小刻みに震える指先で壁に埋め込まれたインターホンを押し込む。扉越しにかすかな電子音。掛け金の外れる音がして、 僕の目前で扉が開く。

「いらっしゃい、怜」

    目元を緩めてふんわりと笑う真琴先輩に会釈をする。招かれるまま玄関に踏み込み、緊張に乾いた喉をどうにか震わせてお邪魔しますと告げた。






「適当に座ってて。なにか飲み物持ってくる」
「ありがとうございます」

    真琴先輩が階下に向かい、僕はひとり部屋に残された。シンプルな家具でまとめられた部屋の中は、背の高い真琴先輩に合わせたのだろうモノトーンの大きなベッドが床面積の三分の一ほどを占めている。
    脚の短いテーブルといくつかのクッション。テレビとゲーム機、本棚と勉強用らしい机。これといって変わったものがあるわけではないが、真琴先輩の人柄を表すように落ち着いた雰囲気の部屋だった。
    どこに座って待つべきだろうか。外から来たばかりなのだし、ベッドという選択肢はない。僕は少し迷った末、フローリングの上に正座して背負っていたリュックを傍らにおろす。

    しばらくそうして座っていると、廊下の方からぱたぱたと、慌ただしく走る音がした。この部屋に向かって近づいてくる。音の軽さから察するに子供のようだ。それも二人分。

「「ハルちゃん!!」」

    けたたましい音と共に扉が開き、輝くような笑顔を浮かべた男の子と女の子が姿を現す。僕と、目が合う。一瞬の硬直ののち、揃いのパーカーを身につけた二人はすごい勢いで引っ込んだ。

「……だれ?」
「お兄ちゃんのお友だち?」

    ひょこっ、と扉から半分だけ顔を出して、恐る恐る僕を覗き込む二人は噂に聞く真琴先輩の弟妹だろう。気の弱そうな男の子とは対照的な女の子の方が、まるで不審者でも見るような目つきで僕のことを睨んでいる。
    ご家族へのご挨拶。こういうのは第一印象がすべてだ。
    体ごと二人に向き直り、姿勢を正して床に三つ指をついた。

「はじめまして。真琴先輩と同じ水泳部の後輩で、竜ヶ崎怜といいます」
「……ハルちゃんはいないの?」
「遙先輩は来ていませんが……」

    そう告げると二人は目に見えて気落ちした表情を浮かべた。しょんぼり、がっかり、ついでにどんより。別に自分が悪いわけでもないのに罪悪感が胸を襲う。小さな子の気落ちした表情というものは精神衛生上あまり良くない。思わずすみませんと謝ってしまう。

    なにか菓子でも持っていなかっただろうか。中身を探ろうと引き寄せたリュックを目にして男の子があ!と声を上げた。

「イワトビちゃんだ!!」
「え、ああ。これですか?」

    遙先輩手作りのイワトビちゃんストラップを摘みあげる。リュックに結び付けられているそれは先日渚くんに無理やり押し付けられたものだった。捨てるに捨てられず、とりあえずつけてはいたもののまさかこんなところで役立つとは。
    恐る恐る近づいてきた二人が、僕に摘ままれたイワトビちゃんストラップをきらきらとした目で覗き込む。

「よろしければ差し上げますよ」
「いいの?」
「ええ。もちろん」

    リュックから取り外したそれを男の子に差し出せば、丸みを帯びた頬を紅潮させて綻ぶような笑顔を浮かべる。その表情がどことなく真琴先輩を思い起こさせて、やはり兄弟だなと思う。

「ずるい!蘭もイワトビちゃんほしい!」
「ちょっと待ってください、確か……」

    ごそごそとリュックの底を探る。他の荷物に隠れていたイワトビちゃんストラップを引っ張り出し、今にも男の子に飛びかかりそうな女の子へと差し出した。

「はいどうぞ」
「わあ、ありがとう!」
「どういたしまして」

    さっきまでの警戒が嘘のように気を許した表情の女の子が正座した僕の膝に座り、男の子は背中に抱きついた。高い体温に戸惑う僕を気にした様子もなくふたりは矢継ぎ早に言葉を投げかけてくる。

「あのね、わたし蘭!」
「ぼく蓮だよ」
「ねえ怜ちゃんはお兄ちゃんのお友達?」
「友達といいますか、正確には後輩です」
「お兄ちゃんね、言ってたよ。水泳部に新しいひとが入ってきたって」
「すごくやるきのあるひとだって!」
「はあ、やる気のある人、ですか」
「うん、それでね!」
「こーら、二人とも。怜を困らせちゃダメだろ」
「あ、お兄ちゃんだ!」

    コップの乗ったお盆を手にした真琴先輩が呆れたような顔をして部屋に戻ってきた。僕にまとわりついていた二人がその足元に駆け寄って、手にしたイワトビちゃんストラップを見せる。

