「もう、いい」

    冷たく強張った顔をした真琴が、俺を一瞥もせず部室から出ていくのを呼び止めることができなかった。あんなに明確な真琴からの拒絶を、長い時間を一緒に過ごしてきてこれまで受けたことはない。今日までは。今、このときまでは。
    真琴が出て行ったあとの扉を、無意識のうちに見つめてしまっていた俺は、ゆるゆると力無く首を振り、カバンと荷物を手に取った。一人残された部室の中は、いつもより少し肌寒く秋の訪れを予感させる。あと一月も過ぎてしまえば、あの美しい水面に飛び込むことは叶わなくなってしまうのだろう。胸に浮かぶ焦りに似た感情を、水のせいにしてやり過ごす。



    喧嘩をした翌日から、登校するのも別になった。もう、三日になる。真琴は俺の方をわずかも見ない。俺は気づかれないように、真琴の姿を窺っている。休み時間にも真琴はこちらに近寄らない。部活でも、必要最低限の言葉を交わすだけで、渚や怜は俺たちの不穏な空気を察してか、何か言いたげな様子を見せるだけにとどまっていた。席について静かに本を読む、真琴の横顔は普段とそれほど変わらないのに、俺の焦りは増すばかりだ。
    クラスも同じ、席も近しい俺たちから、真琴からの接触をすっかり除いてしまうとこんなにも、関わり合いにならないのだというその事実に愕然とする。思えば俺は普段から、真琴に自ら話しかけるということをあまりしたことがない。いつもなら、何も言わずとも、真琴が俺に声をかけ、気に掛けて物事が進んでいくのだった。そんなことに今更気づいて、やりきれずに歯噛みする。

    最初は意地になっていた。絶対に自分から謝ってやるものか、と。真琴と喧嘩をしたことがないわけではなかったが、昔から真琴が先に折れて謝り、俺もその後に続くというのが大抵のことであったから、甘えていたのかもしれない。このまま過ごしていれば近いうちに、真琴が謝ってくるだろう、なんて。今思えば、吐き気がするほど身勝手なことを考えていたのだ。
    真琴のいない屋上で、昼食を摂りながら拙く吐露したその心情を、渚はどこか哀しそうな、不明瞭な目をして聞いていた。綺麗に詰められた弁当箱の中身に幾分も手をつけず、じっと俺の話を聞き終えた渚が考え込むような仕草を見せる。そうして俺を真っ直ぐに射抜く、渚の透き通った色をした瞳。

「ねえハルちゃん。マコちゃんは、どうしてそんなに怒ったのかな」

    諭すようなその声音に、喧嘩をした日のことを思い出した。苛立ちに任せて口にした、俺の言葉。真琴が一番悲しむ言葉。

「お前には関係ない」
「え?」
「そう、言った。真琴に」

    一瞬驚きを隠せなかった渚は、すぐに気を取り直してああ、そっかあ。と納得する。細い眉を困ったように顰める。黙り込んでしまった渚の隣で、俺は自分の昼食である塩サバを一口噛み切った。塩サバが変わったわけではないのに、砂を噛むような思いがする。味気なくてしかたがない。変わったのは俺の心と、真琴の存在。あまりに大きかった。
    真琴が隣にいないという、それだけでこんなにも心が重苦しくて、息がし難い。授業中に時折目を合わせては、面映く微笑む真琴の顔が見たいと思う。あのやわらかく優しげな笑顔を、最後に見たのはもう随分と前のような気さえした。
    今まで意識したこともなかったが、真琴は俺にとってなくてはならない存在だったのだと今更ながらに自覚する。真琴に会いたい。その思いだけが頭の中を埋め尽くす。

「喧嘩の原因はなんだったの?」
「原因……?」

    渚からの問いかけに、俺は再び記憶を辿る。けれど、いくら考えても、始まりは何だったのか思い出すことができなかった。大したことではなかったのだろう。小さな歯車の軋みが全体へと広がるように、少しずつ歪みを増した言葉がお互いのことを傷つけた。多分そういうものだったのだ。
    黙り込んだ俺を見て、渚は小さく肩を竦めた。「そういうものかもしれないね」と呟いて卵焼きを一口含んだ。もそもそと咀嚼し、飲み込んだ。俺の弁当もまだ半分以上残っていたけれど、味気ないそれをどうしても食べる気が起きなくて、蓋を閉め乱雑に包み直す。

