深い深い海の底を思わせるアリーナの最深部で、一つの勝負が終わりを告げた。
大した相手ではなかった。敗者と勝者を隔てる電子の壁の向こうで、荒い息を吐いて地面に崩れ落ちている対戦者を見て、ユリウスは無感動にそう思った。
この月での聖杯戦争も4回戦目となり、対戦相手も一筋縄ではいかなくなってきている。ユリウスは今回もアリーナでの試合前に片をつけてしまおうと何回か襲撃をしていたが、この対戦相手はかろうじてではあったがその襲撃をすり抜けて、ユリウスをこの真正面から戦わざるをえない試合へとひきずりだした。今まで全ての試合において、7日目が来るまでに相手を始末していたユリウスにとって、このアリーナの底で試合をするのは初めてのことだ。だからこそ少しばかり相手の力量に警戒を抱いてはいたのだが、しかし対戦相手である女は、ユリウスの障害となる敵ではなかった。
女のサーヴァントは、すでに黒いノイズに覆われて単なるデータとして消滅していった。倒れ伏している女も、やがてサーヴァントと同じように消滅していく。いや、それだけではない。この月の聖杯戦争では、ウィザードと呼ばれる魔術師達は自らの魂と肉体を霊子に変えてこのムーンセルへとアクセスしているため、本来の肉体は地球に残してある。しかしその肉体も、この聖杯戦争で敗北すれば自動的にその活動を停止させる。要するに、この聖杯戦争での敗北は、すなわち死であった。
トーナメント式のこの戦争では、最後まで勝ち残ったもの、つまり優勝者のみがこの月から生きて地球へと帰ることができる。敗者の上には等しく死が降り注ぎ、そしてそれは、ハーウェイの次期党首たるレオを優勝させようとここに送り込まれてきたユリウスにとっても、避けようがない未来であった。もちろん彼はそれを全て知った上で、レオの為に暗躍しているのだが。

「まだ戻れないのか」

「呵々、どうやらそのようだな。相手が消滅するまで待たねばならないらしい」

自らのサーヴァントの言葉に、ユリウスは苛立ちのあまり舌打ちを零す。時間は有限であり、一刻も無駄にはしたくはない。既に死を迎えるだけの対戦相手に構っている暇など、ユリウスには無かった。
ユリウスは、黒いノイズに覆われながらも未だ形を保っている対戦相手であった女へと視線を向ける。座り込み、俯いた女の表情は伺えない。
元々興味が無かったからか、ユリウスは今まで戦っていたこの女の顔や名前をぼんやりとしか思い出せなかった。彼にとって、いちいち殺す相手の顔や名前を覚えていることは無意味なものだ。ハーウェイにとって自分は有用なのだと示すために、ありとあらゆる裏仕事に手を染めてきたユリウスは、老若男女を問わず闇に葬り、『黒蠍』の異名とハーウェイでの地位を手に入れた。今回の任務、この月の聖杯戦争でレオを優勝させるという目的のためには、他のマスターたちは全てユリウスにとっては排除すべき障害物で、そこに個はなかった。いや、一人だけユリウスに苛立ちを与えてくる、なんとも平和ボケしたマスターがいたが、しかしそれはやがてこの過酷な聖杯戦争で淘汰されるべき人間だ。さしたる脅威ではない。
脳裏によぎった顔を追い払うかのように頭を軽く振ったユリウスは、敗者と勝者を分ける電子の障壁へと近づく。ユリウスが近づいたことに気がついているであろうに、女は顔をあげる様子はない。それにさらに苛立ちを覚え、眉間に皺を寄せながらユリウスは女へと鋭い視線を投げかけた。

「・・・ふ、ふふ」

「・・・気でも狂ったか」

ユリウスの視線を知ってか知らずか、女は肩を揺らして微かに笑い声を漏らした。死を間際にした人間が、その恐怖に耐えかねて気を狂わせるのは珍しい話ではない。
この女もその類かと、ユリウスがほとほと呆れながら彼女に背を向けようとしたそのときだった。小さくも凛とした声がユリウスの鼓膜を震わせたのは。

「狂ってなどいません。私は嬉しいのです、そう、とても」

「なんだと?」

その声に、女が発する言葉の内容に、ユリウスは後ろを振り向きかけていた顔を女へと向き直した。女はもう俯いてなどおらず、ノイズに侵されて顔面の半分を失いながらも顔に満面の笑みを浮かべてまっすぐユリウスをみつめていた。彼女の言葉通り、優しげに細められたその瞳には喜びの色が滲んでおり、口元はうっすらと弧を描いている。それは到底、自分を殺した相手に向ける顔ではない。
長い間暗殺稼業に携わっていたユリウスにとって、このような歓喜の顔を向けられるのは初めてで、その不気味さに彼は思わず言葉を失った。目の前の女は何を言っているのか、何を喜んでるというのか。
わけがわからないものを相手にしたとき、人間は本能的に恐怖を感じるという。ユリウスは自らが恐怖を抱いている等とは到底認めたくはなかった。それも既に死にかけた、サーヴァントすら連れていないタダの非力な人間一人に、恐怖を感じているなど。それはユリウスにとっては許しがたいことで、彼はもう一度目の前の女を射殺さんばかりに睨みつけた。

