代わりにしてもいいですよ、と怜が言った。僕を遙先輩だと思って、好きなように利用してください。それでもいいから、僕のことを見なくてもいいから、僕を傍に置いてください。
祈るような懇願に頷いたその日から、怜はいつも俺の隣に佇んでいる。
ハルの手の温度を俺は知らない。でも多分、今繋いでいるこの手のように冷たくて心地いいはずだ。夕暮れの中を怜と並んで歩きながら、俺はプールサイドに残したハルについて思いを巡らせる。あんまり遅くなっちゃダメだよ、と声はかけておいたけれど、ハルのことだからきっと俺のいうことなんてわずかも聞いてくれないのだろう。
隣に居る怜は別段なにかを話すこともなく、足音さえ静かに付かず離れずのところを歩く。俺がそうしてくれと頼んだからだ。ハルがいつもそうしているから。話しかけるのは俺の方から。ハルは海に目をやって時折返事をかえすだけ。
怜が通学に使う駅とは反対方向に進んでいる。これは別に頼んだわけじゃない。俺を家の近くまで送ると言って聞かなかったのは怜の方だ。
僕は遙先輩の代わりですから。怜はいつも俺がハルと別れる場所までどうしてもと言ってついてきた。分かれ道に差し掛かると繋いでいた手を名残惜しそうに離し、また明日、と言って背を向ける。いつものこと。
「水泳部にはもう慣れた?」
「はい、それなりに」
「そっか。怜もはやく、ハルみたいに水が好きになるといいね」
「そうですね。遙先輩のように」
そうしたら先輩も嬉しいでしょう。口には出さなかったけれど、怜の目がそう聞いている。俺はただ曖昧な笑みを返して怜の顔から視線を背ける。ハルに似ていないその表情をこれ以上見ていたくなくて。
「……すみません」
「謝るなよ。怒ってないから」
「でも本当に、僕は遙先輩のようになりたくて」
「そんなことまで頼んでない」
「……言い過ぎました。もう、やめます」
それきり怜は口を噤んだ。俺も自分から話しかけるようなことはしなかった。人通りの少ない海岸沿いの道は、それだけでとても静かになる。かすかに聞こえる波のさざめきだけがそこにある音のすべてだった。
ハルなら、きっと。俺の方なんて見向きもしないで、恋しそうに海を見つめているはずで。少し期待して怜をみると、彼は唇を噛み締めて地面に視線を落としている。それだけで裏切られたような気分になるのがとても、いやで。
怜は本当にこうなることを望んだのか。俺は本当に怜のことをハルの代わりとしか見ていないのに、隣にいて苦しくはないのか。だって怜は間違いなく俺のことが好きだった。時折視線に含まれる熱は、俺がハルに向けるものと全く同じだからわかる。
聞いたら、怜は答えるのだろう。僕が望んだことですから、とこともなさそうに言うのだろう。
それでいいの、本当に?そうさせているのは俺なのに、ひどく自分勝手な思考が頭にこびりついて離れない。
結局何も聞けないまま、黙って歩き続けるうちに分かれ道へと差し掛かった。俺とハルが一緒に帰る時、決まって別れる場所だった。怜が手を離し、俺を見た。さようなら、また明日。いつものようにそう言った。
「うん、さよなら。明日は屋上でご飯食べよう」
「分かりました。迎えに行きます」
頷いて怜が背を向ける。徐々に遠ざかって行く背中が見えなくなるまでその場で見送る。
本当はちゃんとわかっているのだ。怜はハルの代わりになれない。どうしたって怜はハルじゃない。
それでも俺が、怜の手を振りほどくことができないのは、瞼の裏に焼き付いた祈るような怜の懇願を忘れることができないからだった。