「食べないの?お腹空くよ?」
「……味がしない」
「ハルちゃんはマコちゃんが大好きなんだね」

    大好き、という渚の言葉にどんな要素が含まれていたのか。渚の考えはわからないけれど、聞いた瞬間頭に浮かんだ真琴の見慣れた、綺麗な笑顔。高鳴った心臓に戸惑い、胸元を握りしめる。アスパラのベーコン巻をつつきながら、渚はさらに続けた。

「はやく謝らないと、嫌われちゃうよ」
「嫌われる?誰が」
「誰って、ハルちゃんが」
「誰に」
「マコちゃんに。……そういえば、マコちゃんは怜ちゃんと、部室でご飯食べてるみたいだね」

    いつの間にか立ち上がっていた。渚はすべて分かったような顔をしていた。行ってらっしゃいと言って手を振る、渚を背にして駆け出した。全速力で階段を駆け下り、息を切らして部室に走る。



    辿り着いた鉄扉の前で、軽く呼吸を整えた。普段ならそんなことはしないのに、無意識に数度ノックをして、返事がないまま扉を開いた。果たして、中には一人だけ。驚きに目を見開いた真琴が、ハル、と小さく呟いた。

「真琴」
「何でここに」
「お前こそ、怜はどうしたんだ」
「怜なら渚に用があるからって、さっき屋上に」

    拙い言葉遣いをする真琴が戸惑うように目を逸らした。それがどうしようもなく悲しくて、俺も視線を俯けてしまう。沈黙に満たされた空間は、喧嘩をしていない時と違って居心地悪く、息苦しい。でも、だからこそ、俺は真琴に言わなければならないのだ。
    音を立てずに深呼吸をする。真琴との距離を数歩分詰めると、怯えたように身を縮こまらせるが逃げ出されてしまうことはなかった。長椅子に腰掛ける真琴と視線を合わせるために、床に膝をつき、その表情を仰ぐ。行き場をなくした子供のような顔。笑って欲しい。思いが溢れてしまいそうになる。
    半ば無理矢理に目を合わせ、強張る喉を動かし、そして。

「悪かった。お前には関係ないなんて、嘘だ」

    口にできたのは、たったそれだけ。真琴は翠色をした瞳を目一杯に見開き息を飲んだ。泣き出しそうな表情のまま、つっかえながら真琴が答える。吐息のようにか細い言葉を聞き逃さぬよう耳を傾ける。

「俺も、……ごめん。関係ないって、言われて、やっぱり俺、いなくてもいいんだ、って」

    いつの間にか涙を零す、真琴が覚束なくしゃくりあげた。透明な雫は綺麗だった。肌の色を透かして滑り落ちるそれを、指先でそっと拭い続ける。これでは次々落ちる涙に追いつかない、そう思って。
    震える眦に唇を寄せると、真琴の体が驚きに揺れた。構わず涙を拭い去っていると、先ほど渚との会話の中で感じた胸の高鳴りが、再び心臓を覆っていく。塩辛い雫がとても愛しい。ああ、そうだ。この感情に俺は漸く名前をつけることができる。幼い頃から抱き続けていた、真琴のことを大切に思うこの感情。喧嘩をして、しばらく離れたことで、意識することができた感情の名前は。

    好きだ、と衝動に任せて告げた、万感の想いを込めた一言に真琴が何度も瞬きをした。やがて蕾がほころぶように、やわらかく優しい笑みを浮かべて、真琴は囁く。

「うん。……俺も、ハルが好きだ」

    ずっと見たかった真琴の笑顔は、記憶の中にあるものよりも、懐かしくて美しい。真琴の居なかったこの三日間、俺がどれほど寂しかったか、真琴に聞いてほしいと思った。












良さまからリクエストしていただきました『真琴とガチなケンカをしてしまって2人に距離ができてしまった時に、遙が真琴の存在の大切さと真琴が好きだという気持ちに気づいて、真琴に伝えるみたいなハッピーエンド』ですー!
あの温厚なまこちゃんと、ハルちゃんをガチゲンカさせるにはどうしたらいいか、考えた結果このような感じになりましたがいかがでしょう。
まこちゃんが一番悲しみそうな言葉といえば、ハルちゃんからのお前には関係ない、かなあと。ただでさえ普段が一方通行気味なのに、関係ないと言われてしまい、自分がハルちゃんにとってどういう存在なのか悩み、思いつめてしまったまこちゃん。そんなまこちゃんから距離を置かれて、三日で耐えきれなくなるハルちゃん。ハルちゃんは寂しさのあまり、まだまだ発展途上だった自分の恋心を確信した結果、思わず告白。
勢い任せの告白というのも、素敵なのではないでしょうか。
良さま、リクエストありがとうございましたー!!

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