「八方塞がりってこういうことかなあ」
「渚くん?」
僕にとっては驚くべきことに、いつも底抜けに明るい渚くんが落ち込んでいるようだったので、思わずパイプ椅子の背もたれに突っ伏した渚くんの頭に呼びかけた。頭を持ち上げる気力も無いのか、ほんの少し肩を揺らしたあと、「なあに、怜ちゃん」と消え入りそうな声。
僕からは突っ伏す渚くんのつむじぐらいしか見えないけれど、そのつむじさえ何となく普段の元気がないように見える。旋毛がしゅん、としおれている。ふわふわあちこちに跳ねて、触ると柔らかそうな金色の猫毛に張りが感じられなかった。どうやらこれは本格的に、沈み切ってしまっているらしい。
僕は読みかけの本に栞を挟んで、丁寧にカバンへと仕舞った。最近座ると不穏な音を立てるようになった長椅子に、改めて腰掛け直し、背筋を伸ばして姿勢を整えた。それから、未だ突っ伏したままでいる渚くんの肩を強めに揺らす。不満そうな顔を持ち上げた渚くんに告げる。
「僕でよければ相談にのりますよ」
「……ほんとに?」
「当たり前じゃないですか」
だって僕たち、友達でしょう。そう続ける前にぱあ、と表情を輝かせた渚くんが、パイプ椅子の背もたれを乗り越えて僕の首へと抱きついた。倒れこみそうになるその体を慌てて支え、向こう側へと押し戻す。元のように椅子へ腰掛けた渚くんが、意味ありげな視線を扉の方に向ける。
「遙先輩と真琴先輩なら、もうとっくに帰りましたよ」
「あ、そうなんだ。じゃあ大丈夫だね」
実は、と切り出されたその悩みの内容はといえば。
「マコちゃんが鈍すぎる!!!」
「は?真琴先輩、ですか?」
「他にどんなマコちゃんがいるっていうの」
「いえ、まあそうですが。ところで、鈍い、というのは?」
「鈍いは鈍いだよ。全然、僕の気持ちに気づいてくれないし、僕のこと意識してくれないし!もうどうしたらいいのー!!」
椅子の上でじたじたと暴れる渚くんを呆然と見つめ、僕はなるべく冷静に頭の中を整理しようと試みる。いくら恋愛ざたに疎い僕だとはいえ、渚くんの物言いに含まれた意味を読み取れないほどではなかった。でも、まさか。渚くんの言う鈍いの意味を、何度も何度も噛み砕き、理解し直しても結論はひとつしか出てこない。
恐る恐る、渚くんに、一つの仮定を提示してみる。
「君は、真琴先輩のことが好きなんですか」
「うん。あれ?言ってなかったっけ」
「聞いてませんよ!!」
さらりととんでもないことを言い出した渚くんは、どうして僕が驚いているのか全く理解できない、とでも言いたげな顔をして僕を見上げている。 その様子に、僕がこんなに驚いていることの方がおかしいのだという気がしてきて、思わず立ち上がっていた身体を再び長椅子の上へと戻した。
「それでね怜ちゃん。僕、マコちゃんにいろいろアタックしてみたんだよね。でもぜーんぶ、不発でさあ……」
何事もなかったかのように言葉を続ける渚くんに、僕は一度だけため息を吐き、その話に耳を傾けた。少し取り乱してはしまったが、彼がそれでいいというのなら僕が何かを言うことじゃない。それに、今僕がすべきことは、渚くんを問い詰めることではなく、彼の悩みを聞くことだった。できるなら、その解決策を示すことも。
「アタックとは、具体的にどんなことをしたんです」
「どんなって、普通のことだよ?」
「詳しく聞けば、真琴先輩への対策が練れるかもしれないでしょう」
「そっか。そうだね!えーっとね、まずは……」
「マコちゃーん!!」
挨拶がわりに、振り向いたマコちゃんの正面から飛びつく。ぎゅうぎゅうと力を込めて抱きしめると、マコちゃんの大きくてあったかい手が僕の背中をよしよしと撫でてくれる。思う存分ぎゅっとしたあと、地面に降りた僕はずいぶん高い場所にあるマコちゃんの顔を見上げ、にっこり笑う。
「今日も可愛いね!」
「あはは、何だよそれ。可愛いのは渚だろ」
渾身の口説き文句をさらりと流され、危うく落ち込みそうになる。でもこんなのいつものことだし、いちいち気にしていられないし!次の一手を繰り出すべく、僕はマコちゃんに手を差し出した。不思議そうに首を傾げるマコちゃんも可愛いなあ、なんて思いながら、僕は言った。
