美しい。余白に書き留めた数式を見つめてため息をつく。手元にある問題集の中でも、僕が一番美しいと思う数式がそこに記されている。
数式には美しいものと、そうでないものがある。さながらオイラーのように、必要なプロセスを必要なだけあてはめ、完成する過不足ない数式。導き出される端的で緻密な解。
中学生時代の担任教師。彼は数学を主としていた。中学生相手に、まだ算数と区別のつけ難い数学じみたものを教えながら、その中でも黒板に幾つかの数式を書きつけ生徒に解かせるのを好む人だった。
ある日僕はあてられて、幸い問題なく答えも分かったのでその思考過程と共に、黒板に白いチョークで数字と記号の組み合わせを綴った。当時の僕は、数学に勉強以外のなにかを。例えば現在のように、美しさを求めるようなことはなかった。習った通りに公式を使い、教科書通りに解を導いた。
そんな僕の答えに対して、あの教師はともすれば、教室にいる誰よりも無邪気で子供らしい顔をして、僕の数式を書き換えた。必要なプロセスを必要なだけ。過不足なく。そういう美しい数式に。
彼はその数式を見て、満足げに頷き
「ああ、これで美しくなった」
と身勝手に一人、つぶやいたのだった。
それなりに苦労して考えたものを、伺いなく書き換えられてしまった僕は、けれどそんなことはどうでもよくなるほど黒板の数式を見つめていた。まるで魔法のようだと思った。そこには真の意味で必要なものしか存在しない。僕の書いたものにはあった、本質を遮る余分なものがすべて取り払われて、清々しくさえ感じる数式。
その日数式の美しさを目にしてから、僕は教科の中でも特に数学を愛するようになった。
余談だが、書き換えられた数式に用いられていた公式は中学時点で教科書のどこにも記されておらず、高校三年になって漸く大学受験の為の知識として参考書に登場した。つまり僕は、あの教師の紛れもない自己満足によって価値観を変えられてしまったのだった。
そんな話を、受験勉強に付き合ってくれている真琴先輩への雑談として口にした。真琴先輩は彼の為に用意したマグカップから、温かいココアを少しずつ飲みながら僕の話に黙って耳を傾けていた。
数学の問題集に目を落としていた僕の、舌が動きを止めたのを見計らって、真琴先輩がマグカップを机に置いた。
「怜は数学に魅せられたんだね」
「真琴先輩もそうではないのですか。でなければ、わざわざ数学科に進学したりしないでしょう」
「どうだろう。少なくとも、怜ほど強い思いがあって数学科を選んだわけじゃないから」
「そういうものでしょうか」
「数学は、好きだけどね」
ここ、間違ってるよ。人差し指で指し示された解は確かに美しくなかった。すぐに修正し、どうですか、と問いかけると真琴先輩は微笑んだ。
「うん。綺麗だ」
その笑顔に心を奪われる。ああ、やはりこの人には僕と同じものが見えているのだと確信する。美しい数式。整然と連なる数列。僕は真琴先輩の見るものと同じものを見ていたいが為に、彼の在学する大学の、数学科受験を決めていた。
世界を共有したかった。この世の何よりも美しい、数列と幾つかの記号によってもたらされる整然とした世界を。
「僕は必ず合格します」
「それは宣言?」
「いいえ。宣誓です」
「……きっと大丈夫だよ。怜ならちゃんと、一番綺麗な数式とその解を導くことができるから」
「そう思いますか。……僕の数式が、美しいと、真琴先輩は」
緊張にすくむ舌を必死に動かし、問いかけた。翠色の両目を真っ直ぐに見つめる。真琴先輩から与えられる、嘘の含まれない、透明なガラスのような視線。
「少なくとも、俺は怜と、同じものを見ていると思ってる。……どうかな」
「……ええ、十分です」
示された、端的な解。僕はその美しい数式を、最も深い場所に刻みつける。
いつか僕は真琴先輩に、生涯を込めた美しい数式を捧げることができるだろうか。