1.
指、震えている。冷たくて嫌な汗が額の端に滲んでいる。それでも書き続けた。目の前にある分厚い参考書を何度捲っても、文字列をノートに書きつけても、怜の不安は消えることが無かった。浅い呼吸のまま、一冊を終えてしまっても、また新たな参考書へと手を伸ばして引き寄せた。自宅で過ごす怜が、自室の机から離れるのは僅かな時間だけとなる。ひたすらに机に向かい、終わりのない問題の山を脇目も振らず解き続けた。
夜はそうして、いつの間にか眠り、習慣づいた朝の早い時間に机の上で目覚めると、昨晩よりも増大した不安が意識を悉く苛んだ。気づけば夜が明けているという、その事実が恐ろしかった。心をくろぐろと塗りつぶす不安から逃れようとして、怜はまた参考書の山に手を伸ばし、奥歯を固く噛み締めた。粘つく焦燥を伴って、不安はいつまでも消えない。
「怜ちゃん、甘いもの嫌いじゃなかったよね」
ある日唐突に、疑問の形ではあるけれど、断定的な響きでもって渚はそう言った。授業合間の、僅かな休み時間にも問題集から目を離さない怜と、机を挟んで向かい合わせに座っている。手の中で細身のシャープペンシルをくるりと回転させながら、わざと無遠慮に、怜の意識を遮るような言い方をしていた。
一瞬、怜は忙しなかったペン先を震わせ、小さく深く息を吐き、顔を持ち上げた。その表情に浮かぶ僅かな苛立ちを、渚は意図的に黙殺した。そうしなければならなかった。
「……ええ、それなりに」
渚と視線を合わせた怜は、先ほど自身が露わにしてしまった苛立ちを恥じるような顔になる。すみません、とささやかな呟き。渚は黙って首を振った。表出した冷たさを、少しも気にした様子がなかった。落ち着かない怜の手をやわらかく、指先で押しとどめながら、つい先日の放課後を思い出していた。
「この間見つけたカフェなんだけど、ケーキがすっごく美味しいんだ」
「ケーキ、ですか」
「おすすめはガトーショコラとチーズケーキかな。コーヒーも美味しいよ。毎日そこの店員さんが豆をブレンドしてるんだって」
「君がそんなにすすめるのなら、本当に美味しいんでしょうね」
「もちろん!お店の雰囲気も落ち着いてるから、少しぐらいのんびりしても大丈夫。……だからさ、怜ちゃん。今日、一緒にそのお店行ってみない?」
渚の提案に、怜は言葉を詰まらせた。どういう返事をするべきか、迷っているような。それとも、返答はすでに決まっていて、ただそれを口にするのを躊躇っているのか。どちらともとれない顔をしていた。
普段ならば、断っている。受験勉強がありますので、という言葉を機械的に口にしている。けれど今、怜が口を噤んでいるのは、渚からのこの誘いが、紛れもなく自身を心配して発せられたものだと、理解しているからだった。明確に言葉にされなくとも、渚が悟らせまいとしても、友人として過ごした月日が何よりも雄弁に、渚の真意を伝えてくる。
本音を言えば、今この瞬間も背筋を這い上るような不安に襲われていた。渚の手を振り払い問題集を解きたかった。ひと時も休まず、考えていなければ、鼓動が不安定に早鐘を打ち、息が詰まりそうだった。
そんな迷いを見透かして、渚は、白くひんやりとした、それでいて気持ちのいい笑みを浮かべた。怜の考える余計な事柄を、残らずこそげ落としてしまう容赦のない顔をした。もう、怜に対する心配を、隠そうともしていない。
「怜ちゃんは、ちょっと休んだ方がいい」
「……ですが、」
「ダメ、だよ。言うこと聞いて」
ゆっくり、一語ずつ区切るように話す。普段よりも幾分低い、幼い子供に言い聞かせるような、渚のなだらかな声音は怜の鼓膜を心地よく揺らしてくれる。それ以上に渚の言葉には、拒絶を許さない横暴さがあった。渚のそういう、強引なところを、好ましく思っている。安易に、大丈夫だから、などと口にせず、強引に誘われて仕方なく、という逃げ道を残したままでいてくれる密やかな優しさのことも。
怜はぎこちなく微笑んだ。渚に対する返答だった。けれど、拳を固く握りしめていた。塗装の褪せたシャープペンシルが手の中で不快に軋んだ。伸びた爪が問題集のページに引っかかり、未練がましく皺を作った。内にある焦燥を飲み下し、屈託無く頷くことはまだ、出来そうにない。
提案された放課後の寄り道に、躊躇いはあれど怜が同意を示したことで、少なからず渚は安堵していた。断られても強引に連れ出すつもりではあったが、納得しているのとしていないのとでは、気持ちに格段の差があるだろうから。久しぶりに出掛けるのだから、どうせなら、なるべく安らいでほしかった。友人の、今にも泣き出しそうな顔なんて、長く見たいものではない。
他愛ない話題にさえ、上手く返答できないほど余裕のない怜を、ずっと気にしていた。受験生である自分たちのこと、勉強に打ち込むのは良いことだが、それにしても焦りすぎだと思っていた。最近の怜はいつも、恐ろしいものに追い立てられているかのように、険しい雰囲気を崩していない。連日、寝不足の顔をして、隈は日に日に濃くなっている。
彼は思い詰める節がある。勉強はもう十分だ、などと無責任なことを口にするつもりなんて、露ほどもなかったけれど、休まなければ壊れてしまう。そんな懸念を抱くほどには、怜の様子は危うく見えた。だかるこそ怜がまだ、渚の言葉に耳を傾けてくれるだけの、隙間を手放していなかったことが素直に喜ばしいと思う。
無機質なチャイムの音。周囲が俄かに慌ただしくなる。渚が立ち上がった。怜の席から斜め後ろの位置にある、自らの席に向かおうとして、振り返る。渚の手が離れた瞬間、再び問題集を解き始めた怜を目にし、辛そうに眉を顰めた。今すぐ止めてあげたいが、自分の願望がそこまでは、及ばないことを知っていた。一瞬だけ迷い、諦めきれないまま席に着く。
放課後、忘れないでね。言葉にするべきか迷ったが、怜は一度した約束を破るような人ではなかったから。渚は黙ってその背を見つめた。遠目からにもよくわかる、彼の青ざめた頬が痛ましかった。