凛?という呼びかけに返ってきたのはかすかな息づかい。倒れこむようにベッドに寝転がり、顔だけを横に逸らしてうつ伏せになった凛が静かに、寝息をたてていた。
    持ってきた飲み物とお茶菓子をひとまずお盆ごとテーブルに。ベッドの隣に膝をつき、揺らさないように腕を置く。そっと、凛の顔を覗き込む。

「……疲れてたのかな」

    鮫柄学園は水泳の強豪校だ。俺の所属する岩鳶水泳部よりも、きつい練習に毎日追われているのだろう。凛は誰よりも努力家だし、部活での練習以外に自主練習もしているかもしれない。
    今日は久々に部活が休みだからと凛がメールをくれた時、それはそれは嬉しかった。とるものもとりあえず、じゃあ会える?というだけの簡潔なメールに、もっと簡潔なああ、という返事が1分待たず携帯に届いた。あの時は、深く考えずにただ嬉しいだけだったけれど。
    今、こうして凛の寝顔を見ていると、今日は会わずにゆっくり休ませてあげた方がよかったのかもしれないなんて思う。ただでさえ、凛の住む寮から決して近くはない俺の家まで来てもらっているのだ。寮では落ち着けないからと、俺の家に来ると言ったのは凛だけれど、でも。

「ごめんね、凛」

    申し訳なさで胸が一杯になる。凛の目元に掛かった前髪を、そっと指先で払ってやる。いつもある眉間のしわがない。凛の寝顔はとても安らかで、気持ち良さそうに眠っていた。
    しばらく寝かせておいてあげよう。そう思って、足元に畳んでいたタオルケットを凛に被せた。どうして起こさなかったのだとあとで怒られるかもしれないが、疲れた凛を無理やり起こすのはどうしても嫌だった。
    代わりと言ってはなんだけども、普段は滅多に見るのことできない凛の寝顔を観察する。深みのある綺麗な赤い髪。同じ色をした両の瞳は閉じた瞼に隠されてしまっている。見たいな、目。睫毛、長い。肌白い。
    岩鳶高校とは違ってプールが屋内にあるせいだろうか。凛の肌はあまり焼けていなかった。ずっと昔、スイミングスクールで見ていたのと同じ色をしている気がした。
    わずかな時間逡巡して、俺はその顔に手を伸ばす。呼吸と共に上下する頬にそっと触れて、慎重に凛の肌をなぞる。起きる様子は全くなくて、ちょっとだけ調子に乗っていたら凛がぴくりと身じろぎをした。驚いて、手を引っ込める。恐る恐る様子を見たが、どうやら起きてはいないみたいだ。
    寝返りをうってあらわになる、凛のあどけない寝顔。

「……かわいい」

    思わずそう呟いてしまう。いつもこうだったらいいのに、とは心の中だけにしておいた。ちいさなこどものような顔。不機嫌そうな仏頂面や、たまに意地悪な笑顔を浮かべる普段の凛とは大違いだ。
    ふわふわとした気分につられてぷにぷに凛の頬を押す。その手が、俺のものではない手に音を立てて掴まれる。

「なに、笑ってんだ」
「り、ん」

    見たかった目が間近にある。凛の手のひらが後頭部を掴み、俺の顔を引き寄せて、次の瞬間。

「いっ……!!」

    がぶり、と鼻を思い切り噛まれた。鋭く尖った凛の歯がしっかりと皮膚に食い込んでいる。俺の反応を楽しむみたいに凛はあむあむと何度も力を加えてきて、あまりの痛みに涙があふれる。

「バカ、凛、痛いってぇ!!」
「ふるへーよ。はまっへろ」
「なんて言ってるか分かんないよ!」

    力任せに暴れ続けて、ようやく凛の口が鼻から剥がれた。また噛まれたりしないように、両手で鼻先を覆ってから凛のことを睨みつける。俺の怒りなどどこ吹く風で、凛はふん、と鼻を鳴らすと反動をつけて上体を起こした。へたり込む俺を上から見下ろす形になる。

「誰が可愛いだ」
「き、聞こえてた、の?」
「ずっと起きてたからな」

    寝たふりなんてずるい、と言おうとしたけれど、凛はひどく不機嫌そうで言葉は喉の奥に引っ込んでしまう。がしがしと乱暴に前髪をかき混ぜて、舌打ちをした凛が自分の隣を二、三度叩いた。ここに来い、と言っているらしい。促されるままベッドの上に腰掛ける。凛の隣に寄り添うと、肩を掴まれて柔らかな布団に二人まとめて倒れこんだ。
    久しぶりの触れ合いに心臓の鼓動が跳ね上がる。すぐそばにある凛の額と、俺の額が合わせられて、赤い前髪がこめかみをくすぐる。

「歯型ついてんぞ」
「……凛のせいだろ」
「お前が悪い」
「だって。……凛の顔が、可愛かった、から」
「それだけじゃねえ」

    どういうこと、と尋ねる前に幾つもくちづけがおとされる。俺のこぼした涙のあとを薄い唇が辿っていった。さっきより機嫌は良くなったみたいで、眉間のしわがなんとなく浅い。凛の歯が俺の耳たぶを食んだ。また噛まれる、そう思って竦んだ身体を宥めるように、凛が囁く。

「もう、いい。喰わせろ」
「……お茶菓子ならテーブルの上だよ」
「俺の目の前にもあんだろうが」

    人のことをお茶菓子扱いした凛は、喰わせろという言葉の通り、いたるところを甘噛みしてくる。すぐさま消えてしまう程度に、やさしく、緩やかに皮膚を食まれる。痛くないからいいけれど、くすぐったくて、面映い。
    凛の手が裾から侵入してくる。腕を伸ばして首元にからめると、噛み付くみたいなキスが降ってきた。ああ、もう。仕方ないな。

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