「じゃあ、マコちゃんは好きな人いるの?」

    そう聞かれて、咄嗟に言葉を返せなかったのは、まずかったなと思う。好奇心を顔いっぱいに表して、俺が想いを寄せる人のことを聞き出そうとする、渚と江ちゃんの姿が夕陽の差し込む部室から消えた今も。

    部誌にペンを滑らせるささやかな音だけが空間を満たしている。部活中に気付いたことや、活動報告を手短にまとめ、記入者欄に名前を書く。あとはこれを職員室に居るであろう、天方先生に提出してしまえば今日の活動は終わりだった。ふう、と長めにため息をつき、丸めていた背を伸ばすように大きく頭上に両腕を掲げる。
    その時、扉の開く音がして、首を動かすと入り口にはしばらく前に帰ったはずの怜がぽつんと立っていた。

「あれ、どうしたの。忘れ物?」
「ええ、まあ」
「そっか。もう閉めるから、ちょうどよかったね」

    俺、ちょっと部誌出してくるから。そう言ってひらひら手を振ると、怜は律儀に頷いてみせる。わかりました、という声を背に、俺は書き終えた部誌を携えて職員室へと向かった。校舎に続く道すがら、空気に混ざる水の匂いに、雨が降りそうだ、なんて思う。



    何やら難しい顔をしてプリントを作っていた天方先生と十五分かそこら話し込み、部室に戻るとそこには、年季の入った長椅子に腰掛け難しそうな本を読む怜の姿。忘れ物を取りにきただけなら、もう帰っているだろうと思ったのだけれど。
    塩素の匂いが染み付いた部屋に足を踏み入れる。怜の視線が、手に持った本から俺の方へと移される。

「ああ、お帰りなさい」
「忘れ物は?」
「この本です。明日までに、理論を完璧にしておきたくて」
「もしかして、俺のこと待ってた?」
「どうせなら帰り道をご一緒させていただこうかと」

    迷惑でしたか、と尋ねられて、そんなことないよと首を振る。「よかった」怜の顔が分かりやすく緩む。口元に軽い笑みをのぼらせたその表情に心臓が一度だけ鼓動を跳ねさせる。小さく、細く、息を吐く。

    俺と怜が外に出ると、水滴の細かい静かな雨がしとやかに降り注いでいた。灰色の雲は空の端まで隙間なく続いていて、近いうちには止みそうになかった。
    今朝の天気予報では、雨が降るなんて一言も言っていなかったのに。空を見上げて眉を顰める俺の隣で怜が鞄から黒い折り畳み傘を取り出す。

「準備がいいね」
「傘、持っていないんですか」
「うん、忘れちゃって」
「……少し狭いですが、入ってください」
「いいの?」
「流石に肩は濡れてしまうと思いますが……」

    入れてもらうのはこちらなのに、申し訳なさそうにすみませんと呟く怜に十分だよ、と微笑みかける。怜の開いた傘は折り畳みにしては大きくて、思ったより濡れないで済みそうだった。傍らに空いたスペースに体を滑り込ませる。何故か頬に朱を差した、怜の手からさりげなく傘を受け取る。

「俺が持つよ」
「しかし、……いえ、お願いします」

    怜は何か言いかけて、結局素直に頭を下げた。釈然としない、とでも言いたげなその顔を見て、思わず喉を鳴らして笑ってしまった。高校に入る前あたりから、俺の背がどんどん伸びてハルよりもずいぶん高くなってしまったとき、ハルも今の怜と同じように、どことなく不満そうな顔をしていたのを思い出したのだった。
    どういう結論に至ったのかは分からないけれど、気を取り直したらしい怜とぽつぽつ言葉を交わしながら雨の中、帰路につく。歩調を合わせて歩くたび、ぴんと張った傘の縁から次々水滴が伝い落ちて、その幾つかは俺たちの肩を濡らす。
    ふと、会話が途切れてしまった。沈黙は不快ではなかったけれど、なにか、感情に耐えかねたように怜があの、と口を開いた。