「部室まで手を繋いでいこうよ」
「ん?いいよ。はい」
いとも簡単に僕の手は、マコちゃんの広い手に包み込まれた。まるでお母さんと小さい子がするみたいな繋ぎ方。僕がしたかったのはこういう繋ぎ方じゃないんだけど、しょうがないか。繋いでいることに変わりはないよね。
僕とマコちゃんは部室までの道を並んで歩いて、その間に僕は何度も遠回しに好きだと言い続けたけれど、結局一度も気づいてもらえず部室に辿り着いてしまう。このまま部室に入ってしまえば、一気に部活の雰囲気になってしまってアタックどころじゃなくなくなるんだろうな。そう、思ったから。
僕はマコちゃんをちょいちょいと手招き、その場にしゃがみこんでもらう。僕よりも背の低くなったマコちゃんの、おでこにかかる短くて柔らかい髪の毛を指先で横に払った。あらわになった白いおでこを見つめて、よし!と気合をいれた。不思議そうな顔をしたマコちゃんが、渚?と僕の名前を呼ぶ。
「する、からね!」
なにを、とマコちゃんが言い終える前に、唇を一瞬だけ触れさせる。本当に短い間だったけれど、僕の唇にはマコちゃんのあたたかさが確かに、残っていて。
マコちゃんは驚いて、ぽかんと口を開けている。でも、照れてるみたいな様子はなかった。なんでだろう。僕はたぶん、すごく顔が赤いのに。どうして、マコちゃん平気なの。僕ばっかりこんなに意識してさ。ぐちゃぐちゃな僕の頭の中に、昨日怜ちゃんに相談したとき貰ったアドバイスが蘇る。
「僕が思うに、渚くんには真剣味が足りません」
「えー。僕いつも真剣だよ?」
「実際がどうあれ、鈍い真琴先輩に想いを伝えるためには、多少大袈裟なぐらいがちょうどいいんです」
大袈裟なぐらい真剣に、怜ちゃんの言葉を胸に刻む。僕からキスをされたこと、何とも思っていないみたいなマコちゃんの目を真っ直ぐに、ひたむきに見つめる。両手でマコちゃんの手をしっかり握る。
僕は深呼吸をした。少しも、笑わなかった。きらきら輝くマコちゃんの、翠色をした瞳に映る僕は自分でも驚くぐらい固くて強張った顔をしていた。
「僕、マコちゃんが、好きだ」
「えっと、俺も渚のこと好きだよ」
「ううん。マコちゃんが言うのとは違う意味で、好きなの」
「違う、意味?」
僕が何を言っているのか分からない、みたいな顔。困らせちゃってるってわかってる。けど僕は、自分の言葉を止められない。どうしよう、好きだ。やっぱり、僕、マコちゃんが好きだ。この気持ちを知ってほしい。マコちゃんに僕を見てほしい。
親指で、マコちゃんの唇をなぞった。柔らかくて、あたたかい。
「ほんとは、唇にしたかったんだけど」
「なぎ、さ?」
「恋人でもない僕からされたって、嫌でしょ?」
「それって、どういう……」
「だからさ、考えてみてよ。ちょっとだけでいいから、僕が、マコちゃんを好きだってこと」
マコちゃんは何も言わなかった。仕方ないよね、突然だったもの。僕は別に、答えを焦っているわけではないから、呆然とするマコちゃんを立ち上がらせて、笑いかける。
「行こっか、部活」
「う、うん」
繋いでいた手は僕から離した。マコちゃんにだってしばらくは頭の中を整理する時間が必要だろうと思ったから。アタックはまた明日から。もっともっと頑張って、いつかマコちゃんに届くまで。
背を向けた僕は気づかない。マコちゃんの頬に差した赤みと、手のひらで顔を覆ったマコちゃんの、見たことのない表情の意味に。
文野さまからリクエストしていただきました『鈍感なまこちゃんを振り向かせようとする渚と、渚のアプローチにやっと気付いて意識しちゃう真琴』です!!
にぶちんなマコちゃんって可愛いですよね!ほんとに!!
まあこのお話のマコちゃんは鈍いじゃ済まされないレベルに鈍いですけども。むしろスルースキルが師範代。
真剣な渚くんってかっこいいですよね。アニメ本編でも、渚くんは一番かっこよかったと思います。気の使い方とか、振る舞いがイケメンすぎでした。
そんなイケメン渚くんと、にぶちんまこちゃんのお話、とても楽しく書かせていただきました!
文野さま、リクエスト本当にありがとうございました!