「みて!怜ちゃんからもらったの!」
「えぇ?これ……」

    真琴先輩が苦笑する。よかったな、二人とも。そう言ってお盆を持っていない方の手で順番に二人の頭を撫でる。

「お兄ちゃんたち今から勉強するんだ。悪いけど、下で遊んでてくれるか?」

    わかった!と良い子の返事をした蘭と蓮が連れ立って階下へと去っていく。後ろ手に扉を閉めた真琴先輩はテーブルにお盆を置くと

「麦茶でよかったかな」

    そう言ってコップを差し出した。透明なグラスを受け取って頭を下げる。

「ありがとうございます。あの、先輩」
「なに?」
「勉強って……僕、何も持ってきてないんですが」
「ああ、うん。そうだよね」

    にこっと笑みを浮かべた真琴先輩に困惑する。だって今日は勉強ではなくて、遊びにきなよと誘われたのだ。久しぶりの休日だし、最近怜とふたりで過ごせてなかったから。そう言って。
    勝手に期待した僕の勘違いだったのか。真琴先輩は最初から勉強をするつもりで僕を家に呼んだのか。ひどく申し訳ない気分になって手にしたグラスに口をつける。冷たい麦茶で頭を冷やしたかった。
    膝をついた真琴先輩が僕のそばににじり寄ってくる。

「勉強っていうのは嘘だから」
「え?」
「蘭と蓮には悪いけど、今日は怜と二人で、だろ?」

    こてん、と肩に乗せられた重みに、心臓が口から飛び出しそうになった。頬に触れる柔らかな感触は真琴先輩の髪だろう。息を吸い込むとシャンプーの甘い匂いがする。
    僕と真琴先輩は恋人同士だ。とはいえキスはおろか手を繋ぐことすらしたことがない。だから、今日は正直期待しなかったといえば嘘になる。
    でも、この状況は想定外だ。腕が触れ合うほど近い距離に真琴先輩がいるというのに、僕の体は動かない。緊張に強張ってしまって指先一つ動かせなかった。
    息を詰めてじっと俯く。肩に頭を凭れさせている真琴先輩からは表情が窺えないことだろう。気づかれないように深呼吸。それから、ゆっくりと顔を上げる。

「手を、貸してください」

    膝の上に揃えていた僕の手に真琴先輩の左手が重なった。そっと指を絡めて握ると力を込めて握り返してくれる。僕のものより広い手が愛おしくてあたたかい。

「妬けるなあ」

    不意に真琴先輩が呟く。どういう意味か聞き返す前に先輩が僕の手を引き寄せる。

「俺より先に蘭と蓮が怜からプレゼント貰っちゃった」
「イワトビちゃんストラップですか?欲しいのでしたら週明けにでも渚くんに言っておきますが……」
「いいよ。俺は別のもの貰うから」
「はい。僕に用意できるものでしたら」
「……じゃあ今、欲しい」

    頬をうっすらと赤く染めた真琴先輩が僕の顔を覗き込む。引き寄せた僕の手を両手で包み、はにかむような笑みを浮かべる。
    その意味が分からないほど僕は鈍くないつもりだった。鼻先が触れ合うところまで顔を近づけて目を閉じる。真琴先輩の吐息と熱が肌に触れる。距離をなくす。

「ん、」
「…………」

    触れ合うだけの稚拙なキスを何度も繰り返しながら、僕は先輩の背に腕を回した。抱きしめて、唇を離す。赤い顔をした真琴先輩が、困ったように眉を下げて僕の肩口に額を埋める。

「恥ずかしい……」
「真琴先輩から誘ったんでしょう」
「うん……。ちょっと頑張ってみたんだけど、もう無理。恥ずかしくて死にそうだ」
「僕もです。……でも、嬉しい」

    塩素のせいか少し傷んだ真琴先輩の髪に指を差し入れる。優しく慈しむように明るい茶色を梳いていく。くすぐったそうに身をよじる真琴先輩が僕の耳元で密やかに笑う。
    その声に、もう一度キスがしたいなと思って。

「真琴先輩」

    首を傾げた真琴先輩の唇に、僕はまたひとつくちづけを落とした。






    地平線に落ちかけた陽で橙色に染まった景色。玄関先で振り向くと真琴先輩と蘭と蓮が並んで僕を見送っている。

「今日はお邪魔しました」
「うん。じゃあ、月曜日に学校で」
「またきてね、怜ちゃん!」
「こんどはぼくたちと遊ぼうね」
「はい。是非」

    蘭と蓮が手を振っている。僕のあげたイワトビちゃんストラップが手首でぶんぶんと揺れている。
    僕は小さく微笑んで彼らに手を振り返した。きっとまたすぐに会えるのだろう、そんな予感がしていた。

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