例えば俺が明日消えたとして、ハルは多分いつも通りに日々を過ごすことができるのだろう。俺の一方的な思い込みでなければ俺とハルは友人関係だったはずなので、渚や怜、もしかしたら凛と一緒に少しは俺を探してくれるかもしれない。
でもきっといなくなった俺を探すより、ハルは水の中で泳ぎたいはずだ。俺のこともなにもかも綺麗に忘れて、そんなもの最初から存在しなかったような顔をして、水に戻っていきたがるのだろう。
水を求めて、水に恋して、誰よりも水になりたがったハルだから。
俺は多分ハルにとって、幼馴染というだけの取るに足らない存在だ。いなくなれば少しは気になるかもしれないけれど、ただそれだけ。ハルの大事なものの中に俺は残念ながら含まれてない。
どうしてそう言い切れるのかって?だって俺はハルが好きだから。ハルが水に恋したように、俺はハルに恋をしている。ハルのことならなんでもとまではいかなくても、他の誰よりよく知っている。
それだけ俺はハルを見てきた。初めて出会った時からずっと。俺はハルの目に水以外の何かが映った時を知らない。
そんな簡単な事実さえ受け入れることのできなかったいつかのこと、俺はハルに尋ねたことがある。ハルは水になりたいの?水になって俺をおいていくの?俺はハルの水になれないの?
今になって思うとなんてつまらない問いかけだろう。
その時の俺はあまりに幼く、手を伸ばしても届かないやるせなさをそのままぶつけることしか出来ない馬鹿な子供だった。馬鹿だけど鈍くはなかったから、ハルが水しか求めていないことに薄々気づいて、認めたくなくて。泣きわめいて癇癪を起こした俺に、ハルは困ったような顔をして言ったのだ。
「真琴、お前は水じゃない」
その言葉の響きと絶望は、未だ俺の心の中で鮮やかに咲き誇ったまま、突き刺さるような痛みだけもたらしていつまでも色褪せることがない。
高校生活も二年目となると慣れてないことの方が珍しい。顔見知りである売店のおばさんに取り置きしてもらっていた牛乳と焼きそばパンを携えて足取り軽く屋上へ向かう。給水塔の下の日陰には顔を突き合わせて弁当を食べる渚と怜の姿があった。
「あ、マコちゃん!こっちこっち」
「こんにちは先輩。今日はお弁当じゃないんですね」
「まあね。……ハルは来てないの?」
真っ先に浮かんだ疑問を口にすると、黄色い卵焼きを頬張りながら渚がプールを指差した。青い長方形の中心で、浮かんでいるものに目を凝らす。
「……ああ、なるほど」
遠すぎて表情は見えなくても、気持ち良さそうだと分かる。目を閉じて水だけに身体をゆだねてハルはプールに浮かんでいた。お昼ごはんは食べたのかな。あの様子だと忘れてそうだ。
口の中だけで苦笑した。本当に水が好きだなあ、分かり切ったことだけれど。渚と怜が俺の肩越しに遠くのプールへと目をやった。不満そうに頬を膨らませた渚が小ぶりな箸で唐揚げをつつく。
「ハルちゃんってば、また一人で泳ぎにいっちゃったんだよ?言ってくれたら僕だって一緒に泳ぎたかったのに」
「仕方ないよ。ハルは水が大事なんだ」
「ハルちゃんにとって大事なものは水だけなの?」
「……さあ、どうだろう」
そうだよ、と言いたかったけれど結局曖昧に言葉を濁した。無意味に渚を悲しませることはしたくないなと思ったから。
俺と渚と怜の三人が屋上から眺めていることなんて全然気づいていないハルが小さな水しぶきを立てながらプールを何度も往復している。
結び目の端まで揃える几帳面さで弁当箱を包み直した怜が俺の横顏をじっと見つめた。
「俺の顔になにかついてる?」
「いいえ。……真琴先輩は遙先輩をいつも同じ顔で見ているのだな、と思いまして」
「同じ顔?」
どういうこと、と尋ねる俺に怜ははあ、ともうん、ともつかない不明瞭な返事をした。言葉を探しあぐねるような難しい顔をして考え込んだ。小さな声で渚を呼び寄せたかと思うと、俺にだけ聞こえないようにひそひそと小声で話し始める。なにか相談しているようだ。
しばらく待つこと二、三分。背中に渚をまとわりつかせてこほんと咳払いをした怜が俺の両目を真っ直ぐに見つめた。余計なお世話かもしれませんが、予防線のような前置きを切り出す。
「以前遙先輩は言っていました。真琴先輩は自分にとって、空気のようなものなのだと」
「空気、って、なんだよ」
「どういう意味かまでは教えてくれませんでしたが、……少なくとも、真琴先輩がそんな」怜が息を吸い込んだ。「何もかも諦めたような顔をすることはないと、……僕は思います」
心臓が止まったような気がした。渚と怜の真剣な瞳を真正面から見られなくなって震えながら俯く。マコちゃん、渚が伸ばした手を見ないまま払い落とす。弱々しい音。
「聞いてみなよ、ね?マコちゃん。ハルちゃんなら、ちゃんと答えてくれる」
大丈夫だよ。大丈夫だから。再び伸ばされた渚の手が俺の背中を何度も撫でた。うずくまって鼻をすすることしか出来ない。何か言おうと思うのに、しゃくりあげてしまってままならない。
ばたん!と扉の開く音がして屋上に飛び込んでくる足音。
「真琴!」
「は、ハル?」
驚く俺をハルが抱きしめた。ぎゅうぎゅうと肩に押し付けられて息が苦しい。渚と怜が目を丸くしてハルの背中を見つめている。
よく見なくてもハルは水着だった。着替えもせずに屋上まで走ってきて、こうして俺を抱きしめていた。滲んだ涙を拭うハルにどうしたのと呟く。
「お前が泣いてるのが見えた」
「でも、ハルは泳いでて」
「こうしてやるのが俺の役目だ」
昔から俺が泣くたびに、ハルにこうされたのを思い出す。思い起こせばハルの知る限り一度も欠かされたことはない。着替える手間を惜しんでまで、俺が泣いていたからと。
力なく地面に落としていた腕を恐る恐る持ち上げる。ためらいながらハルの背に回した。染み込まなかった涙の雫がハルの肌を伝い落ちていく。
乾いた喉が、かすかに震えて。
「ハルにとって、俺は……」
ひそやかで無垢な問いかけに、ハルがゆっくりと口を開く。