人目を避けるようにキスをする遙先輩と真琴先輩の姿を目にした時、僕はただ、ああそうなのか。そうだったのか、と霧を晴らすように納得した。すべての疑問に答えを揃えられたかのようだった。心の裡にあったわだかまりや、棘のような違和感が細かい砂となって崩れていく。
美しく、触れがたい光景。静かに唇を合わせるそれが、ひどく神聖な行為に見えた。液晶画面や道端の生々しい重苦しさとは違い、息をするのも躊躇われるような。
僕の目は瞬きすら忘れてじっと二人を見つめていた。二人がどちらともなく離れ、顔を間近に笑いあうまで見届けてから、音も無くその場を走り去った。走りながら瞼を閉じるとすぐにあの光景が浮かんできて、焦げ付くような感情が僕の胸を不躾に苛む。手のひらで胸元を掻きむしるように掴み、夕暮れで橙色に染まった駅までの道を止まらずに駆けた。
ーーーーーその日から、数日。
忘れ物を取りに戻った誰もいないはずの部室。その鉄製の扉を開くと、部屋の片隅にうずくまっていた気配が弾かれるように僕を見た。差し込む光を避け、身体を小さく縮こまらせて膝を抱えた真琴先輩が泣きはらした顔でそこにいた。
僕は黙って先輩の横を通り過ぎ、棚の上に置き忘れていたメガネケースを手にとる。無造作にカバンへと押し込む。物音に振り向くと、まるで僕から逃れるように真琴先輩が立ち上がっていた。その肩に手を伸ばし、思い切り壁に押し付ける。
「っ!?怜、んっ……ぅ!」
無理矢理奪った唇は予想よりずっと柔らかく、思っていたよりも冷たかった。かすかな汗の匂いに混ざって塩辛い涙の味がした。頑なに閉ざされた歯列を割り、無遠慮に舌を差し込むと翠色をした真琴先輩の両目が驚きに見開かれる。舌先を襲う鋭い痛み。
「っ!……噛むなんて酷いですね」
「なんで、こんな……!」
手の甲で濡れた唇を拭う真琴先輩の表情は、いつもの穏やかさとは縁遠い驚愕と困惑に満たされていた。状況と感情を処理しきれず、混乱にとらわれた顔をしていた。口内に広がる鉄錆の味を感じながら、壁にぴたりと背をつけて怯える真琴先輩に問いかけた。
「そんな風に泣かされても、遙先輩が好きですか」
「え……?」
「どうして僕ではダメなんですか」
口をついて出たその言葉。遙先輩と真琴先輩がキスをする、あの光景を目撃してからずっと僕の頭を離れなかったことだった。
恋が美しいものだなんて一体誰が決めたのだろう。美しい恋などこの世にはほんの一握りしか存在しない。その一握からこぼれ落ちてしまった恋は自分のうちにありながら、直視し難いほど歪んでいたり、不必要に重さを増していくばかりでなにひとつもたらしてくれはしないのだ。
初恋だった。真琴先輩に抱いた感情は僕の世界をことごとくに塗り替えてしまった。まだ自分の恋心が美しいものだと信じていた頃、僕はあの光景を見て、そうして自分のうちに巣食った恋と呼ばれていたものが酷く歪んでいることに気づいた。いびつな種子からは花も何も咲くことがない。咲きもせず、散りもせずに重さばかりを増していく。
屋根を叩く細かい音がする。雨が降ってきたらしかった。壁際にいる真琴先輩が困ったような顔をして僕を見ていた。その目元はまだ少し赤く、腫れたまぶたを瞬かせている。
「あの、怜」
「何も言わないでください」
早口に言葉を遮って、僕はほんの僅かだけ口端を持ち上げた。それが限界だった。自分の頬を幾筋も涙が伝い落ちていくのを感じた。これで最後にしなければならない。恐ろしいが、仕方なかった。
「最初から全部分かっていました。真琴先輩と遙先輩の間に、僕が入り込む隙間なんて少しもない。真琴先輩はいつも遙先輩しか見ていなかった。遙先輩の一挙一動にあなたは笑って、泣いて、怒って、喜んで」
深く息を吸い込んで血の気の失せた頬に手を伸ばした。真琴先輩は拒まなかった。ここで拒まないのは優しさではないのだと教えたかったが喉につかえて叶わなかった。このあたたかさはきっと、生涯忘れることが出来ないのだろうと思って。
「……僕が好きになったのは、遙先輩に恋をする真琴先輩なんだ」
決別するようにそう告げた。僕の初恋を真琴先輩に差し上げます。どうか、お幸せに。独り言のように言い置いて真琴先輩に背を向けた。未練と諦めが混在してやりきれない想いだけが最後に残った。
それでも僕はこの結末を決して嫌いになることはない。ただ終わってしまったことと、重苦しく歪なだけだった恋と呼ばれていたものが、自分の裡から失われてしまったことをどうしようもなく寂しいと思う。
僕は後ろ手に扉を閉めて、夕立の中を足早に歩いて、誰も居ない駅のベンチに腰掛けてまた少しだけ泣いた。