沈んだ声音の挨拶と共に、部室の扉を押し開けた怜に違和感を覚え、その原因に気づく。

「怜、メガネはどうしたんだ?」
「……壊れました」

    そう言った怜があまりに苦い顔をするので、壊れた経緯が気になりつつ二の句を継げないでいると、怜の背後から顔を出した渚がはーい!と溌剌な声を上げた。渚はあどけなさの残る顔にいたずらじみた、少し面白がった表情を浮かべている。

「それについては僕から説明するよ!」
「ちょっと、渚くん!」

    渚の申し出を咎めるように怜が慌てた声を出す。それを意に介した様子もなく、口を塞ごうとする怜の手をかいくぐりながら渚が話したところによると。
    部室に至るまでの道。談笑しながらグラウンドの横を通り抜けていたらしい、二人に向かってコントロールの狂ったサッカーボールが飛んできた。ボールは渚との会話に気を取られていた怜の顔面を正確に捉え、その衝撃でメガネは跳ね飛ばされ地面へと落ちてしまった。しかし、その時壊れてしまったのかといえばそうでもなく、突然の衝撃と視界不良でパニックに陥った怜が自ら踏み潰してしまったのだと。幸いなことに怪我は無いらしいけれど、つまり、そういうことらしい。
    どうりで怜があんな顔をするはずだ、なんて真琴はひとり納得する。ひととおりの経緯を強制的に振り返らされた怜は変わらず、自分に嫌気が差しているような苦々しい顔を崩さないでいる。ボールで壊れてしまったのならまだしも、自分で踏み潰してしまったのなら確かに受け入れ難いだろう。
    大丈夫なのか?と問いかけた真琴に、怜は少しの逡巡のあと。

「ご心配には及びません。度入りのゴーグルもありますし、部活に支障はありませんので」

    そんな風に言い切った。そういうことじゃないんだけどな。意味を取り違えた怜の答えに、真琴は内心そう思いつつ、問題ないと言うのなら怜の意思を尊重すべきだろう。部長としての結論に至り、そっか、と微笑むに留まった。

「なにか困ったことがあったら遠慮なく言うんだぞ」
「はい。ありがとうございます」

    幾つかの注意を言い含めるやり取り。普段通りに開始した部活動の中で、宣言通り怜は滞りなく練習メニューをこなしていた。ゴーグルを外してプールサイドを歩く時は、怜の近くをうろつく渚が時折気を配っていたようで、口にはせずとも施される心遣いに怜も感謝しているようだった。


    空気に橙色が混ざる。江ちゃんの呼びかけで今日の練習を終えた俺たちは、それぞれ部室の定位置で湿った肌に制服をまとわせていた。いつもなら何か話しているはずの渚が慌ただしくシャツを着込んでいる。

「僕、今日用事があってお母さんが迎えにきてくれるんだよね」
「ああ、そうなんですか」
「だからマコちゃん、怜ちゃんのことよろしくね!」
「え?」
「なっ?!」

    突然話を振られたことに驚きはしたけれど、確かに今の状態の怜を一人で帰すのは心許ない。部活中は何事も無かったとはいえ、先ほどから怜はいたるところに体をぶつけたり、目当てのものが見つからず鞄をいつまでも探っていたりして、メガネが無いことに殊更不便を感じているようだったから。
    隣で着替え終わっていたハルに横目で確認すると、問題ない、と言うように瞬きを返してくれる。

「うん、そうだね。危ないし、俺が送っていくよ」
「いえそんな、わざわざ……!」
「あっ!じゃあさ、いっそゴーグルしたまま帰ったら?」
「嫌ですよ!美しくない!!」
「もー怜ちゃんってばワガママだなあ。電車の中でもゴーグルするか、マコちゃんに送ってもらうか、ふたつにひとつだよ」
「ゴーグルは嫌です。しかし、真琴先輩にご迷惑をお掛けするわけには」
「メガネのないお前を一人にして怪我でもされた方が迷惑だ」
「は、遙先輩まで……」

    言い方は少し極端ながら、表情の乏しいハルからも心配されて、怜は漸く諦めたのか申し訳なさそうに俺を見た。この程度、気に病むようなことじゃないのに。むしろ部長としての責務の一環みたいなものだ。
    迎えが来たみたい、じゃあね!携帯の画面を覗き込みながら、忙しなく退室していった渚の背を見送って、それじゃあ俺たちも帰ろうか、と声を掛けると怜が頷く。

