僕は、真琴先輩にわがままを言ってもらった事がない。クラスの女子が楽しげに話しているのを盗み聞くところによると、恋人相手にわがままを言うのは甘えの表れであり、信頼の証なのだとか。補足として付け加えるならば、僕と真琴先輩は少し前から恋人同士である。重ねて言うが、僕は真琴先輩にわがままを言ってもらった事がない。
わがままを言われたい。その結論に至るのに、わずかも時間は必要なかった。ただ、それには大きな問題がある。真琴先輩の人となりだ。
真琴先輩には年の離れた弟妹がいて、幼い頃から世話をしてきた真琴先輩には他人のことを気遣う反射のようなものが備わっている。得てしてそういう人とはわがままを言って甘えることに慣れていないものなのだ。と、以前読んだ『長男の生態』という書籍に記してあった。
さて、それではどうすべきか。悩み、考え、最終的に僕が至った結論は。
「僕にわがままを言っていただけませんか」
「え?わ、わがまま?」
直接、真琴先輩にお願いすることだった。
困惑した表情を浮かべる真琴先輩に詰め寄って、その両目をじっと覗き込む。そうです、わがままです。何でもいいので僕にわがままを言ってください。じりじりと距離を縮めていくと、未だ理解が追いついていないらしい真琴先輩がじりじりと後ずさる。
「突然どうしたの?」
「先輩に甘えていただきたいんです」
「甘えるって言ったって……」
案の定、真琴先輩はどうしたらいいのか分からないようだった。書籍通り、ここまでは予測通りだ。問題ない。こうなった場合の対策もすでに立ててある。僕はメガネを押し上げて、多少わざとらしく沈痛な表情を形作った。
「真琴先輩……僕は、そんなに頼りないでしょうか」
う、と小さな声を漏らして、真琴先輩がうろたえた。長男という生物は落ち込んだ人を放っておくことができない。これも長男の生態に書いてあったことだ。
ちらりと上目で表情を窺うと、作戦通り真琴先輩はだいぶ絆された顔をしていた。どうにか僕を励ましたいとその顔に書いてある。なんて優しい人だろう。流石、真琴先輩は心根まで美しい。ここまでくればあと一押しだと、僕は真琴先輩の両手を包み、真剣な声で囁きかけた。
「どんな小さなことでもいいんです。僕に甘えてください。お願いだ」
「怜……」
かたちの整った眦をわずかに下げて、考え込むような様子のあと、真琴先輩が溜息をついた。頬がほんのり赤くなっていた。小さいかは分からないけど。躊躇いながら先輩は言った。
「……抱きしめてほしい。今、すぐに」
小さいですよ!と叫ぶ前に、僕は思い切り目の前の真琴先輩を抱きしめた。おずおずと背中に腕が回される、その仕草が愛おしかった。痛くない程度に力を込めて腕の中の感触を確かめる。僕の襟元に鼻先を埋めた真琴先輩が頬をすり寄せる。
多分これは僕の望んでいたわがままのうちには入らないのだろう。こんなこと、頼まれなくたって僕からさせて頂きたいぐらいだ。けれど、これが人に甘え慣れていない真琴先輩の精一杯だと言うのなら。
きちんとしたわがままはまた今度言ってもらおうか。そんな風に考えていた僕の耳元で真琴先輩が呟く。
「あと、……チョコレート、食べたい」
「っ!すぐに買ってきます。ただ、」
あともう暫くの間、あなたを抱きしめたあとになりますが。
僕の言葉に先輩が首を振った。一緒に買いに行きたい、という小さな声が僕の耳に届いた。