この瞬間にも、自分と同じ大学を志望する、自分よりも頭のいい多くの人が、問題を解き試験に臨むべくしているかと思うと、焦りと不安で押し潰されそうだった。
    冷や汗の滲む怜の手を、渚は固く繋いで離さない。その確かで、暖かな繋がりだけが、怜をこの場に押し留めている。渚は人目をはばからず、怜の手を掴む手に力を込めた。もしかしたら痛みを感じてしまうぐらい、遠慮なく。せめて指の震えだけでも、分かち合いたいと思っていたから。独りよがりでも構わなかった。
    渚はよく日の当たる窓際の席。二人掛けのテーブルを選んだ。彩度を抑えた白で塗装されたウッドチェアが、重さを受け止めて柔らかくきしむ。手書きのメニューをお互いの間で広げ、額を突き合わせて覗き込む。

「僕はケーキセットかなあ。怜ちゃんはどうする?」
「君と同じものを」
「うん。じゃあケーキセットふたつね」

    渚が注文している間、怜は参考書の詰め込まれた自身の鞄に視線を落としたままでいた。筆記用具と参考書を取り出すことはなかったけれど、それもかろうじてだった。落ち着かない怜に対して、渚は何も言わなかった。ただ静かに、時折透明なグラスに注がれた冷水を口に含みながら、黙って待つような仕草をしていた。
    清潔なタオル地のおしぼりで、怜は自身の爪先と、指のひとつひとつを、やけに丁寧に拭う。気を紛らわすには足りなかったが、そうしていないよりましだった。ケーキとコーヒーの手軽なセットが、運ばれてくるまでの時間。それが短いのか、長いのかにさえ意識を向けることが出来ないまま、二人は言葉を交わさない。
    ぬるま湯のような沈黙に、決して不快ではない響きで、聞き知らぬ人の声がした。

「お待たせしました。ケーキセットです」

    頑なに俯いていた怜は、唐突に思えるその声に、促されるようにして顔を持ち上げた。耳朶を引っかかれるかのごとく不可解な、小さな痺れを感じていた。渚にプレートを手渡している、濃い緑色のエプロンを身につけた背の高い人。そのやわらかな表情を目にして、息を飲む。声を聞いた瞬間、耳朶から頬へと広がった痺れの正体を自覚する。薄い皮膚の下を、忙しなく巡る血液の音が、聞こえるような気さえした。

    内面の優しさがにじみ出ているような、甘さの残る整った顔立ち。下がった目尻と薄い唇には控えめに微笑が湛えられている。ヘーゼルグリーン色をした髪は、耳に差し掛かる程度の長さで、その人の動きに合わせて揺れた。

    変化は本当に突然で、自分でも何が起きているのかよく分からない。ただ顔がとても熱くて、目の前にいるその人から、目を離すことが出来ない。あからさまな怜の視線に気づいたのか、ご注文は以上でよろしいですか。そんなお決まりの台詞とともに、その人は怜に向けて微笑んだ。心臓が、跳ねる。

「俺の顔に、なにか?」
「っ!……いえ、すみません」
「ごゆっくりどうぞ」

    彼はあっさりと、とても簡単に、一礼をして去ってしまった。引きとめられるはずもない。可愛らしくちょうちょ結びにされた、エプロン紐を背中の低い位置で揺らし、遠くなったその姿を視線で追いかけた。瞬きも勿体無いような気がして。劇的な何かが、あったわけでも、ないのに。
    カウンターの向こうにいる、彼を視界におさめ続け、惚けて馬鹿みたいな顔をしている、怜は渚が自分のことを見つめているのに漸く気づいた。はっ、と分かりやすく我に返った。雪のような粉砂糖が満遍なくふりかけられた、艶やかな焦げ茶のガトーショコラにも手をつけず、白磁のシンプルなティーカップから立ち昇るコーヒーの湯気越しに、視線が交差した。顔は未だに熱くて、これではいけない、そう、思ったから。