「すみません。よろしくお願いします」
「謝らなくていいよ。それに、」

    そこまで言って口を噤む。ぐるりと視線を巡らせると、いつの間に帰ったのだろう。部室にハルの姿はない。怜以外に聞く人がいないことを確かめて、小さくはにかみ、言葉を続ける。

「怜と二人で帰れるの、久しぶりだし、嬉しい」

    遮るもののない怜の顔がさっと鮮やかに赤く染まった。いつもある硝子がなくなるとこういう風に見えるんだ。そんなことを考える。




    電車を最寄りで降りたあと、不明瞭な視界にかこつけて怜と手を繋ぎ帰路につく。人通りが少ない道を選びながら帰っているおかげで今のところ手は離さずにすんでいる。歩調を合わせ、他愛ない話を交えながら怜の横顔をじっと見つめる。結構時間が経ったけれど、やっぱりどこか違和感がある。もやもやとしたこの気持ち。

「……なんだろう」
「どうかしましたか?」
「ううん。何でもない」

    怜が不審そうに俺を見た。眉間にしわが寄っていて、目つきが剣呑になっているのは視界が覚束ないせいだろう。そうしているといつもの怜ではないみたいで、険しいようなその表情に少しだけ鼓動が早くなる。際立って目立つ容貌ではないけれど怜の顔は整っていた。普段はメガネを掛けているのも、その端正な顔立ちがあまり目立たない原因なのかもしれない。
    頭もいいし、運動もできる。その上綺麗な顔をしていることが、もしもみんなに知られるようになったら、女の子たちは放っておかないんだろうな。そう考えるともやもやした気持ちがはっきりと形になっていく。ああ、なんだ、妬きもちか。さっきから燻っていた感情の名前に思い当たる。心配しているようなことは何一つ起こっていないうちから、勝手に。
    独りよがりな感情に、自分自身へ呆れすら覚えていた俺の隣。無意識にだろうか、本来ならあるはずのメガネを押し上げようとして空を切った指先を所在なさげに彷徨わせ、怜がぼそりと呟いた。

「今後またご迷惑をお掛けする前に、コンタクトを検討すべきなのでしょうね」
「っだ、ダメ!ダメだよ、怜。コンタクトはダメだ」
「何故ですか?」
「なぜって、」

    言葉に詰まる。だって、コンタクトにしたら怜が格好いいってばれちゃうから、なんて言えるはずがなかった。もごもご口内で言い淀む俺を怜は窺い、首を傾げる。メガネが無いだけなのに、やっぱり、やっぱり、格好いい。鼓動がうるさくて落ち着かない。どうしよう。
    喉から絞り出すように、とにかくダメだから、と言い張った。怜の面立ちがどうこういう前に、コンタクトにされたりしたら俺の心臓が五分ももたない。普段の怜が格好良くないわけじゃないけれど、でも。
    完全に納得はしていないようだけれど、あんまり俺が必死だからか怜は素直に頷いてくれた。分かりました、コンタクトはやめにします。その言葉に安堵する。

「あのさ、怜」
「はい」
「……次のメガネ、大事にしなよ」
「はあ。そうですね」

    相変わらず俺の言葉の真意を取り違えたままの怜が、どことなく気の抜けた返事を口にする。その間に、とうとう俺はまともに怜の顔を見られなくなって、不自然に前だけを見つめていると、それが面白くないらしい怜はわざわざ俺を覗き込むのでいつまでも心臓は早いまま、少しも収まることがなかった。

    次の日、新しいメガネを掛けてきた怜の姿に、俺がほっとしたのは言うまでもない。


















水鳥さまからリクエストしていただきました『怜の眼鏡がちょっとしたハプニングにより使い物にならなくなって眼鏡無しで過ごすことになった怜を見てドキドキする真琴』です!
ドキドキっていうかハラハラっていうか、ちょっとしたハプニングというか一歩間違えば大惨事というか。
ちょっとまこちゃんをときめかせすぎた気もするのですが、このぐらい乙女でもよろしいかと思います!
あと、怜ちゃんは隠れイケメンなイメージです。表立たないイケメン。
水鳥さま、リクエストありがとうございました!

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