「部屋で大人しく寝てるんだぞ」
「薬もちゃんと飲みなさいね」
「大丈夫だよ。いってらっしゃい」
気遣わしげな顔をした両親と双子の弟妹を玄関で見送り、ふらつく足取りで自室へと戻る。普段より一枚掛け布団の多いベッドへと半ば倒れるようにして寝転がる。気怠い腕で布団を引き寄せ、体にぐるぐる巻きつける。額には汗が滲んでいるのにすごく寒くてどうしようもなかった。咳も出るし、鼻水も止まらない。こんなに本格的な風邪を引くのは久し振りで、タオルに覆われた氷枕のじんわりとした冷たさが気持ちいい。
出かける直前まで家に残していく俺のことを心配していた両親は、どうしても行かなければならない用事があるからと、蓮と蘭の二人を連れて親戚の家に向かっている。今夜には帰ってくるらしいのだが、それまでこの家には俺一人だ。とはいえ、いくら風邪を引いていると言っても、高校二年生にもなるのだから心配しなくても大丈夫だと両親を送り出しはしたけれど。
けほけほと乾いた咳がひっきりなしに口をついた。その度に荒れた喉は痛むし、全身至る所の関節が軋んで鈍痛をはしらせる。鼻は詰まって息苦しく、引きつった呼吸音が耳の中に響く。目を閉じてもすぐに咳が出て、眠るのすら覚束ない。なんとなく寂しいような、心細いような気がするのも風邪を引いているせいだろうか。
朦朧とした意識の中で玄関チャイムの音を聞く。次いで、ドアの開く音。先ほど出て行った両親が忘れ物でも取りに帰ってきたのだろうか。そう思ってぼんやりと自室の扉を眺めていると、不意に扉が開かれて予想外の人物が顔を出した。
「無事か、真琴」
「ハ、ル……?なんで」
「お前の両親に頼まれた。真琴が風邪だから、様子を見てやってくれと」
そう言ったハルが手にしていたのは、確かに父がいつも持っているキーホルダー付きの家の鍵だった。驚く俺を気にもせず、すたすたと部屋に踏み込んできたハルが、手にしていたビニール袋からよく冷えたスポーツドリンクを取り出して枕元に置いてくれる。傍らに膝をついたハルの、温度の低い手のひらが俺の額にそっと当てられた。
「……あつい。熱、測ったのか」
「朝は……っ七度六分くらいだった、けど」
「もう一度測っておけ」
手渡された体温計を脇の下に挟み少し待つ。電子音。小さな画面に表示された数字を見て、ハルが思い切り眉を顰めた。三十八度七分。今朝よりずいぶん上がっている。どうりで辛いはずだ、なんて呑気に思える割に、一度熱を自覚すると指先ひとつさえ動かすのも億劫になる。心なしか測る前より辛さが増したような気さえした。
薬は飲んだのか、と聞かれて、まだだったので首を振る。ほんの少し頭を揺らすだけで酷い頭痛が襲ってきて、思わず顔をしかめるとハルがおもむろに立ち上がった。
「台所借りるぞ」
こちらが返事をする前に、持参したビニール袋を持ってハルは台所のある階下へと消えた。呆然とその背中を見送ってから、ハルが置いていってくれたスポーツドリンクに手を伸ばす。薄く結露したペットボトルは熱をもった肌に心地よく、中身を飲むより先に頬や首筋へとくっつけて冷やす。
先ほどまで感じていた心細さが無くなっていた。ハルが来てくれたからだろう。今なら穏やかに眠れる気がして、まぶたを下ろすと案の定、すぐに睡魔が襲ってくる。眠りの淵に沈んでいく。
目が覚めたのは、肩を叩かれる振動と鼻腔に届いた美味しそうな匂いを認識した時だった。緩やかに意識が浮上する。重たいまぶたを持ち上げると、小さな器を手にしたハルが俺のことを覗き込んでいる。深めのお皿から立ち上る薄白い湯気。いい匂いの元はそれらしかった。
「……おかゆ?」
「何か食べないと薬が飲めない」
「ハルが作った、の?」
「おばさんに許可はとってある」
寝そべる俺の背に腕を差し込んで、静かに上体を起こされた。不安定にふらつく上半身をハルの腕が支えてくれる。器を受け取ろうと手を伸ばすが、ハルはわざとらしくその手を無視してベッドサイドに椅子を引いてきた。樹脂製のレンゲでおかゆを一口分すくい、ふうふうと息を吹きかけた。そうして、程よく冷めたおかゆを、当然のごとく俺の口元へと差し出す。
「食べろ」
「い、いいよ。自分で食べられるって」
「いいから、口を開けろ」
拒否権の用意されていない、有無をも言わせぬ口調に気圧されて恐る恐る口を開けると、食べやすい分だけすくわれたおかゆが丁寧に舌へと落とされる。鼻づまりで味はよく分からないけれど、薄目の塩味に、お米ではない柔らかい食感。これは、もしや。
「……サバ?」
独り言のように問いかけると、ハルがこくんと頷いた。家の冷蔵庫にサバは入っていなかったはずだから、多分わざわざ持ってきたのだろう。サバ入りおかゆはとても美味しくて、お礼の言葉と共にそう伝えるとハルの顔が輝いた。
一口食べさせて満足したらしい、ハルから器を受け取って冷ましながらゆっくりとサバ入りおかゆを食べ切った。空になった器を台所で手早く濯ぎ、戻ってきたハルからグラスに注がれた冷たい水と個包装の錠剤を手渡された。白いそれを噛まずに含む。胃袋まで一気に流し込む。
食事して、薬も飲んだ。あとは大人しく寝ていればそのうち熱も下がることだろう。薬と一緒に持ってきてくれた新しい氷枕に頭を乗せて分厚い布団を肩までかぶる。咳もだいぶ落ち着いて、相変わらず鼻は詰まっているがそこまで息苦しくはなかった。
置きっ放しだった椅子に腰掛けたハルは、時折汗を拭いてくれたり、氷枕が溶け切っていないか確かめてくれたりする。じっとその場に留まって甲斐甲斐しく世話を焼いてくれるハルに、窺うような声をかけた。
「あの、ハル」
「なんだ」
「退屈だろ?お風呂場、使っていいよ」
「…………」
「ここにいたらうつしちゃうかもしれないし」
「…………」
「ひとりでも大丈夫、だから」
「…………」
「ハ、「真琴」
唇にあたたかな感触。ハルの色が視界いっぱいに広がって、数秒のあと離れていく。やわらかく微笑んだハルの指先が、額に汗ではり付いた前髪をそっとこめかみに払った。まぶたを手のひらで覆われる。
「寝ろ。ここにいるから」
「…………うん」
明るい暗闇で目を閉じた。布団の下から手を出すと、すぐさまハルの冷たい手が火照った指と絡められる。その温度にひどく安心して、無意識に呼吸が深くなる。急速に霞がかっていく意識。
次に目を覚ましたとき。ハルが傍にいてくれたならどんなに嬉しいことだろう。眠りに落ちる俺を追いかけるように、ハルのおやすみという囁きが聞こえた。穏やかで優しい声だった。
真音さまからリクエストしていただきました『まこちゃんを看病するお話』です。
遙真or怜真とのことでしたので、遙真にしてみました!ハルちゃんのぶっきらぼうな優しさは看病向きかなと。
ご両親から看病を任せられるなんて、幼馴染の役得ですねー。流石ハルちゃん。
風邪ネタはまだ書いてなかったので、王道な感じにしてみましたがいかがだったでしょうか?楽しんでいただければ幸いです。
真音さま、リクエストありがとうございました!