「……食べないんですか、ケーキ」
「ふうーん……」

    強引に話を逸らそうとしたけれど、渚は意味深な声を漏らした。怜の心を見透かすように、硝子越しの瞳を覗き込んでいた。ああ違う、僕はすぐ顔に出るから。違わないが、違うのだ。そう、言い募る間も許さず、渚は驚いたように、何度も瞬きを繰り返す。真意を問われているようだ。怜が、カウンター向こうで他の店員と会話している、背の高い彼に抱いた感情の意味を。自分にすらよく分からないのに。ひどく罰の悪い思いだった。
    怜は小ぶりな銀のフォークを、目の前のチーズケーキに突き刺した。切り分けた一口分を、自身の口に運んで、咀嚼した。渚の無言の圧力から逃れるためだったが、滑らかな食感のチーズケーキは予想以上に美味しかった。甘いものにうるさい渚がすすめてくるのも頷ける。怜にならって渚もケーキを口に運んだが、上の空であることは一見してわかった。先ほどこのテーブルを訪れた、店員の彼を目にした時の、怜の反応について深々と考えていた。あれがなにを意味するのか、多分、間違えてはいけないことだ。
    コーヒーにたっぷりの砂糖とミルクを注ぎながら、上目に怜の表情を窺う。時間をおいて、今もなおその頬には赤みが差していた。今朝や、ここに来た時の、青ざめた顔が幾分ましになっていた。それはとてもいいことだと思う。多少無理やりにでも連れ出したことが功を奏したのなら、喜ばしい以外何もなかった。しかし、主題はそこじゃない。なんと言って問うべきか迷い、考え込み、結論づかない。そうしているうちに怜の皿からも、渚の皿からも、ケーキは綺麗になくなってしまいそうだった。ああもう、多少投げやりに意を決し、渚は怜に詰め寄った。

「怜ちゃん!」
「っ声が大きいですよ」
「あ、ごめん……。えーっと……ケーキ、美味しいね」
「はい、本当に美味しい。君がすすめるのも頷けます」
「でしょ?……そうじゃなくて。ねえ、怜ちゃん。さっきの店員さん、なんだけど」
「……あの人が、どうかしたんですか」
「知り合い?」
「いいえ。初対面です」
「そっか。じゃあ、じゃあさ……何かあった?」
「……別に、何も無かったでしょう?君だって見ていたじゃないですか」

    頭のいい怜のことだから、何を問われているのかぐらい、すぐに分かったはずなのに。わざと論点をずらすようなことをするのが、怜らしくなく、珍しくて、なおさら疑念を深めてしまう。意図せずして、責めるような顔になってしまった。自分で思っている以上に、戸惑っているらしかった。率直に、端的に尋ねるには、ここはあまりよくない。比較的静かな店内にはひっそりとジャズが流れているだけで、内緒話もつまびらかになる。渚も、多分怜だって、それは望んでいないのだ。確信じみた予測の話。怜の、返答次第によっては、驚くだけで済まない話だった。
    別に、ダメだと言いたいわけでは、ないのだけれど。渚は自分でもどうしたいのか、どう答えて欲しいのか分からないまま問いを発していた。驚いて、思わず、というのが一番近い表現だった。だってあんまりにも分かり易かったから。誰が見ても、そうである以外に捉えようのない反応を、怜が見せてしまったから。裏付けが無いだけで、明確なのに問いかけるのは、別に認めたくないのではなくて、渚が断定することで、怜の視野を狭めてしまうことを恐れたからだった。渚がどう思ったとしても、怜の反応が傍目には間違いようのないものだったとしても、怜の感情をどうするのか決めるのは結局、怜自身なのだから。
    華奢なティースプーンをカップに差し入れ、カチャカチャと音を立てながら沈んでしまったミルクを溶かす。乳白色は均等に混ざり、小規模なさざなみを円形に広げる。舌に優しい温度まで下がったコーヒーを含んで、静かに飲み込む。ちらりと壁掛けの時計に目をやると、この店を訪れてから既に一時間が経とうとしていた。眉間に浅くしわを刻んだ怜に、兼ねてから考えていた小さな提案を、口にする。

「ここ、ゆっくりできるでしょ」
「……そうですね。もう、こんな時間ですか」
「気が向いたら、ここで勉強してみるのもいいんじゃないかな。普段と雰囲気変えてみると、同じ勉強でも違うかもよ?」
「……考えて、みます」
「うん。考えてみて」

    きっと、この提案に怜は乗るだろうと思っていた。けれどこんなにも簡単に頷いたのは、やっぱりあの店員がこの店には居るからなのだろうか。渚がどれだけ放課後の寄り道を誘っても、自宅で勉強するからと断ってきた怜のことだから、もう少しごねられるかと思っていた。元々ここに連れてきたのは、この提案をする為だったから、乗ってくれたことは良かったと思うし、まあ、いいか。と一人納得して。
    伝票を手にし、立ち上がる。無意識だろうか。怜の視線はカウンターの向こうで作業をする、背の高いあの人に向けられている。予想外の要因は加わったものの、怜はきっとまたこの店を訪れるだろう。ここの雰囲気に浸っている限り、今日まで怜が行なっていたような、まるで自分を追い詰めるための無茶な勉強だって落ち着くかもしれない。そうさせるだけの空気がここにはあったし、証拠に怜が参考書の詰め込まれた鞄から目を離さなかったのは、訪れて最初の十分ばかりで、それから後は思い出したように、視線を落とす他はなかった。勉強をしながらでも安らげる場所があるのと、無いのとでは大きく違う。
    店を後にする前。会計を担当した店員が、背の高いあの人ではないことに、怜は近くで見た渚以外に、気づかれない程度の儚さで惜しむような顔をした。

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