※ 暴力、血液描写あり


    切れた額から伝う血液で視界が鈍り傷が痛んだ。投げつけられたデジタル時計を拾って元の場所に戻す。薄暗く冷たい部屋の中、こちらに背を向け蹲る真琴に音もなく近づく。まるで怯える子供のように頑なで、頼りない姿。

「真琴」

    幾度目かの凛のやわらかな呼び声、真琴が軋みながら振り向いた。とても恐ろしいものを見るような目つきで凛の額に刻まれた裂傷を見つめ、息を呑み、次々に涙を零す。大粒の雫を惜しげもなく、その眦から溢れさせる。

「り、ん」
「大丈夫だ」
「っ血が、出て」
「お前が悪いわけじゃねえ」

    縋るように伸ばされた真琴の腕を引き寄せる。頼りない身体を抱きしめて、その背を何度も撫でてやる。小刻みに震える真琴の肩。伸びた爪が凛の露わになったうなじを抉り、与えられる真新しい痛みで瞬間的に背中が粟立つ。ごめんなさい、怒らないで。舌足らずに許しを請いながら、凛を傷つける真琴に微笑む。怒るはずが、あるものか。何をされても、たとえどれ程傷つけられようとも。

   真琴が壊れてしまったのは、多分、俺のせいだろう。凛はそう思っていた。長い間真琴の拠り所であった遙という存在を、自身の身勝手な確執で奪ったようなものだから。遙に置いていかれた真琴は、表面上何も変わらぬまま、自分自身でさえその変化に気づくことはなく、周囲の誰も知らない場所で緩やかに、少しずつ歪んでいった。そのことに凛が気づいた時には、もうどうしようもなくなってしまっていて、ひび割れのように微笑む真琴を受け入れることしか出来なかった。だからと言って、凛はただ的外れな罪悪感や、責任感だけで真琴に手を伸べたわけではない。そこにあった感情を、凛自身ですら多くは説明できない。
    重たく、苦しく、行き場もなく。ひとりになることを恐がる真琴に、俺が傍にいると告げた時、果たしてどんな顔をしていたのだったか。凛が覚えているのは誓って早々に、噛み切られた皮膚から昇る鉄錆の匂いばかりで、朧げな始まりについての記憶は波にさらわれた砂浜の絵のように今にも消えかかっている。それでよかった。まだ全てが壊れていない真琴のことなど忘れてしまった方がいい。これから先なにがあっても、凛は真琴から離れるつもりはないのだから、せめて真琴に遙の居た記憶を思い出させることのないように。自己犠牲とよく似た凛の慈恵で保たれる真琴の平穏な日常。その周囲に在る人々の、変わりない日々を憂いていた。

    ぐずぐずと鼻を啜らせる真琴が、それしか知らない幼子みたいに凛の名前を拙く繰り返す。凛は真琴をなだめるように、生温く静かに笑いながら真琴の背中を柔らかく叩く。痛いくせに、と真琴が言った。それは、彼のつけたいたるところの切り傷や、爪痕によるもののことだろう。

「痛くねえよ」
「うそ。うそだ。凛のうそつき」
「ああ、嘘だ」
「痛いの、凛。ご、めんなさい。謝るから、置いていか、ないで。ひとりは嫌、嫌だ。嫌だよ、凛」
「ずっと一緒にいてやるから」
「……うそ、つき。全部嘘だ。信じられるわけない、だって、痛い」

    真っ赤になった真琴の指が凛の頬に細い線を残す。痛いのは凛の方だというのに、まるで自分が傷つけられたかのように泣きじゃくる真琴の覚束なさ。
    どうしたら、伝わるのだろう。約束を違えるつもりなどありはしないこと。分からなかった。その術が思い当たらなかった。だから凛は、否定された上から再び本心を塗り重ねていく。次は割れ砕けてしまわぬように、真琴の心が美しく、なだらかなままであれるように。

「痛くてもいい。俺は、お前が」

    その先に続けるべき言葉を凛は持たない。真琴という存在が凛にとって何であるのか、凛自身にすら分からない。
    誰にも知られないところで、少しずつ、けれど確かに、壊れてゆく真琴のことを哀れだと思った。だから、凛は手を差し伸べた。多くが失われてしまった始まりの中で、凛がひとつだけ覚えている光景。凛の骨ばった手を掴んだ真琴は、手のひらに楔を打つように深く爪を食い込ませ、それでも振り払われないことにほんの少し安堵したようだった。













オリーブさまからリクエストしていただきました『病んで暴力的な真琴を優しく受け止める凛』です。
優しく受け止めるというか、一緒に病んでいるというか。共依存的な関係になってしまいましたが、いかがでしょう。
まこちゃんが病むとしたら原因は間違いなくハルちゃんでしょうし、ハルちゃんが原因になるとしたらそのさらに原因は凛ちゃんだと思います。連鎖反応ですね。
書いててとても楽しかったです!
オリーブさま、リクエストありがとうございました!

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