2.
プールを囲むフェンスの扉を叩きつけるようにして開く。
おかえり、という渚を通り越して紫色の唇をしたハルの胸に飛びこんだ。俺より背の低いハルに抱きついてぐすぐすと鼻を啜り上げる。
また冷たい水の中で泳いでいたのだろう、ハルの体は冷たかったけれど俺がそう求める前にしっかりと両腕で抱きしめ返してくれる。
腕の中でハルちゃんと呼んでもいつもみたいに怒られない。ただ、何度も何度もゆっくりとパーカー越しに背中を撫でられる。
「ど、どうしたの?!マコちゃん、なんで泣いてるの?!」
「何があったんだ、真琴」
慌てた渚の問いかけと、ハルの優しい声。
思わず口を開きかけて、言えるわけがない。そう思って口を閉ざす。
黙ったまま首を振り、袖で目元の水分を拭った。息を整えて顔を上げる。
「ご、めん。なんでもない。大丈夫だから」
「なんでもないわけないだろう」
ハルの目にはっきりとした怒りが浮かぶ。言え、と視線で強要される。
それでも俺はもう一度、なんでもないから、と繰り返した。
焦れたようにハルが俺を呼ぶ。渚の手が頭を撫でている。フェンスの扉が開く音。
「真琴先輩!!」
ハルの腕に力がこもった。俺が身を竦めたからだろう。
怜の足音が俺の背後でぴたりと止まる。彼も走ってきたようで、ひどく荒い呼吸をしていた。
あの女生徒はどうしたのだろう、喉からせり上がるその疑問を無理やり胃の底へ押しこめる。
「お前が真琴を泣かせたのか」
「そうなの?怜ちゃん」
「違います!……っ、いや、でも、僕のせいであることは確かです」
苦鳴を漏らすような声で怜はそう言った。
振り向こうとした俺の頭をハルの手のひらが抑え込んだ。
黙っていろと言うようにハルの肩口へと押し付けられる。ほんの少し息がし辛かった。
「話を、……話を聞いてください。お願いだ」
「……内容によっては容赦しない」
後頭部がハルの手から解放されて、俺はようやく振り向くことが出来た。
走って俺を追いかけてきた怜の顔を見た。
困ったのと悲しいのとを複雑に混ぜ合わせたような、そんな表情をしている。けれどその目は真剣で、どことなく必死さを滲ませていた。
ハルの指が俺の右手に絡む。俺の方に傾けられた視線が心配するなと伝えてくる。
強く唇を噛んだあと、重たげに口を開いた怜がぽつぽつと話し始めた。
「僕は、ある女子に手紙で呼び出されました。用件は、その、……好きな人がいるのだと」
好きな人。それは当然怜のことだろう。
告白するために呼び出して、僕も好きだと返事を貰ったのだ。あの女の子はあんなにも優しい顔をした怜から、好きだと、言われて。
鼻の奥がつんとなって、止まっていた涙が再び視界を歪めていく。
雫がこぼれ落ちるより一足先に、渚が自分の服の袖で柔らかく目元を拭ってくれた。「それで」とハルが続きを促す。
「彼女は僕に、好きな人との仲を取り持ってくれと言いました」
「えっ?怜ちゃんが告白されたんじゃないの?」
「違う。彼女が好きなのは別の、……つまり、僕が水泳部なので」
怜の指先が赤いセルフレームの眼鏡を持ち上げた。
「彼女は真琴先輩のことが好きなんだそうです」
「……え、俺?」
「はい。……聞いていたんじゃないんですか?」
「や、あの、遠くてあんまり聞こえなかったし、女の子の声なんて全然……、怜が女の子に好きだって、言ったぐらいしか」
「じゃあどうして、……僕はてっきり、気持ちが悪くて逃げたのだと」
「気持ちが悪い?どういうことだ」
全く事情が読み取れず焦れたハルが問いかける。
困惑した表情の怜が細い眉を僅かに顰めた。言うべきか否か逡巡するように瞳が左右へ小さく揺れた。
やがて意を決したように、レンズ越しの整った両目が俺の視線を真正面から捕まえる。
「彼女に断りの返事をしたあと、理由を聞かれて、……言ったんです。僕も、同じ人が好きだからだ、と」

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テーマ「人外ファンタジー」
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