「何が嬉しいというのだ。お前はもう死ぬのに」

「そう死ぬからです。他でもない貴方の手によって」

そう言って、女は再び笑い声をあげた。死に向かっているとは思えないほど、軽やかで明るい笑い声がアリーナの中に響く。暗く深いアリーナの中で、女だけが異質で歪だった。

「俺を知っていたのか」

「ええ、この月の中で見かけてから、ずっと貴方と戦うのを心待ちにしていました。対戦相手が貴方だと知ったとき、どれほど私が歓喜したか」

「何故俺に執着する」

女はユリウスの疑問に答えることなく、嫣然と微笑んだ。もはやノイズは腕も足も、女の体を侵食していた。消滅するまで間もないというのに、女の顔には恐怖の色など微塵も浮かんでいない。それがユリウスには不可解で仕方が無かった。
女はユリウスから視線を外し、夢見る少女のような面持ちで遠くをみつめた。

「少しくだらない話をしても?」

「おう、構わんぞ」

「・・・アサシン」

「ははは、よいではないかユリウス。死にいく者の最後の言葉ぐらい、聞くぐらいの度量がなくてはな」

女の言葉に愉快そうな笑みを隠そうともせずに頷いたのは、ユリウスのサーヴァントだった。咎める声を出すも、このサーヴァントは腕を組み、余裕を滲ませながら呵々と大声で笑った。完全に状況を楽しんでいるようだ。
女はアサシンの声に、まあと嬉しそうな声をあげて、ゆっくりと話し始めた。

「私は元々病に冒され、長くは生きられない身でした。自分の死に場所は自分で決めたい。そう思ってこの月の聖杯戦争に参加したのです。生き残ろうだなんて、最初からかなわぬ夢でした」

「死ぬつもりだったのか」

「ええ。だからずっと探していたのです。私は私を殺してくれる人を。この人になら殺されてもいいと思える人を」

「それが俺だったということか。くだらないな」

最初から死ぬつもりだったから、死に瀕してもこれほど穏やかなのか。理由さえわかってしまえば、もうユリウスは先ほどのような得たいの知れない気持ち悪さを女から感じることは無かった。
つまらない人間に時間も手間も取ってしまったという苛立ちをこめながら、ユリウスは女の思想をくだらないと吐き捨る。しかし女はなおもユリウスに熱に浮かされたような視線を送りながら、ほうと辛そうに息を吐いた。もはや女の体の半分以上は崩れ始めていた。

「貴方が良かったのです。貴方が誰よりも死に近かった。私に、近かった」

「お前と俺が近いだと?」

「ええ。だって貴方も諦めているのでしょう?生きることを」

一目見てわかりました。そう言って女は笑う。
そう言われれば、確かにそうだった。ユリウスはこの聖杯戦争で、どのような結果であれ最終的に死ぬ人間であった。レオが玉座に手をかけるまでそれを命をかけてサポートし、その後レオの為に死ぬのがユリウスの役目である。例え地球に戻っても、ユリウスの命は長くない。元々の個体寿命が短い上に、ハーウェイの力を駆使したスパコンと接続しているユリウスは、このムーンセルで様々な違法行為すれすれの事を行っているが、その負担はすべて地上の肉体へと向けられている。もはや地上にあるユリウスの肉体はとうに限界を超え、死体といってもそれほど間違いではない状態であった。ユリウスに戻る場所はなく、ただ死へと突き進むだけの存在でしかない。
それをこの女は知っていたのか。いや、知らなかっただろう。ユリウスを見て、そして同じ匂いをかぎ分けたのだ。そうしてずっとユリウスに殺されるのを心待ちにしていたと、そう言っているのだ。
最初に感じた不気味さが、ぞわぞわと背筋をはってユリウスに再び襲い掛かる。この女の執念が、執着が、恐ろしいと思った。死にかけていながらも、なお優しく笑みを浮かべて、蛇のようにユリウスの心に纏わりついてくる。
ふとアサシンのほうに視線を向ければ、歴戦の強者であるこのサーヴァントも顔に浮かべていたはずの笑みを捨て去って、得たいの知れないものを見るかのような目で女を見つめていた。
二人の視線を受けて、しかし女はなおも笑みを崩さない。もはや顔の大部分が黒いノイズに侵されており、真っ黒な底の見えない深遠が彼女を覆っている。ぼろぼろと体が崩れていくのがユリウスの視界の端に映る。