「蒸し返すようで申し訳ないのですが」
「……聞かれたくない、って言ったら?」
「っ、」
「あはは、嘘だよ。俺の好きな人、だろ」
「……はい。正直、意外で」

    怜の中で俺はどんな存在なのか、俺には知る術がない。だから、怜の言った意外という言葉に特別反論もせず、ただ黙って前を見つめていた。舌の先が痺れるような、焦燥に似た燻りが背中を撫でていく。これから怜が、雨に任せて、何を言うのかも分からないのに。
    前触れなく、怜が立ち止まったので、俺も同じように足を止めた。人気のないバス停の、屋根の下にあるベンチを指差して、ちょっと話していきませんか。落ち着いた声で怜はそう言った。単なる雑談ですから、と、予防線を張るような言葉まで、付け加えて。

「真琴先輩は、恋愛沙汰とは無縁だと思っていました」
「へえ、なんで?」
「なんで、と言われましても……。その、そういう雰囲気が無い、というか」

    古びたベンチに二人並んで腰掛け、一息ついたあと。自分から言い出したくせに歯切れ悪く怜が俯いた。そういう雰囲気。ひとが、恋をする雰囲気を怜は知っているのだろうか。知らなければ、あんな言葉は出てこないだろう。
    所在無く指先をもてあそびながら、雨音に紛れてしまいそうな怜の声に耳を傾ける。喉がとても乾いている。空気はこんなに湿っているのに。
    先輩後輩の他愛ない雑談というにはどこか緊張感のある会話から、逃げ出したくて、でもそうはしなかった。ここまで差してきた折り畳み傘は、今、怜の手元にある。雨足がさっきより強くなっている。

「僕の知っている人ですか」
「…………」
「やっぱり、教えてはもらえませんか」
「……怜は、どうして、知りたいの。渚やコウちゃんみたいに、ただの好奇心?」
「そ、れは」
「……じゃあ、交換条件にしようか」

    出来るだけからかっている風に聞こえる声で言ったつもりだったけれど、俺の言葉に怜は驚いて瞬きをした。ほんの僅か怯えたように体をそらして遠ざかった。狭いベンチの上ではほとんど意味がない。
    もう少し。あと一歩。これまで触れることのなかった場所へと近づくみたいに、俺は続けた。

「俺だけ教えるんじゃ不公平だろ」
「僕の好きな人を教えろということですか」
「もしかして、いない?」
「…………いいえ」

    もう一度はっきりと、怜は「いいえ」と口にした。やっぱりね、と笑い出しそうになる。いるよね、だって、そうじゃないと、ひとが恋をする雰囲気なんて、知りようもないだろうから。雨に濡れたせいだけでなく、指先がひどく冷たくなる。聞きたい、でも、聞きたくない。相反する感情が胸を容赦無く詰まらせる。知ってしまえば、もう。
    俺が、初めて自分の恋を自覚した時。その感情に名前をつけるのが何より恐ろしいように思えた。それはあまりにも曖昧で、不安定で。触れたら壊れてしまいそうな、繊細さで形造られていた。危ういバランスで保たれていた。もし、崩れてしまった時、どうなってしまうのか予想もつかない。きっと元には戻らないだろうと、それだけは確かに、分かるのに。

「僕の、」
「……っ、怜」
「僕の、好きな、ひとは」

    聞きたい。聞きたくない。言いたい。言いたくない。知ってしまったら戻れなくなる。ただの先輩と後輩に、もう二度と。
    強く、目を閉じた瞬間、怜の消えいるような声が俺の鼓膜を、叩いた。












七愛さまからリクエストいただいた『先輩後輩の関係から抜け出したくてモヤモヤしてる怜真』です。い、いかがだったでしょうか……!!
怜ちゃんもまこちゃんも関係性を打開したいと思っているので、いざそういう話題になってもお互いに話を逸らしたりせず、どこまで踏み込むべきか距離を測りかねている、というような雰囲気を感じ取って頂けていれば嬉しいです。
まあ、最後、踏み込みそうですけども。でも結局怜ちゃんが「……秘密です」なんて怖気づくパターンもありますので。どちらに至るのかは、ご想像にお任せします。
ところで岩鳶に部誌とかあるのか、というご質問は胸に仕舞っておいてください。
それでは、七愛さま!リクエスト本当にありがとうございました!

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