額を伝う汗のことも、短く荒い呼吸のことも、全て忘れ去って僕は走る。あの人のもとへ。全速力で。

    僕が今走っている理由を、誰かに分かりやすく説明しろと言われたらそれは到底無理な話だ。分かり辛くということならば、まだ何とかなるかもしれない。理路整然とはしておらず、僕自身でさえ掴み難いので。無理やり言い表すならば、僕は凡庸な夜に変化を求めたわけでもなく、そうせねばならない衝動という不確かなものに突き動かされて両足を動かしているのにすぎなかったのだ。
    真琴先輩に会いたい、と。思い立ったその瞬間に僕は自室を飛び出していた。携帯だけがかろうじて上着のポケットに放り込まれていた。電車はまだ残っていたけれど、僕は迷うこともせず、秋深く、肌寒くなった夜の闇を、体力も考えずにただひたすら走り抜ける。行けない距離ではないと思った。この想いさえあれば。

    一時間も、二時間も走ったかもしれない。息を切らして、随分ペースを落とした僕は高揚した感情を持て余したまま、真琴先輩の家の前についた。二階にある真琴先輩の部屋の窓からは、薄緑色をしたカーテン越しに淡い光が漏れていた。ポケットから落ちかけていた携帯を取り出し、慣れた番号に電話をかける。呼び出し音が鳴っている間に切れた息を整える。
    三度目のコール音のあと。もしもし、という穏やかな声。

「こ、んばんは。真琴、先輩」
『怜?どうしたの、息が荒いけど』
「何でも、ありません。少しだけ、走っていて』
『そうなんだ。じゃあ今は、外?』
「はい。あなたの家の、窓の外です」
『え?!』

    勢いよくカーテンが引かれ、遮るものの無くなった光が四角い形に浮かぶ。窓が開き、顔を出した真琴先輩が眼下にいる僕の姿を見つけ、驚きに目を見開いた。僕が小さく会釈すると、つられたように真琴先輩も頭を下げて、我に返る。

『ちょ、ちょっと待ってて!』
「はい」

    通話口越しの荒い足音を聞きながら、頭の中で数を数える。できるだけゆっくりと、鼓動と同じ速度を心がけながら。僕が七つを数え終わる直前、玄関扉から飛び出してきた真琴先輩がサンダルに足を引っ掛けて、転びそうになっていた。
    笑う。声に出して、くつくつと喉を鳴らす。僕のことを奇妙なものを見る目で真琴先輩は見つめていた。半袖のシャツと黒のスウェット。とてもラフな格好だった。眠るところでしたか、と尋ねると、そうでもないよ、という曖昧な返事。

「ええと、あの」
「こんばんは、真琴先輩」
「うん、こんばんは。で、その、怜」
「その携帯、通話を切られた方が良いのでは」
「あ、そうだね。ごめん」

    手にしたまま持ってきたらしい、携帯が未だ通話中になっていることを指摘すると、真琴先輩は覚束ない指で携帯を操作し、僕が耳に当てたままでいた通話口から漸く切断音が鳴る。僕はポケットに携帯を仕舞った。帰り道で落とさないように、深く底まで押し込んだ。

    真琴先輩と向き直る。彼はおそらく、困惑している。どうして僕がここにいるのか、聞きたいような顔をしていた。ので、聞かれる前に口を開いた。

「理由は特にありません。始まりは、あなたに会いたいと思ったからですが、どうしてここまで走ったのか、なぜ電車を使わなかったのか聞かれても、答えられません」
「…………どういうことか全く分からないんだけど」
「はい。それが普通かと思われます」
「ええ……?」

    真琴先輩はひたすら疑問符を頭に浮かべている。しかし、目的は既に達せられた。先ほど目にした携帯の画面に、表示されていた時刻を思い浮かべ、僕は真琴先輩に微笑みかける。

「電車がなくなるので、帰ります」
「えっ?!帰るの?!」
「はい。明日も学校ですし」
「そうだけど、怜、本当に何しにきたんだ?」
「先輩に会いにきました」
「そうなんだろうけど!!」

    平行線な押し問答をそのあともしばらく続け、結局答えの出ないまま、僕は深々と頭を下げて、お騒がせしました、なんて告げる。納得のいかない顔をした真琴先輩はそれでも小さく頷くと、また明日、そう言って手を振った。大した未練も無く僕たちは別れた。


    最終電車に間に合うように、僕はほんの少し早歩きをする。満足していた。これを満たされたと言わずしてなんというのだろうと思っていた。高揚感はなりを潜めてしまったが、代わりに心地よい充足感が身体の隅々までゆき渡っていた。
    頭上には、白く美しい月。困惑した真琴先輩の顔を、何度も繰り返し思い浮かべる。初めて目にする表情だった。まぶたの裏に焼き付ける。

    僕は真琴先輩の、そういう顔を見るために、あの家まで走ったのかもしれない。後付けのように、そう思う。














連鳴さまからリクエストしていただきました『ふと思い立って夜の町を駆け抜けながら息も絶え絶え汗びっしょりでまこちゃんに会いに行って、いざ会ったらひとり満足してすぐ帰る怜ちゃんと納得いかないまま取り残されるまこちゃん』になりますー!
この怜ちゃん、こわい。どうしたの、大丈夫?って感じですね。そりゃまこちゃんも困るよ……。
書いている当人は楽しかったです。ぶっとんだ一人称視点を書くのは楽しい。
怜ちゃんの家からまこちゃんの家まで、どのくらいの距離か分からなかったので、とりあえず往路だけ走らせてみました。帰りは大人しく電車に乗って帰ってください。お願いだから。
妙なお話になってしまいましたが、連鳴さま、リクエストありがとうございました!!

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