「ああ、ああ、やっと願いが叶う。貴方のその無機質な硝子のような瞳に私が映ればいいのにと、そうずっと思っていました」

「お前を殺したことなど、俺にとっては些細なことだ」

「それでいいのです。貴方の心に残ることなど、私は欠片も望んでいないのだから」

「傲慢だな」

「ええそうです。自分の望みを叶えることは、他の誰かを踏み台にすること。それ故に常に傲慢なのです」

いっそ清清しいほどに、女は自らの為に自らの願望を叶えようとし、そしてそれに成功した。彼女にとっての聖杯は、この月ではなくユリウスであったのだ。
この女にとってユリウスという存在が何だったのか。それを理解することはユリウスにはできなかった。普通ならば恋慕の情といえるかもしれないが、しかし、女が自分に向けるものは恋というにはあまりに刹那的で、愛というにはあまりに独りよがりだった。それでも女は、女の望む死を与えた自分に、まるで恋をしているかのような酷く甘ったるい顔で笑いかけるのだ。うっとりと、熱をこめて。
ノイズの音が激しくなる。電子の壁の向こう側で、彼女の顔のかろうじて残っていた部分が、じじっと小さな音を立てて揺れた。体の崩壊の時が近いのだろう。ユリウスが言葉を発するよりも早く、彼女は力を振り絞って喉奥から声を絞り出した。

「本当に伝えたいことは違うけれども、死ぬ私にそれを言う資格はない。だからせめて言わせてください」

「何をだ」

「貴方に殺されたかった。貴方になら殺されても良いと、一目見たときからそう思っていました。私は幸せです」

この世の誰よりも幸福だというかのように、望みうる全てが叶ったとでもいうかのように、女はゆるりと微笑んだ。ユリウスの脳裏に、彼にとって最も忘れがたい遠い日の記憶が蘇る。ユリウスにとって最も尊い女性が、恐ろしく透き通った儚くも美しい笑みを浮かべて、柔らかく微笑んでいる。レオをよろしくね、とどこまでも優しい声で彼女がユリウスに願ったから、だから彼はここにいるのだ。レオを勝たせるために。
彼女の笑みが、目の前の女に重なる。女は彼女ではないのに、体はぼろぼろに崩れかけ笑みすらもはやノイズの侵食によって歪んでいるというのに、それでも笑おうとするその姿が酷くユリウスの胸をざわめかせた。ユリウスにとって一番尊い、ただ一つの温かな記憶が、女から目をそらすのをユリウスに許さなかった。

「名前は」

「え?」

「お前の、名前は」

それは、ほんの気紛れに過ぎなかった。きっとこの先思い出すことも無く、この瞬間にしか意味の無い行為ではあったが、自分に殺されて喜んで死んでいく女の名前を最後に聞くぐらいはしてもいいだろう。そうユリウスは思ったのだ。
ユリウスの言葉に、女はそのとき初めて笑みを崩した。呆然と、ありえないものを聞いたかのように目を見開いた女は、先ほどまでとは打って変わって、震える声で自らの名前を紡いだ。

「なまえ、です」

「なまえか」

ユリウスの口から女の名前が転がり落ちるのと同時に、女の残った片目から、透明な雫が一つ零れ落ちた。眩しいものを見るかのようにユリウスをみつめた女は、最後に何事かを口にしようとして、しかし己の体の限界を悟ったのか口を閉じる。そうして、女が満足そうに静かに目を閉じた途端、女の体は崩れ落ち、ただのデータとして跡形も無く消えていってしまった。
女の消滅と同時に、二人の間を隔てていた障壁は解除され、アリーナから校舎へと戻るためのエレベーターが音も無く現れる。消滅した女の痕跡はもうどこにも残っておらず、まるでこのアリーナの最深部に最初から女など存在していなかったかのようであった。女が崩れ落ちていた場所を一瞥して、ユリウスは今度こそ背を向けてエレベーターへと向かう。アサシンは何かを言いたげな顔をしてユリウスを見ていたが、しかし結局何も口にはせずにユリウスの後に続いた。
エレベーターを動かす前にもう一度、女がいた場所にユリウスは目を向けた。女との戦いは、確かに予想もしない終わり方を迎えたが、しかしそれはユリウスの心を動かすほどのものではなかった。ユリウスはこれからも何も変わらず、そして当初の目的どおりレオの為に死ぬのだろう。それは決して変わらないことだ。
それでも、とユリウスは自分に問いかける。果たして自分はその最後の時に、あの女のように満足して死ぬことができるのだろうか、と。
自分の中に生まれた小さな感傷を振り払うかのように、ユリウスは女がいた場所から無理矢理視線を外す。そうしてここでの出来事を全てこの海の底に閉じ込めてしまうかのように、月の校舎へと戻るボタンを押したのであった。
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